第12話 弱い人が、一番強いのです

 主教座大聖堂の礼拝堂の巨大な扉を押し開けると、荘厳な音楽が聞こえてきた。マムラカじゅうの司祭や司祭候補生たち、主教の膝元に表敬訪問している修道士たちが声を合わせて讃美歌を歌っているのだ。

 その合唱は本来エレミヤも加わるはずだったものだ。

 でも今はもうただ無心に歌うことなどできない。


 まるで外の騒ぎなど何でもなかったかのように声をより合わせ続ける人々――これがマムラカの現実から目を背けて生きてきたルーサ民族の正体ではないのか。


 エレミヤは声を張り上げた。


「聖キプリアヌス猊下げいか!!」


 合唱で鍛えられたエレミヤの腹筋はエレミヤの声を礼拝堂じゅうに響かせた。


 歌声がやむ。男たちが歌うのをやめてささやき合う。ざわめきが広がる。

 ある者は、あれは誰か、と。ある者は、あれはなぜか、と。

 中にはエレミヤの同期や親戚もいるのだ。


 それでも、負けない。


 エレミヤは中央の通路を駆け抜けた。礼拝堂の中を走るのは禁忌だったが、そんなことを言っている場合ではなかった。


 窓から月光が差し入る。無数の蝋燭の明かりが揺らめく。その上エレミヤは興奮している。

 明るい、と感じた。この主教座大聖堂は明るい――建物の外側、爆発音が響く夜の闇とは違って、だ。


 説教壇の前に立った。


 その説教壇の後ろには、大きな椅子が据え付けられていた。黄金と赤い布で作られている王者の玉座にも似たその椅子は、マムラカで一番の高僧、主教だけが座ることを許される主教座だ。


 主教である聖キプリアヌス三世は齢七十八の老人だ。

 彼の顔はしみとしわだらけだった。脚を悪くする二、三年前まで長い間苛酷な日光の下で働く民に寄り添ってきたために肌が傷んだのだ。

 だが、彼はそんな顔にいつも笑みをたたえていた。穏やかで、静かで、生きながらすでに半分天国の門をくぐりそうな気配を感じる、超越者だ。エレミヤはずっと彼こそ理想の聖職者なのだと信じていた。


 その聖キプリアヌス三世に詰め寄るため、エレミヤは説教壇を駆け上がった。


 突如現れた少年の無礼に驚いた司祭たちが、怒鳴り声を上げながらエレミヤに駆け寄ってきた。

 無数の腕が伸びる。エレミヤの服をつかむ。


 負けない。


 エレミヤは主教の目の前にひざまずいて、主教の白い司祭服の膝をつかんだ。


「猊下は何とも思わないのですか」


 主教は穏やかに微笑んでいる。


「あなたの子供たちが都に火を放っているのです……! 都に――他の信仰を持つ人々の礼拝堂に爆発物を投げ込んでいるんです!」


 悲しくて、悔しくて、涙があふれてきた。


「祈る人が祈る人を殺してもいいんですか」


 エレミヤの脳裏に、次から次へと異民族の人々の顔が浮かんできた。

 金物通りに住むマシュリク商人たち。武器通りに住むマシュリク商人たち。アリアナ人やカムガイ人の『鷹』たち。カムガイ人にルーツをもつオルハン。アリアナ人にルーツをもつ双子。

 みんな優しかったじゃないか。

 みんなルーサ人であるエレミヤに冷たくなんかなかったじゃないか。


 みんな、違う形で祈っているけれど。

 みんな、神に祈っている。


 ある人は金曜日に。ある人は日曜日に。

 ある人はひざまずきながら。ある人は両手を組みながら。


「僕は悔しいです」


 頬に流れる涙をそのままに、エレミヤは訴えた。


「僕には何の力もないんです。僕は弱い。でもあなたにはルーサ人としてのすべてがある。すべてのルーサ人に号令をかけるだけの力がある。あなたより強い人はルーサ人には存在しないんです」


 主教の年老いたために濁った目が、エレミヤをまっすぐ見つめている。


「あなたの名のもとに異教徒の祈りを侵害する自由同盟のためにあなたは祈るんですか」


 そこから先は言葉にならなかった。エレミヤは嗚咽に言葉を掻き消されて主教の白い司祭服の膝に顔を埋めた。


 少しの間、人々は静まり返っていた。

 だが、大聖堂の外からはなおも爆発音と悲鳴が聞こえてきていた。

 この中だけが静かなのだ。不気味だ。

 こんな不気味な世界に守られて自分は生きてきたのだ。

 自分はなんて弱いのだろう。


 どれくらい経った頃だろうか。


 かさついた手に、やわやわと、頭を撫でられた。


「エレミヤ」


 主教のしわがれた声がエレミヤの頭上に降り注いできた。

 驚いた。主教は、一司祭の息子に過ぎない、一人の司祭見習いに過ぎない自分の顔と名前を記憶しているのか。

 否、彼は生きながらにしてすでに聖人なのだ。七十八の高齢だが、主教座大聖堂に出入りするすべての信徒の顔と名前を記憶していてもおかしくない。エレミヤの目にはそれくらい彼は偉大な人に映っていた。


「顔を上げなさい」


 言われるがまま、顔を上げた。


 主教はなおも、微笑んでいた。


「立ちなさい」


 これもまた、言われたとおりに立ち上がった。


「少し下がってください」


 一歩分、後ろに下がる。


 急に主教が立ち上がった。


「猊下!?」


 エレミヤも数人の司祭も驚いて声を上げたが、主教はなおも微笑んでいた。


「出頭しましょう」


 落ち着いた、穏やかな声だった。


「私が責任を取りましょう。私はもう十分生きました」

「猊下……?」

「自由同盟の若者たちの罪は私一人の命であがなえるものではないかもしれません。ですが私には彼らの行動を見逃してきた私自身の罪を背負って地獄に落ちる必要はあると思います」


 エレミヤはまた、その場でしゃがみ込んでしまった。


「エレミヤ」


 また、主教がエレミヤの頭を撫でる。


「お前の言うとおりです。我々に必要なのは自分の祈りを守ることであり、他人の祈りを攻めることではありません。主は右の頬を打たれたら左の頬も差し出せと言われました。それでも若者たちにはルーサ王国を滅ぼされた――父母を殺された痛みを晴らすために活動することが必要であるというのならば、気が済むまでさせてみようかと思いました。ですが、さらにその子供であるお前に気づかされました。誤っていたのは私です。私は彼らの父母の代わりに彼らを叱らなければならなかったのでしょう」


 そして、周囲を見回して「皆さん、それぞれ知り合いの自由同盟の志士たちに呼びかけてくださいませんか」と働きかけた。


「もう終わりにしましょう。私たちは共存する道を考えるべきなのです」


 数人が鼻をすすった。また別の数人は段を下りて扉のほうに走っていった。


「さあ、私は帝都防衛隊のところへ行きましょう。腐っても主教です、私個人は無力ですが、私の肩書にはそれなりの意味があると思います」


 エレミヤは泣きながら頷いた。


「手を貸してくださいませんか、エレミヤ。私はもう目も足も悪くてうまく歩けないのです。そろそろ神に召される身なのですよ」


 そう言って、主教がエレミヤに向かって手を伸ばした。その手は細かく震えている。そういう年齢なのだ。エレミヤはその手を強く握り締めた。なんととうとい手だろう。


「エレミヤ」


 彼は、微笑んでいる。


「最後にひとつ説教をしますので、聞いてください」

「何でしょう?」

「自分の弱さを知っている人は思い上がることがありません。自らの強さを過信して失敗することがないのです。自分の弱さを知ることです。弱い人が、一番強いのです」


 エレミヤは、何度も何度も頷いた。


「主はお前の正直な行いを見ておられます。祈りなさい。お前はきっと、救われるでしょう」



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