第8話 神の御許に行くまでに、もう少し時間を賜りますように

 ロスタムはエレミヤが呼んできた医師によってその場で手当てを受け、完全に血が止まったのを確認してから病院に運ばれた。出血は収まったのでこれ以上できる治療はないのだが、ひと晩入院させることにしたらしい。

 オルハンの意向だった。

 大勢の医師や入院患者に囲まれたいのだそうだ。


「家でこの状態のロスと二人きりになったら気が狂う」


 ロスタムはあのまま意識を失ってしまった。周りが多少騒いでも、それこそ医師にエレミヤが目を背けるような処置を施されても彼はまったく目を覚まさない。今も真っ青な顔でこんこんと眠り続けている。あまりにも静かで、すぐにも呼吸が止まりそうで、見ていると不安になる。


 失った血を増やす方法はない。医師は、あとは本人の気力体力次第だ、と告げた。一応呼吸をしているので大丈夫だとは思うが、今夜が峠かもしれない、とも言った。


 エレミヤの両親は事の成り行きを知って泣いて詫びたが、オルハンはそれでも二人には当たらなかった。


「相手はプロ中のプロだ。素人のあんたたちがどうこうできる奴じゃない」


 そして拳を握り締める。


「俺のミスだ。ミーネから目を離すんじゃなかった。俺自身が自分の過去の行いってやつを本気で理解してたらこんなこたぁしなかっただろうな」


 握った拳を開いて、ロスタムの頬を撫でた。


 病院ではあちこちから祈りの声が聞こえた。いろんな宗教の、いろんな祈りの声だった。

 マムラカには数十もの宗教がある、と聞いたのはいつのことだったか。

 どんな宗教の信徒でも受け入れてくれるこの病院は、皇帝スルタン寄進財ワクフで運営されている。皇帝スルタンがあらゆる民族を保護してくれることの証だ。皇帝スルタンは個人的な趣味はクソだが内政の手腕はそこそこで民衆の支持は得ている。


 いろんな人が、祈っている。


 愛する誰かが、救われますように。

 神の御許に行くまでに、もう少し時間を賜りますように。


 エレミヤの母がオルハンに何かを差し出した。

 金の首飾りだった。魔法陣の描かれた円盤のぶら下がっている首飾りだ。エレミヤから話を聞いて、床に這いつくばって探してきたらしい。千切られた革紐も結び直されていた。

 タハミーネの首飾りだ。

 オルハンは苦笑してそれを受け取ると、「どうも」と言いながら一度革紐をほどき、ロスタムの首にかけ、結び直した。ロスタムの胸元に同じ首飾りが二個ぶら下がっている形になる。


 ちなみにロスタムは医師の助手たちの手によって着替えさせられた。最初は女性向けのくるぶしまで覆う寝間着を用意してくれていたようだが、脱がしてからちょっとした混乱が生じて、最終的には男性向けの腰丈のシャツに筒状のズボンの寝間着に交換された。長い髪も今は一本の太い三つ編みにまとめられている。こうして見ると中性的な美少年に見え――見えないな、男装の美少女だ。


「クソが」


 オルハンが円盤を撫でた。


「イオアンのやつ、わかってるじゃん」

「何がですか?」

「これがここにあるってことは、ミーネは俺の魔法を媒介できるものを持っていない――つまり俺がミーネのところに跳べないってことよ」


 言われてから、エレミヤはぞっとした。


「せめて居場所がわかればと思ってんだけど、ロスの意識がないとミーネと通信する魔法が使えない」


 イオアンは、オルハンや双子の能力を知り尽くしている。


「何の恨みがあってここまでするんだろ。いや、俺もルーさんも恨まれるようなことしかしてこなかったし、元『鷹』のあいつが目的の遂行のために一人二人殺したり何なりするなんてそんなびっくりするようなことでもないんだけどさ」


 いつになく弱気な態度で膝を抱え込んだ。


「双子は勘弁してくれよな……。俺は何だっていいんだけどさ、双子は勘弁してくれよ……」


 エレミヤには何と言葉をかけたらいいのかわからなかった。


 タハミーネは今頃どうしているのだろうと考えると寒気がする。イオアンは彼女にあんな乱暴なことを言っていたのだ。それはあってはいけないことで、まして十三歳の少女に、と思うと憤りしかない。

 エレミヤはイオアンという人がどんな人間か知らない。シャフィークから聞いていた感じでは、そんな残虐なことをするような人ではない、真面目で実直なイメージの人だったが、目の前でロスタムの手首を切り裂くところを見てしまった。


 目的のためなら情け容赦しない――それが『鷹』だ。


 自分の認識の甘さを思い知らされる。


 オルハンが、左腕で両膝を抱えたまま、右手の指の背でロスタムの頬を撫でている。


「おい、司祭様。聞いてくれよ」

「父さんは帰りましたよ」


 彼もできればロスタムの目が覚めるまで付き添っていたいようだったが、オルハンがやんわりいてもいなくても一緒なんでというようなことを言ったのだ。それに、いつ信者が入ってくるかわからない教会を血みどろのままにしてはおけない。

 エレミヤも帰ろうかどうか悩んだが、エレミヤのロスタムが目を覚ますまでそばにいたいという主張はなぜかオルハンに受け入れられた。


「お前以外の誰がいるんだよ」


 エレミヤは初めてオルハンがエレミヤをとどめ置いた理由を悟った。

 自分は話し相手にしてもらえるという栄誉にあずかったのだ。


「はい」


 エレミヤは姿勢を正したが、オルハンはそのままの体勢で、エレミヤの顔を見ることなく、彼らしからぬ弱々しい声でぽつりぽつりと語った。


「最悪の気分」

「どうしてですか」

「俺は今俺自身に怒ってる。びびってる、に近いかもしれない」

「なぜでしょう」

「あの一瞬、俺はロスとミーネのどちらを助けるか判断を迫られた」


 教会でのことを思い出した。


 エレミヤは心臓がどくんと鳴るのを感じた。


 もしオルハンがタハミーネを選んでいたら、彼は流血するロスタムを放置してイオアンと斬り結んでいたということなのだろうか。そうすればタハミーネを奪還できたかもしれないのか。


「ロスを選んだのはロスのほうが目に見える怪我をしたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。ロスの出血を止めるのが最優先だった。ミーネを見捨てるつもりで動いたんじゃない」


 エレミヤは口を挟まずただ頷いた。


「でも、ミーネは今頃俺のこと恨んでるかなぁ……。あいつ、ミーネよりロスを選んだって思っちゃいないかな」


 そこで、オルハンは言葉を切った。どうやらエレミヤの解答を待つ気のようだった。

 なんと重い質問か。司祭になるということはこういう問いかけに答えていかねばならないということか。こんなものエレミヤには判断できない。


 模範解答はわかっている。


「ミーネにも神のご加護があるでしょう」


 オルハンが苦笑した。


「まあ、司祭様ならそう言うよな」


 たまらなくなってオルハンの肩をつかんだ。


「すみません!」


 オルハンが驚いた顔をした。


「やっぱり僕個人の意見を言います!」

「おおっと?」

「ミーネはそんなこと思っちゃいないと思います! だってミーネはロスが大好きだから」


 彼の表情が少しだけ緩んだ。


「ミーネはあそこでロスを放置して自分を助けようとしたら怒ったと思います。それでロスが死んだりなんかしたらミーネも生きてはいけないと思います」

「そうだな」

「ロスならミーネが死んでも大丈夫なんて絶対ないと思いますけど。でも、ロスならミーネよりもうちょっと落ち着いた行動が取れると思うので。どちらかがこうならなきゃいけないんだったらミーネのほうが人質になってロスのほうが助けに行くのがベターなんだと僕は思いますしミーネもそう思っていると思います!」


 そこまで早口で言い切ってしまった。

 これはまずい。聖職者らしからぬことを言ったかもしれない。本物の聖職者なら勝手にタハミーネの心情を代弁しない。本当にエレミヤ個人の意見というか、ただの感想になってしまった。


「……すみません」


 そう言いながら、オルハンの肩から手を離し、床に膝をついてうつむいた。


「なんか、こう、思いつくままにべらべらしゃべりました」

「いや」


 すると、頭を撫でられた。驚いた。十五にもなって他人に頭を撫でられるとは。


「お前が双子のことをよく理解してくれてるみたいで嬉しいわ。俺のほうが双子をちゃんと信用できてないなということがわかったわ」


 顔を上げる。

 オルハンが困ったように笑っている。


「不安が過ぎると視界が曇るものです」

「ようやくちゃんと状況にあった雰囲気の司祭っぽいこと言ったな」

「うまいこと言えなくてすみません……」

「いんや、今の俺が求めているのは神様の救いじゃないからいいんだわ」


 夜が更けていく。


 明日は、聖ポリュカルポスの日だ。


 エレミヤはなんとなく感じていた。


 イオアンは――ルーサ使徒教会自由同盟はきっと明日動く。

 タハミーネは明日のオルハンを足止めするためにさらわれたのだ。明日のうちに助けないと取り返しのつかないことになるかもしれない。


 歯痒い。

 そこまでわかっていても、自分にできることはない。あまりにも無力だ。

 強くなりたい。

 強くならなければならない。



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