第7話 三年分の思い出話は流血に掻き消された
イオアンの腕が伸びた。
タハミーネのほうへと、だ。
イオアンの手はさっきまで震えていたとは思えないほど滑らかに動いた。
まず、イオアンの左手がタハミーネの右肩をつかんだ。
これでもう逃げられない。
次に、イオアンの右手がタハミーネの左胸をつかんだ。
まだ成長途中の幼いタハミーネの乳房にイオアンの長く太い指が食い込んだ。
教会の天蓋にタハミーネの「痛い!」という悲鳴が反響した。
「タハミーネのほうだな」
彼はそこに触れることでタハミーネとロスタムを区別したのだ。
イオアンの右手が胸から離れる。
タハミーネの着ている服の襟を思い切り引っ張って裂く。
彼女の白く滑らかな肌の上で、革紐に通された金の円盤が揺れた。魔法陣が描かれた首飾りだ。
イオアンは彼女が首にこの金の円盤を下げていることを知っていたらしい。冷静な顔でわしづかみにした。
強い力で下に引っ張った。
革紐が千切れた。
タハミーネの白い首に革紐で絞まった赤い痕が残った。
イオアンは金の首飾りをぶん投げた。首飾りは木の長椅子の間をからからと音を立てながら転がってやがてどこかで止まった。
首飾りを引き千切ると、今度は、イオアンはタハミーネを米俵でも担ぐかのように自分の肩の上へ乗せた。軽くて小柄なタハミーネはあっさりとイオアンの肩の上に移動した。
「いやっ」
抵抗して腕を突っ張るタハミーネに、イオアンが低い声、冷たい目でささやく。
「暴れたら犯す」
タハミーネの顔からざっと血の気が引いた。動きが止まった。
彼女が教会に入ってきてから担ぎ上げられるまで、いったいどれくらいの時間が経っただろう。
この間、エレミヤには何もできなかった。
いや、今も何もできない。
エレミヤにはただただ呆然とその場に突っ立ってすべてが終わるのを待っていることしかできない。
足が、動かない。
手が、動かない。
声が、出ない。
どうするべきなのかわからない。
タハミーネを担いだまま、イオアンが振り返った。
目が合った。
その目は先ほどのさまよえる子羊の目とは違った。冷徹で残酷な暗殺者のものだった。
自分と同じ人間の目じゃない。
「エレミヤ」
返事すらできなかった。
「いろいろずれもあったがおおむね予定どおりだ。アキレス腱を確保した。感謝する」
イオアンが待っていたのはタハミーネだったのか。正確には、オルハンのアキレス腱である双子のどちらか、だろうか。
目の前が白黒する。どうしたらいいのかわからない。
イオアンが踵を返した。教会の出入り口のほうへ向かって歩き出した。
そんなイオアンの肩に真っ青な顔をしたタハミーネがしがみついて震えている。
どうしよう。
タハミーネが連れていかれる。
動け。
声を出せ。
助けを呼べ。
「……誰か――」
エレミヤが声を張り上げる前に、教会の出入り口に人が集まってきた。
「おい、今の何だ!?」
そう怒鳴りながら最初に入ってきたのはオルハンだ。すぐそばにロスタムもくっついている。
助かった。
エレミヤはそこでそう早合点してその場に座り込んだ。
オルハンが立ち止まる。イオアンと向き合う。
少しの間の、沈黙。
「……老けたな」
オルハンが言った。
「お前は三年前とまったく変わらないな」
イオアンが言った。
「今までどこにいた?」
「ずっとマムラカにいた」
イオアンが口元をゆがめて笑う。
「だが今から長々三年分の思い出話を始める気か? この状況で? お前は今ここでそんな話を聞きたいのか」
オルハンも眉間にしわを寄せながら笑った。
「わかってるじゃない、ダーリン」
オルハンが腰に下げていた剣を抜いた。
「タハミーネを離せ」
イオアンは左肩にタハミーネを担いだままの状態で、右手でズボンのポケットから器用にナイフを取り出した。
「そのお願いにはいと言うと思っているならずいぶんおめでたい脳味噌だ」
「よく言われる」
ここで想定外のことが起こった。
きっと、エレミヤにとっての、だけではないだろう。オルハンとイオアンも、想定外だったのだろう。
「ミーネを返せ!!」
そう叫んでイオアンに突っ込んでいった小さな影があった。
ロスタムだ。
彼は身を低くしてイオアンの腹に体当たりをした。
イオアンが一瞬動きを止めた。左手が動き、タハミーネを落としそうになった。
だが、それも一瞬のことだ。
「軽い」
そう言うと、イオアンは何事もなかったかのようにタハミーネを担ぎ直し、右足を振った。
イオアンに蹴り飛ばされて、ロスタムの体が長椅子に叩きつけられた。
最悪なことに、彼の背中に長椅子の背もたれが食い込んだ。胸がびくりと跳ねる。わずかな間のことではあったが一度呼吸が止まったようだった。
「かはっ」
「ロス!!」
オルハンが走り出そうとする。
イオアンはオルハンがロスタムにたどりつく前に次の行動に移った。
ロスタムの左肘をつかんで、体を引きずり起こした。
ロスタムの左袖をまくり上げた。白く細い手首が出てきた。
そこに、ナイフの刃を押しあて、引いた。
ロスタムの手首がぱっくりと裂け、濃い紅色の血が流れ始めた。
「ロスタム!!」
オルハンが剣を捨てた。長椅子にもたれかかってうめいているロスタムのすぐそばに膝をついた。
「ロス、ロス」
肘をつかみ、手首を心臓より高い位置に持っていこうとする。だがそうこうしているうちにも血液がとうとうと流れ出ている。
「早く止血しないと死ぬぞ」
イオアンが吐き捨てるように言った。
オルハンが顔を上げてイオアンをにらみつけた。
イオアンは、今度はタハミーネの首にナイフを突きつけた。
「それ以上動いたら今度はこっちだ」
「クソ野郎」
「愛してるぞ、ハニー」
タハミーネが叫び声を上げる。
「おにいちゃん! おにいちゃん、おにいちゃん!」
いつもは使わないその呼び名に、ぎゅっと胸を締め付けられる。
「やだ! おにいちゃん」
ロスタムが蒼い顔で「だいじょうぶ」と呟く。しかしその声は力ない。
「だいじょうぶだから……ミーネ、泣かないで……」
オルハンが「どこに連れて行く気だ」と怒鳴ると、イオアンは「その質問に答える悪役いるか?」と言いながら教会の外に出て行こうとした。
「泣かないもん!」
タハミーネの叫び声が響く。
「ぜったいぜったい泣かないもん! あああっ」
イオアンがタハミーネの口をふさいだのだろうか、彼女の悲鳴はそれ以上聞こえてこなかった。
「エレミヤ!」
初めて名前を呼ばれた。それまで完全な部外者であり傍観者であったエレミヤは、ようやく目を覚ましてオルハンとロスタムを見た。
オルハンは血の気の引いた状態で鬼のような形相をしている。ロスタムは今にも儚くなりそうなほど白い顔にうつろな目をしている。
「清潔な布を持ってこい! 直接押さえて止血する」
「はいっ」
「あと父ちゃんか母ちゃんに頼んで医者を呼んでもらってくれ」
「はいっ!」
ようやく足が動いた。駆け出すことができた。
情けない。
エレミヤは家の中に駆け込んで母に事情を説明しようとした。
「あら、そんなに慌ててどうしたの?」
そんな能天気な態度の母に対して何から説明したらいいのかわからなくて、エレミヤは泣いた。十五にもなって声を上げて泣いた。
自分には、何もできなかった。
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