第6話 神から伸ばされた手をつかめない
翌朝のタハミーネは昨日とは打って変わって元気で、子供部屋から出てきたエレミヤに勢いよく抱きついてきてロスタムと魔法で連絡が取れたことを教えてくれた。
「今日のお昼に迎えに来てくれるって」
「お昼?」
「今日の午前中ご主人様がお出掛けするからそれについていくって。それが終わったらその足でここまで来てくれるって。一緒に帰るって!」
彼女はちょっと早口でまくし立てるようにそう説明した。いつも邪気のかたまりのような彼女にしては珍しく邪気のない笑顔だ。
それにしても――少女のふわっと軽い体重、柔らかい肉の感触、甘い香りを嫌というほど味わわされる。タハミーネは女の子なのだ。きっと普段はオルハンとロスタムとしか接しないからこんなに無邪気にひとに抱きつくのだろう。だめだこの子、そんな気軽に男に抱きついちゃいけないということを教えなくちゃ。危険! エレミヤは耳まで熱くなるのを感じながら頷いた。
引き剥がして彼女の顔を見ると、彼女の大きな真ん丸の瞳がじっとエレミヤを見つめ返す。猫の目。
「すぐに来るっていうわけじゃないんだ?」
タハミーネが頷いた。
「『
聖ポリュカルポス、と聞くと緊張する。意識を引き締めて唾を飲んだ。
「毎年慰霊祭があるので、その打ち合わせみたいです。ほら、ご主人様、脱走兵みたいな扱いになってるから、正面玄関から入れないんですよぅ。それで、シャフィークさまや当時の仲間たちと、あれこれ」
「なるほどね」
「慰霊祭当日にはロスとミーネも行くと思います。お父さんとお母さんのことをおぼえてる『鷹』のひとたちがたくさんいて、今もミーネたちを可愛がってくれてるので。だから今回の打ち合わせにもロスがついていくんだと思います」
「その打ち合わせはミーネは行かなくていいの?」
タハミーネが下唇を噛み、エレミヤをにらむように上目遣いで見た。
「ご主人様が……うるさいから来んなって……」
目に浮かぶようだ。エレミヤは「ごめん……」と呟いた。
「せっかくだからヘレナさんがみんなでお昼ご飯を食べましょうって言ってくださいました。ミーネはお料理して待つですよぅ!」
「そりゃいいね、そうしよう」
タハミーネが軽い足取りでダイニングのほうに駆けていく。
「ではではご飯にしましょう! 朝ご飯は一日の始まりですから、しっかり食べないとですね!」
エレミヤはその後ろ姿を眺めてそっと息を吐いた。
なんだかんだ言ってタハミーネも可愛い。
もうちょっと性格がしっかりしていたらな、と思ってしまうがそれはそれでご愛嬌なのかもしれない、彼女が甘えん坊のわがまま娘でなくなったらきっとみんな寂しく思うのだ。彼女はこれでいいんだろう。
主教座大聖堂の学問所から帰宅すると、エレミヤの母とタハミーネが楽しそうに料理をしていて、エレミヤは邪魔者扱いされた。女同士うまくやってくれるのはありがたいが、なんだか複雑な心境だ。
「お母さん、やっぱり娘が欲しい?」
ちょっと意地悪な気持ちでそう問いかけると、母は「あら」と笑った。
「お嫁さんでもいいのよ」
追及するのはやめた。たったその一言だけですさまじい疲労感だ。
手持ち無沙汰になったエレミヤは、教会のほうに向かった。特に用事はないが、時間を潰したい時にはいつも何となく教会に行くのだ。誰か信者さんがいればおしゃべりしていてもいいし、誰もいなければ無言で祈っていてもいい。
教会の裏から話し声が聞こえる。
覗き込むと、父が年配のルーサ人の男性と何やら話し込んでいた。種や苗を売りに来る商人だ。エレミヤとも顔見知りだった。
菜園は聖職者の務めでもあり父の趣味でもある。これから春に向けて畑を耕して作物を植えるので、父は最近毎日のように下準備をしている。
「父さん」
父が振り向く。
「おかえり」
「ミーネから聞いた? これからロスとオルハンさんがうちに来てみんなで昼食を取ろうってさ」
「ああ、聞いているよ。オルハンさんたちが来たら呼んでくれないかい? お父さん今ちょっと手が離せなくてね」
商人の男性が帽子を取ってはげ頭を見せつつエレミヤにぺこりと頭を下げる。エレミヤも「こんにちは」と挨拶しながら会釈をした。
「中には誰かいる?」
父が首を横に振る。
「いないはずだけど」
「そっか」
「何か用事があるのかい?」
「いや、単にミーネと母さんから逃げてるだけで、何かあるってわけじゃないんだけど」
「そう」
いつになく能天気な笑顔だ。大事な畑のことで頭がいっぱいに違いない。
「扉は開けっぱなしにしてあるから、もしかしたら誰かいるかもしれない」
これもいつものことだった。教会はすべての人に開かれている。普段勝手に入ってくるのは基本的には教区の信者だが、異教徒の観光客でもルーサ使徒教会に興味を持ってもらえるのはいいことだし、万が一泥棒であったとしても救いになるなら銀の燭台を盗んでもいいのだ。
「いたらエレミヤがお相手してさしあげなさい」
「はい」
これも聖職者見習いの務めだ。ちょっと張り切って教会の中に入る。
中に入ってすぐ、エレミヤは緊張した。
祭壇の前、シャンデリアの下にこちらに背を向けた状態で、一人の青年が立っていたからだ。
すらりとしたシルエットの、スタイルのいい人だ。たぶん背はそこそこ高い。ルーサ人の民族衣装を着ているが、黒地に銀糸という珍しい色合いの刺繍だ。地味だが彼のスタイルの良さを強調している気もする。
「こんにちは」
そろりと中に入り、静かな声で話しかけると、彼が振り向いた。
整った顔立ちの青年だった。シャフィークのように華やかなイケメンとは違うが、静かでさっぱりした雰囲気の面立ちだ。
しかし――眉根を寄せる。
顔のつくりはさほど老けている様子ではないと思うのだが、どことなく顔色が悪いし、短めに切られた髪にはちらほらと白髪が交ざっている。したがって年齢が読めない。二十代だと言われればそんな感じもするし、四十代だと言われてもそんな感じがする。
「信者さんですか?」
少なくとも、この教区の人間ではない。エレミヤとは初対面だ。
彼はズボンのポケットに手を突っ込んだまま数歩エレミヤのほうに近づいてきた。
「お前がエレミヤか。グレゴリから話はよく聞いている」
グレゴリ、というのはエレミヤの父の名前だ。
「父の友人ですか?」
「ああ、司祭の集まりで会うことがある。俺自身は司祭じゃないんだが、教区の都合でな」
エレミヤは彼の言葉を信用して頷いた。
通路の途中で立ち止まった彼のために、エレミヤのほうからも近づいた。
「今日は父にご用ですか?」
「いや、知り合いが今日ここに来ると聞いて。といっても待ち合わせがあるわけじゃなくて、うまく鉢合わせをして会えればいいかな、ぐらいの軽い気持ちなんだが――なんとなく」
彼が振り返る。
天井から十字架が下がっている。
「ここに来るといつも祈りたくなる。たとえ会いたい人に会えなくても、来ただけで、来たかいがあったな、と思える」
エレミヤは嬉しくなった。それはつまりエレミヤの教会が褒められているということだ。
彼が祭壇のほうに歩き出した。
祭壇の手前、左右に一個ずつ、蝋燭立てがある。大きな長方形の蝋燭立てで、普段使いの小さな蝋燭なら一度に数十本並べることができた。この蝋燭は日中教会を開けている時には絶対絶やさない決まりになっていて、父が定期的に蝋燭を継ぎ足していた。今も片方につき十数本の蝋燭が並んでおり、小さな炎を燈してゆらゆらと輝いている。蝋が溶けて金属の台にしたたり落ち、冷めて固まって白くなっている。
「俺も蝋燭を立てていいか?」
エレミヤは「もちろん」と答えて近づいた。
蝋燭立ての下から白い蝋燭を出す。エレミヤの人差し指より少し長くて細い蝋燭はいつでも誰にでも無料で配っていた。
「どうぞ」
彼はふと微笑んで受け取った。
彼の手が他の蝋燭の芯に自分の蝋燭を近づけて火を移そうとする。
その手を見ていて、エレミヤははっとした。
彼の手が、細かく震えている。
ようやく火がつき、台に刺すことができた。
エレミヤの視線に気づいたのだろう、彼は自分の手をまたズボンのポケットにしまった。
「酒の飲み過ぎで内臓をやってしまってな。酒が切れるとこうなる」
だから顔色も悪いのか。
エレミヤはぎゅっと自分の服の前をつかんだ。
ルーサ人の青年が、酒に溺れて体を壊している。こんなに熱心な信徒なのに、神から伸ばされた手をつかめない。
「……あの、ご家族は?」
青年がエレミヤの顔を見た。
「いない。独り身だ」
「じゃあ、うちに来ませんか?」
目を丸くする。
「もしかしたら、最初はきついかもしれませんけど。うちは日曜礼拝の時に口をつけるくらいしかお酒を出さないので。でも、お酒を断って規則正しい生活をしたら、もう少し良くなるんじゃないかと」
苦笑する。
「お前、ひとがいいな。グレゴリそっくりだ」
「よく言われます。でも、あの、そういうこと言ってる場合じゃなくて、本気で考えてください。健康のためですよ。うちはいつでもどなたでも受け入れます」
その時だった。
扉が勢いよく全開になる音がした。
「エレっミヤっさーん!」
能天気な明るく甲高い声はタハミーネのものだ。
「みんな揃いましたよぅ! ご飯食べましょうよーぅっ!」
そして「お客さまですか?」と言いながら駆け寄ってくる。
「今なら機嫌がいいのでご飯をお裾分けしてもいいですっ。手作りナンを配――」
青年がタハミーネの顔を見た。
通路の真ん中で、タハミーネが硬直した。
「……イオアンさん」
青年――イオアンがその黒い瞳でタハミーネを見据えた。
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