第9話 おかわいそうに!
タハミーネは一睡もできなかった。極度の疲労に見舞われているはずだが、眠いとは感じなかった。神経が高ぶっているのだろう。
高いところにある小さな窓から、陽の光が差し込んできている。夜が明けたらしい。
あのあと、タハミーネは、頭から男物の大きなマントをかぶせられ、目隠しされた状態で運ばれた。
イオアンはタハミーネを荷物のように担いだまましばらく徒歩移動した。白昼堂々こんなことをやってのけるとは、ラフマン通りの治安が悪過ぎるのか、本当にただの荷物だと思われたのか――商品を担いで移動する肉体労働と紙一重のルーサ商人は多い。
ややして、イオアンはタハミーネを舟に載せた。マムラカには蜘蛛の巣状に運川が張り巡らされていて、大きな荷物を運ぶ時は――特に商人は――よく舟を使う。これも目隠しされたままだったのでどこの船着場から出発したのかはわからないが、かなりの距離を移動した気がする。
最終的にたどりついたのは、大きな建物の中だった。
イオアンは、タハミーネを地面に下ろすと、「そこで大人しくしてろ」と言って離れていった。
特に縛り上げられているわけではない。両手も両足も自由に使える。
おそるおそるマントを剥がして、周囲の様子をうかがう。
どうやら倉庫のようだ。タハミーネは木製の巨大な箱のようなもののそばに座らされている。ほこりと、あと、よくわからないが何かが腐ったような臭いがする。
イオアンは少し離れたところで大きな木箱にもたれかかっていた。その左手には緑色の瓶が握られていて、直接口をつけて中身を飲んでいる。瓶の中の液体がとぷとぷと揺れている。赤い色、強い臭い――たぶんワインだ。天主教の連中が日曜日に救世主の血だか何だかと言って飲むやつで、昔はルーサ王国の名産品だったと聞いたことがある。
もう少しあたりの様子を眺める。
出入り口はひとつだけのようだ。出ていくためにはイオアンの目の前を通過しなければならない。この調子で酒を飲んで酔っ払ってくれたらチャンスも――と思ったが、タハミーネにはここがマムラカのどこかわからなかった。魔都マムラカは迷宮だ。道に不案内な人間が一人で出歩いて無事に目的地にたどりつくことはない。十三歳の特に鍛えているわけでもないタハミーネが不慣れな土地を走って逃げるのは無茶だ。
そっと、まぶたを下ろす。意識を集中する。自分の中にめぐる血、その血液とともに流れる魔力の存在を感じる。
お願いロス、気づいて。
呼びかける。何度も。何度も、何度も。願うように、祈るように。
返事が来ない。
無だ。真っ暗な闇しか見えない。何のぬくもりも感じない。
意識がない。
目を開けて、大きく息を吐いた。
たぶんロスタムは今深い眠りに落ちている。きっとあのあとも出血が続いたのだろう。極度の貧血状態に違いない。
だが、死んではいない。死んだらもっとすさまじい何かを感じるはずだ。
実際に片割れが死んだことはないので具体的に何がどうなるのかはわからないが、タハミーネは漠然と、ロスタムに万が一のことがあった時は自分も魔法に意識を切断されて一生眠ったまま過ごすのではないか、という気がしていた。
自分たちは二人でひとつだ。母の胎内にいた時から、魔法の糸でつながっている。
目を覚まして、という気持ちと、このまま少し休んで、という気持ちと。
ロスタムが生きていると思えばタハミーネは強くいられた。彼なら絶対に助けに来てくれると確信しているからだ。それに、自分がしっかりしている限りロスタムもしっかりしていてくれる。根拠はないが、そう思う。
ただ、タハミーネを助けるために無理をしないか心配だ。体の調子が悪いなら、誰か大人に守られて眠っていてほしい。タハミーネが一番恐ろしいのはロスタム自身の生命が損なわれることだ。万全の状態でないのに無茶な行動はとらないでほしいと思う。
しかし、それはそうとして、やっぱり――怖い。いつかは――できれば早急に――助けに来てほしい。
「その痣」
声をかけられ、タハミーネは顔を上げた。
「お前にも出るんだな」
いつの間にか、イオアンがタハミーネの目の前に来ていた。大人の歩幅一歩分くらいのところに立っている。気がつかなかった。
「あざ……?」
「首」
手で頸動脈のあたりを押さえながら見下ろしてみた。自分では自分の首は見られなかった。けれどたぶん、イオアンは
「あの女と一緒だ」
「あの女って?」
「ルーダーベ」
吐き捨てるように言ってから、もう一口ワインを飲む。
「あの夜のあの女はもっとすごい、でっかい花を数え切れないほど顔面全体に浮かび上がらせるくらい出ていたが」
そこまで言われて、はっとした。
目の前のこの男が、母ルーダーベを殺したのだ。
自分自身がどうこうされるかもという恐怖でいっぱいで両親のことを忘れていた。言われてみれば、こいつは親の仇なのである。
だが不思議と、タハミーネはそのことで彼を責める気にはならなかった。なぜだろう。
憎い人、こいつのせいで大好きなお父さんとお母さんがいなくなった、家族を奪われただけでなく物理的に家も失って危うく浮浪児か奴隷に身を落とすところだった――とまで思ってから、はっとする。
実際に自分たちが酷い目に遭ったことはない。
オルハンが守ってくれたからだ。
古い家に迎えに来てくれた。三人で暮らせる新しい家を探してくれた。ご飯を買ってきてくれた。お風呂に連れて行ってくれた。双子でお揃いの服を仕立ててくれた。
怖い夜も、寂しい夜も、寄り添ってくれた。片手でロスタムの頭を、片手でタハミーネの頭を撫でてくれた。片腕でロスタムを、片腕でタハミーネを抱き締めてくれた。
いつも一緒にいてくれた。
三年間、タハミーネはオルハンに大事にしてもらったのだ。
「魔法を使ったのか?」
タハミーネはこくりと頷いた。
「お前にはロスタムの声しか聞こえないんだったな」
「よく知ってますね」
「あの女がべらべらしゃべってたからな」
親馬鹿な人だったのだ。ちょっと笑ってしまう。
「……消えた?」
「今ちょっとつながらないみたいなのでやめます。あまりやりすぎると疲れちゃうんです。魔力と体力を温存します」
「つながらない? 死んだのか」
「たぶん生きてると思います、残念でしたね」
イオアンが息を吐く。
それにしても――首、と言われて気づいた。自分はイオアンに服を引き裂かれて首飾りを千切られたのだ。いまさらだが、結構肌が露出している。それでも肝心なところまで見えているわけではなかったが、やっぱりちょっと恥ずかしい。全身を覆っているマントを引っ張り上げて、肩や首に巻き付けるように回した。
「イオアンさんは寂しい三年間を過ごしたんですね」
マントを回しながら、タハミーネは笑った。
「わたしたちはずっとオルハンさんと一緒だったので寂しくなかったですよ。お父さんとお母さんのことは悲しいけど、イオアンさんが思っているような心の傷ってやつにはなっていないんです。あの家に帰りたいと、二人に会いたいと、そう思って泣けてくることもあるけど――でも、わたしと兄は今の暮らしを気に入っているので、四六時中つらい気持ちで過ごしているわけじゃないんですよ」
イオアンの表情がひきつる。どうやら不愉快らしい。
それがおもしろくなってしまって、タハミーネは余計なことを言った。
「イオアンさんったら、かわいそう」
イオアンが足を蹴り上げた。
ばん、という激しい音を立てて、タハミーネの顔のすぐそば、木箱の壁に勢いよく足を突っ込んだ。
木箱に大きな穴が開いた。
イオアンの手が伸びる。
怖くなって木箱に背をつける。
髪をつかまれ、上に引っ張られた。痛い。
「次に生意気な口を利いたらトイレに行きたくなっても連れていってやらないことにする。そこで垂れ流せ」
髪を離された後も、震えが止まらなかった。
「……な。泣かないもん……」
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