第3話 ロスタムの横顔がぞっとするほど美しかった

 翌日の朝、エレミヤの母はタハミーネにルーサ人の女の子の民族衣装を着せて遊んだ。


「あらやだ可愛い!」


 いつものアリアナ人のゆったりとした締め付け具合に膝丈の木綿の衣装ではなく、ぴったりとした上半身にくるぶし丈のウールの衣装だ。刺繍もアリアナ人のそれよりずっとカラフルで、エレミヤが着せられている男物もそうなのだが、華やかな縦じまになる。


「お人形さんみたい! 何でも似合うのね」

「えへへー」


 タハミーネも上機嫌だ。やれやれ。


「やっぱり女の子はいいわね、こんなふうに服を着せて遊ぶのなんてエレミヤじゃちょっとね」


 その様子を見ていた父が「今から女の子も作る?」とおどけてみせたが、「まあ!」と頬を染める母の反応がまんざらでもなさそうだったので、エレミヤは巨大な溜息をついた。勝手にやってくれ、と思ったが今から血のつながった妹ができるなんてちょっと考えたくない。父が三十五歳、母が三十三歳なので、無理ではないのがつらい。


「行ってきます……」


 そう呟いて家を出ようとしたエレミヤの背中に、タハミーネが「別に行かなくてもいいですぅ」と投げかける。


「よけーなこと言わなくていいですからね」

「僕が知っている限りのことすべてオルハンさんに話してくるよ。じゃあね」

「ミーネこの家の子になるーっ」

「はいはい、オルハンさんがいいよって言ったらね」




 いざ双子の猫の店に行ったら、大きな地震が起こっても顔色ひとつ変えないあのオルハンが卒倒しそうになっていたので、よかった。聞けばひと晩中寝ないで知り合いの家を捜し回っていて、想定されうる避難先のどこにもいなかったので、途方に暮れて帰宅したばかりだったとのことである。この人にも人の心があったらしい。


「ミーネに何かあったらルーさんに死んで詫びるしかないし死んでも合わす顔がない」


 そう言って肩で息をしたオルハンにロスタムがぶすっとした顔で「それだとロスが残ります」と訴える。オルハンが「そうだな、それはそれで考えなきゃな」と溜息をつく。冗談を言っている余裕もなさそうだ。


「まあ、でも、よかったな。悪かったな、ありがとなエレミヤ……」


 この人にこうも素直に謝罪と感謝を告げられるとちょっと気恥ずかしい。


 まともな恋愛のひとつもしたことのないエレミヤにはぴんと来なかったが、オルハンからしたら亡き最愛の女性から預かった娘である。それもその最愛の女性と瓜二つの少女だ。いろいろあるんだろう、と思いながら教会まで道案内する。


 オルハンがロスタムを連れて教会にたどりつく。ルーサ人の女の子の衣装を着たままのタハミーネがぶすっとした顔で出迎える。


「すみませんでした……」


 途中の菓子市場で買った高級糖菓子ハルヴァを差し出しつつ、オルハンが深く深く頭を下げた。エレミヤの両親のほうがぎょっとした顔で「とんでもない」「大丈夫ですよ」と手を振った。


「本当に、この上ないご迷惑をおかけして……」

「いいんですよ、うちが子供を預かるなんてよくあることですから」

「うちこそ昨晩のうちにご連絡できなくて申し訳ありませんでした、夜はどうしてもね」

「いや、もう、本当に……なんて言ったらいいのかわかんないんですけど、生きて無事だったんだからもうそれで……本当にありがとうございます……」


 タハミーネが口を尖らせる。


「お前はよ、よくもこんなことをしでかしてくれて! シャフィークの家も前の官舎の家も『鷹』の『巣』も武器通りのご近所さんのお宅も全部、ありとあらゆるところを捜したわ!」

「別にいいじゃないですか、ひと晩くらい」

「よくねぇよ、二度とすんな」


 次の時、オルハンの腕が伸びて、ふわっとタハミーネを抱き締めた。こんなところを見るのは初めてだ。


「あー、本当によかった……」


 タハミーネが目を細め、ほんの少しオルハンの胸に頬をすり寄せる。みんなが黙る。二人の様子を見守る。


 本当に、心配だったんだなあ。


「二度とすんなよ」


 エレミヤがオルハンの口真似をしてそう言うと、タハミーネがオルハンの腕の中で「ええー」と顔をしかめた。


「今からこんなでミーネがお嫁に行っちゃったらどうするんですか」

「えっ、行くの? 誰のところに? まさかエレミヤ?」

「えーっ、エレミヤさんはちょっと……ミーネにも選ぶ権利があるですよ」

「ミーネ、僕に対してすんごい失礼だよね」

「挨拶して出ていくのと黙って消えるのとじゃぜんぜん違うわボケ」


 オルハンがタハミーネを離した。


「ほら、帰るぞ。エレミヤだって午前中は教会のお勉強会があるだろ? あとお前も手習い所行けや」

「僕のことを配慮してくださるのもありがたいんですけど、先にミーネを手習い所に行かせてくださいね」


 ここで全部引っ繰り返す事態が発生した。


「帰ってくんなよ」


 冷たい声でそう言った者があった。

 ロスタムだ。

 彼はいつになく冷たい声に冷たい目で妹を見ていた。こんな彼など見たことがない。エレミヤもぎょっとしてしまったし、他の大人たちも驚いた様子だ。


 ロスタムの外見はいつもと変わらなかった。長いふわふわの髪の上に絞り染めの布を巻き、襟の詰まったシャツの上に膝丈の民族衣装を着ている。どこからどう見ても可愛い女の子だ。今でこそルーサ人の衣装を着せられているが、同じ服装をすれば同一人物に見えそうなくらいタハミーネと似ている。

 ただ、笑っていない。

 本当に、まったく笑っていない。


 怒っている。


「ミーネはこのまま出ていけよ。ぼくがオルハンさんと二人で暮らす」


 タハミーネもショックだったらしい。大きな瞳が潤んだ。


「……なっ、なん――」


 空気を読めないエレミヤの母親が「本当に男の子だったの?」と呟いた。今はやめてくれ。


「そこまで言わなくてもいいじゃない……! なんでこんなちょっとしたことでそんなに怒るの?」

「ミーネにとってはちょっとしたことなんだ。ぼくにとっては人生がかかっていることなのに」

「それは……、まあ、だって、自然なことで、当たり前の――」

「そんなに何にも考えてないと思わなかったよ。やっぱり頭すっからかんなんだね。お母さんそっくり」


 オルハンがうろたえて「双子、どうした」と動揺した声を出す。双子は二人ともオルハンのほうを見なかった上、「双子って呼ぶのやめてください」「ロスタムとタハミーネです」と急に自我を主張し始めた。


「どうしたよお前ら、今の今までこんなことなかっただろ」

「だって昨日まで問題にならなかったもん……」

「ほら、仲直りしろ、セットで家に帰るぞ」

「ぜったいやだ。じゃあぼくが出ていく」

「なに言ってんだロス」


 口元に手を当てながら呟く。


「お前は手がかからない子だったのにな……」


 ロスタムがオルハンを思い切りにらみつけたので、オルハンは今の言葉がロスタムにとっておもしろい言葉ではなかったことを察したらしい。すぐ「別にいいんだぜ、何でも聞くぞ」とフォローした。


「ほら、お前がこんなに怒るなんてよっぽどのことだと思って。ミーネがよっぽどのこと言ったんだろ。お前が悪いって決めつけてるわけじゃないから、だいじょうぶだいじょうぶ」

「べつに」


 ロスタムが自分の頭を覆う布を引っ張って自分の口元を隠した。目はそっぽを向いている。これは簡単に許してくれる雰囲気ではない。


「ま、まあ、じゃあ、こうしましょう!」


 わざと明るい声でエレミヤの母が入ってきた。


「ミーネちゃん、もう一日二日うちにいましょう! 急いで帰ることないわよ、もううちにいることはオルハンさんに伝わってるんだし、うちでゆっくりしたらいいわよ」


 エレミヤの父も「そうだね」と入ってきた。


「年の近いきょうだいがいると気になることもあるのでしょう。まあ、うちのエレミヤも十五だけれど、ミーネちゃんよりは年上でミーネちゃんに迷惑をかけることはないと思うし、うちでゆっくりしたらいい」


 オルハンがロスタムとタハミーネを交互に見る。


「すいません、こんなこと今までなかったんで、俺もどう対応したらいいかわからなくて……」

「関係が濃すぎるとこじれるということもあるんですよ。まして双子ちゃんなんて四六時中一緒にいるんですから、何か思うところも出てくるでしょう。そういう年頃です」

「そうすか、そんなもんなんすか……」


 彼もしばらく悩んでいた様子だったが、ややしてこう言った。


「じゃ、お願いします」


 そして、みんなでタハミーネの顔を見た。


 空気が凍りついた。


 タハミーネが下唇を噛み締めてぼろぼろ泣いていた。


 慌ててロスタムを見た。


 ロスタムは、冷たい顔でそんな妹を眺めていた。


「ちょっと、ミーネちゃん、おうちでゆっくりしましょうか」


 エレミヤの母がタハミーネの肩を抱くと、タハミーネはこくりと頷いた。頷いたということは一応頭では了承しているということなのだろう。感情面ではいろいろ大変そうだが、教会の子であるエレミヤは家出娘とは往々にしてそういうものだということを学習していた。


 タハミーネが家のほうを向くと同時に、ロスタムも外を向いた。


「帰る」


 そう言って歩き始めたロスタムの後ろを、オルハンが慌てて追いかける。


「すいません、ほんとすいません! このお礼はいつか絶対しますんで」

「いえいえ、むしろうちこそいつもエレミヤがお世話になっていますので」

「ちょっと引き離して頭冷やさせます。こいつの頭が冷えたら迎えに来ます」

「そうしましょう、待っていますのでね」


 オルハンとロスタムが通りのほうに向かって歩き出した。その時の冷たいロスタムの横顔がぞっとするほど美しく、怒っている時と眠っている時の顔が美しい人は本物の美人だと言ったのは誰だったか、なんて考えてしまうのだった。



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