第10話 聖ポリュカルポスの日のはじまり
ロスタムの目が覚めたのは翌日の夕方だった。彼が意識を失ってから丸一日経過した頃のことだ。
白磁のように滑らかで冷ややかだった頬がわずかに赤みを取り戻す。蒼白くかさついていた唇がかすかにわななく。長く密集した睫毛がゆっくり持ち上がり、黒曜石のような瞳が少しずつ見えてくる。
この子、基本的に美少女なんだよな。と、エレミヤは場違いにもそんなことを考えた。
彼はおもむろに上半身を起こした。まだ目眩でもするのかうつむいて額を押さえているが、どうやら意識はあるようだ。
柱にもたれかかってぼんやりしていたオルハンが、慌てた顔をしてロスタムのすぐそばに膝をついた。
ロスタムが顔を上げ、オルハンを見る。
「ここ、どこですか?」
「病院だ。マタル
「病院に来てからどれくらい経ちました?」
「ちょうど一日経ったところだ」
ちなみにこの間エレミヤも病院にいた。教会や学問所ではもうすぐそこに迫っている聖ポリュカルポスの日の礼拝に向けて準備をしているに違いないが、エレミヤはあえてルーサ人の身内の中でなく厳しい外界に身を置こうと思ったのだ。
純粋にロスタムとオルハンが心配だったのもある。ロスタムはこんこんと眠り続けていたし、オルハンはそんなロスタムに寝ないで寄り添っている。エレミヤは途中少し寝てしまったが、オルハンのために着替えを取ってきたり食事を貰ってきたりしていた。
ロスタムがきょろきょろとあたりを見回す。
「ミーネは?」
オルハンもエレミヤも何も答えなかった。
そんな二人を見て、ロスタムは察したらしい。
「あのままイオアンさんにどこかに連れていかれちゃったんですか?」
「ごめんな」
「ごめん……」
「あららら!」
ちょっと能天気な反応と大袈裟な声量にほっと息を吐く。ロスタムがいつもどおりに見える――それが救いだ。
「なんですか、二人とも、この世の終わりみたいな顔して」
オルハンが「はーっ」と声を出して息を吐く。
「俺にとっちゃこの世の終わりだったわ。お前の意識はないし、ミーネはどこで何されてるかわからんし」
「人間は手首切っただけじゃ死なないのでは? ましてぼくは四分の一
「ばーか、自分で切るのは死なないかもしれんけど他人に切られたら死ぬかもしれんわ」
「ミーネはたぶん大丈夫だと思います。本当に何かあったらすごいあれな感じなものを感じると思います、今までそういう本当に何かあった時っていうのがなかったんで根拠はないんですけど」
崩れ落ちるように背後に手をついたオルハンに代わり、エレミヤがロスタムに問いかける。
「ミーネが今どこで何してるかわかる?」
ロスタムが斜め上を見ながら「ちょっと待ってくださいね」と答える。
「魔法で声をかけてみます。起きてたら返事をするかもしれません」
「いやさすがにこの状況じゃ起きてるでしょ……」
「いやいや寝てるかもしれん……ミーネの神経の太さを甘く見ないほうがいい……」
長い睫毛を伏せる。細く長く息を吐く。
ロスタムの白い首に、赤銅色の
しかしそんなにすごく大量の魔力を消費しているわけではないのか、今回のロスタムは顎でひとつ花が咲いただけで残念ながらちょっと地味だった。
少しの間、ロスタムが黙る。
「……起こしました」
「寝てたんかい」
ロスタムの左手がオルハンの右手首を、右手がエレミヤの左手首をつかむ。手が触れた瞬間ちょっとドキッとしてしまったのは内緒だ。
魔法の声が伝わってくる。
『まあなんとかなるって思ってましたよーん』
タハミーネの声だ。やっぱりどこか能天気で、エレミヤもオルハンも大きな溜息をつきながら肩の力を抜いた。
「ミーネ、今どこにいるの?」
『わかんない。なんだか大きな、倉庫? みたいなところにいるんだけど、目隠しされて舟に載せられたから……ディジュラー川のほとりなのはわかるんだけど、どこの
「ディジュラー川のほとり?」
『おトイレが水洗なの。穴の下にそのまま流してるのよ。こんなの運川でやったひんしゅくどころじゃないでしょ。ディジュラー川につながってるんだと思うわ』
ディジュラー川とは、マムラカの中央を流れる大川のことだ。北部の山岳地帯から流れてきてマムラカの少し南にある海につながっている。
大都市を支える川だ。幅が広く長い。しかもマムラカの街は川の東西に広がっている。それだけでは特定できない。
エレミヤは小声で「今誰かがそばにいる?」と質問した。
「こんなに普通にしゃべってて誰かに何か言われたりしない?」
ロスタムが首を横に振って「ロスが二人にわかりやすいように声を出してしゃべってるだけでミーネは無言で念じてるだけだと思います」と答える。これは魔法で、普通の会話とは違う。
「ただ……、あんまり長時間べらべらしゃべり続けるのは難しいと思いますね」
「なんで?」
「ミーネの首や顔にも模様が浮かんでいるはずだからです。そんなのイオアンさんに見つかったらぼくらが魔法で通信してるのバレちゃいます」
よく知っているはずのオルハンまで慌てた様子でロスタムに質問した。
「場所を特定できるような情報をもっとしゃべらせろ」
「わかりました」
ロスタムがタハミーネに問いかける。タハミーネの舌足らずな甘い声が答える。
『小さな窓があるんですけど、そこから大きなドームと塔が見えます。ドームが一個、そのドームを囲むように四本。その全部のてっぺんに十字架がついてる』
「天主教教会かな?」
「そんなん腐るほどあるわ」
「悪かったですねルーサ使徒教会だけで三十カ所ありますよ他の東方教会や西方教会をあわせたら百は超えますよ腐っててすみません」
だが、ひとつのドームに四本の塔、すべてのてっぺんに十字架がついている、となるとかなり大きな教会だ。エレミヤの家のような一般的な建物ではない。
『うーん、窓が小さくてよくわかんない……』
「倉庫と言ったな? 何がある倉庫なんだ?」
『わかんない。大きな木箱がたくさんあって……イオアンさんがずっとワインを飲んでるので、たぶんもともとはワインの貯蔵庫だったんじゃないかな、と思ったんですけど、なんか……この臭い、飲食物の臭いじゃない……?』
「臭い?」
『鼻につく臭いがする……なんか卵が腐ったみたいな――』
その時だった。
どぉん、という、腹にくる音が響いた。
三人は驚いて音のしたほうを見た。タハミーネのほうではない、自分たちのほうのどこかで何かが起こっている。
「何だ? 今の」
「何かが爆発したみたいな音でしたね」
「何が――」
音は断続的に続いた。
入院患者たちはきょとんとした顔で音のほうを見ているだけだったが、そのうち医師や助手たちがばらばらと駆け出し始めた。
「怪我人が出たらしい!」
「防衛隊に通報しろ!」
何かが、起こっている。
『あ』
魔法はまだつながっていた。
タハミーネが何かを呟いた。
『誰か――何人かひとが来た。イオアンさんとしゃべってる――ルーサ語? 聞き取れない』
「……ミーネ」
『はい』
「そこを動くなよ」
建物が揺れた。
鼻につく臭いがした。
「硫黄だ!」
オルハンがロスタムの手を振り切った。ロスタムもエレミヤから手を離し、立ち上がり、音のしたほうへ駆け出した。
病院の外に出てようやく何が起こっているのかわかった。
「火薬だ」
オルハンが顔をしかめる。
「爆弾だ」
エレミヤは悪寒が背筋を駆け上がっていくのを感じた。
それは大陸最新の兵器だ。風の噂で東方で発明されたと聞いたが、実在はマムラカの誰も確かめたことのない存在、のはずだった。
東方から、マムラカに爆弾を持ち込んだ者がいる。
決まっている。ルーサ商人だ。大陸じゅうに張り巡らされたルーサ人ネットワークが、そしてそのネットワークが築き上げた巨万の富が、東方から爆弾を仕入れたのだ。
「ミーネがいるのは爆弾を保管している倉庫だな」
ディジュラー川のほとり――十字架ののったひとつのドームとよっつの塔――もとはワインの貯蔵庫だった。
エレミヤは、唾を飲んだ。
「ニザール
オルハンとロスタムが振り向き、「え?」と首を傾げる。
拳を握り締め、現実を、直視する。
「ミーネが見た十字架は主教座大聖堂の屋根についているものだと思います。大聖堂にワインを卸していた倉庫にいるんだと思います」
いつの間にか、太陽が沈み、日付が変わっていた。
聖ポリュカルポスの日だ。
マムラカのあちこちから、爆発音と悲鳴が聞こえてくる。ようやく異常事態に気づいた入院患者やその家族らが逃げようと荷物をまとめ始める。
「ルーサ使徒教会の、主教座大聖堂の、近くだと思います」
三人はそれぞれに互いの顔を見た。
エレミヤにとっては、それは、内部告発も同然の行為だった。
自由同盟は、司祭の集団なのだ。
自分の身内が、こんなことをしているのだ。
少女を誘拐し、爆発物を輸入し、他の宗教の礼拝所を攻撃する――これがルーサ使徒教会の司祭のすることなのだ。
下唇を噛んでうつむいたエレミヤの肩を、オルハンが叩いた。
「ありがとな」
そして、オルハンは、片手でロスタムの手首を、もう片方の手でエレミヤの手首をつかんだ。
「行くぞ」
「えっ」
「目を閉じてろ」
一瞬、視界が真っ白になった。
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