第2話 大事件! タハミーネ家出するの巻

 季節は冬だ。気温は低い。砂漠の都市であるマムラカは常にひどいカンカン照りだが、朝晩の気温は凍えるほど寒い。最近のエレミヤはコートを羽織っていた。


 マムラカでは、宮廷で使われている公式の暦のマシュリク暦のほかに、いくつかの暦が使われている。うちひとつにルーサ暦というのがあって、ルーサ王国で使われていた、もっといえば西方の天主教の一派としてのルーサ使徒教会が使っている暦なのだが、これが冬に始まって冬に終わる。


 冬が終わりに向かっていくということは、二月二十三日――聖ポリュカルポスの日がもうすぐ来る、ということだ。


 エレミヤは最近ふとした時に二月二十三日が気になる。

 ルーサ使徒教会自由同盟が蜂起した日で、宮殿の中の罪人たちが解き放たれた日で、双子の母親をはじめとする『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』や帝都防衛隊の人間たちが亡くなった日――それから丸三年。

 また何か起こったらどうしよう。


 しかし、そんなふうに心配しているのはエレミヤだけかもしれない。教会で一緒に勉強している仲間たちも気にしていないようだし、オルハンは双子の猫の店の二階でごろごろしているし、双子はおててをつないで仲良く接客したり市場をうろついたりしている。シャフィークは音沙汰がないが、彼はもともと忙しいのでこれが通常運行だ。


 一度、気になって両親に打ち明けてみたこともある。だが、「そうは言っても一周年も二周年も何もなかったからね」と言われて、なるほど言われてみれば、三周年、四年目突入の今回が急に特別になるとは限らない。


 特別に感じるのはエレミヤが知ってしまったからなのだ。知らなかったら今年も知らないままで終わった。

 不思議なものだ。知った上で普通に過ごすのは怖いけれど、知らないままでいるのはもっと怖い。


 それにしても、オルハンがいつもどおりなのはちょっと悔しい。こちらは彼の過去の事情をたくさん見てきたというのに、完全に何事もなくスルーである。あれこれ心配してやっているのがバカみたいだ。なんならこっちはあんたが十数年双子の母親に片想いをしていたことも知ってるんだぞと言ってやりたいが、子供の双子でさえ知っているのだからしょうがない。


 彼が人妻にこだわるのは双子の母親が双子の父親にべったりだったからなのか、世の三十歳前後の若い子持ちの未亡人を片っ端から双子の母親に重ねているのか、と思うとかなり切ないのだが、そんなエレミヤの心情などオルハンにとってはどうでもよく、神経が人一倍図太いのである。一周回ってうらやましい。




 そんなエレミヤの日常に事件が起こった。


「えへー、来ちゃいましたぁー」


 ルーサ暦二月の半ば、ある夜のことである。


 父と教会で祈りを済ませて自宅に帰ろうとしていたところだったのだが、教会を出ようとした時、外から猛烈な力で扉を開けられた。これもまた精霊ジンの血のなせるわざか。


「双子!?」


 宵闇の中、可愛らしい女の子が一人で立っている。膝丈の白いコート、くるぶしまで覆う濃い緑色のズボンで、長いゆるふわの髪の上に臙脂色の布を巻いた少女だ。


 ん? なんかおかしい。


「まさか、一人なの?」

「いつもいつでもセットというわけじゃないです」


 双子の片割れが、珊瑚色の唇を尖らせ、黒目がちな大きい瞳でこちらを見上げてくる。あざとい。


「どっち?」

「どっちでしょう!」

「そういう性格の悪いことを言うのはタハミーネのほう」

「なんと!?」


 正解だったらしい。


「めちゃめちゃむかつく! みんなロスのが可愛いロスのが可愛いって! なんなの、こんなに可愛い美少女を捕まえてどういうことなの!? 世界で一番可愛いのはミーネですぅーっ!」

「そういうこと言うからロスのほうが可愛いって言われるんだよ」


 なんならだんだんロスタムが父親似でタハミーネが母親似なのもわかってきたので最近しゃべると見分けがつく。


「なんでこんなところに?」


 タハミーネがつんと上を向く。


「ちょっと探しちゃったですよ! ラフマン通りのルーサ使徒教会って聞いてたから、まずラフマン通りというのがどこか探して。ラフマン通りというのがマムラカに六本もあるのを確認しちゃったですけど、エレミヤさんが毎日うちに通ってるくらいだから一番近いところだろう、って思って。で、ここまで来たら使徒教会が大中小と三つある、って言われて。エレミヤさんがうちにはそんなにお金ないって言ってたから小さいのから巡ってきたですけど、最終的に一番おっきい教会だったのでウワーッめちゃんこ腹立つーって思ってたところです」

「建物はね。教会員さんにお金持ちが多いので、献金はたくさんいただくんだよ」


 それをイオアンみたいな住所不定無職に再分配してしまうからうちは貧乏なのである、というのは父の前で言うのははばかられた。今の生活に不満があるわけではない。


 父が「ちょっと待って」と言って割って入ってきた。


「誰かに道を聞いてきたのかい?」

「はい」

「誰にかな? 防衛隊の人とか、治安部隊の人とか? 街頭に立ってる――」

「違います。ぜんぜんふつーの、そのへん歩いてた人です」

「やめなさい」


 父のぴしゃりとした声にエレミヤはちょっと驚いた。珍しい。


「こんな時間に女の子が一人で見知らぬ土地をうろつくんじゃない。ましてやそのへんのどこの誰とも知れない人に声をかけて。もし悪人が見ていたらさらわれていたかもしれない」


 タハミーネも叱られてびっくりしたらしい。しばらくぽかんと口を開けて目の前の司祭を見上げていた。だが、彼はいつになく厳しい態度だ。


「ここはあまり治安のいいところではない。侠客アイヤールなんかもいるところだ。絶対に一人になるんじゃない。いいね?」

「えーっ」

「返事は?」

「う。はい」


 エレミヤのお父さんはみんなのお父さんなのだ。


「てゆうか、そんなことエレミヤさんにも言うんですか? なんでミーネばっかり怒られるんですか」

「エレミヤにとっては地元だからね。エレミヤも遠くの見知らぬ土地に行くなら同じことを言います。タハミーネちゃんだけ叱っているのではない」


 確かに、エレミヤはこのあたりのどこが危険で誰が安全なのか知り尽くしている。まして自分は十五歳の男で、まだまだ未熟者だが身長だけなら父と変わらない。

 そもそもマムラカが、エレミヤより頭ひとつ小さくて見た目は華奢でか弱い少女が一人で夜に出歩いてもいいほど治安がいいわけではない。いつどこに奴隷商がひそんでいるかわからないのがこの都だ。


「で、どうして一人でここに?」


 タハミーネがまた唇を尖らせた。


かくまってほしいです」


 エレミヤはぎょっとしたが、父が冷静に「何から?」と問いかけた。


「……わかんないけど……どこか知り合いがいてなおかつ家族に悟られないところに行きたくて……」

「どうして? オルハンさんに叱られたりした?」

「ご主人様はあれこれうるさいこと言わないですけど……ええっと……」


 エレミヤも「まさか」と顔をしかめた。


「ロスと喧嘩したの……!?」


 タハミーネが「えへっ」と作り笑いをした。


「謝ればいいじゃないか、ごめんなさいって言いなさい、早く頭を下げて許してもらいなさい」

「もーっ、エレミヤさんのバカーっ! それじゃミーネが悪いみたいじゃないですかーっ」

「だいたいわかるよロスは悪くない。絶対ミーネが余計なこと言ったに違いない僕にはわかるんだからねミーネが悪い」

「エレミヤさんのバカ! バカバカ! もうきらい、だいっきらい!」


 親指と人差し指で何かを表現して「ちょっと言っただけですよ。ちょっと。ほんのちょっと」と訴えてくる。そのほんのちょっとがロスタムの逆鱗に触れたらしい。口だけは達者なタハミーネのことだから、ピンポイントに何かを踏み抜いたのだろう。具体的に何を言ったのかは言わないが、問い詰めても言わないと思われる。


「うちに来ることはオルハンさんには言ってあるのかい?」


 タハミーネがぶすっとした顔で首を横に振る。


「困ったな。この時間から出歩くのは大人の私でもちょっとね」

「ラフマン通り、そんな治安悪いですか……」

「そうだよ、まったく。知らないということは恐ろしい」


 エレミヤはつい「魔法でロスに連絡すれば」と言ってしまったが、タハミーネは「そのロスと喧嘩してるですよ」と答えた。


「口利いてなんかやらないです。通信遮断です。ぷんぷん」

「あらら」


 父が大きな溜息をついた。


「仕方がない、とりあえずひと晩うちで預かろう。エレミヤ、お前明日朝一番に猫の店に行ってオルハンさんに伝えなさい」

「はい」


 タハミーネの大きな瞳がきらきらと輝いた。


「泊めてくれるんですか?」

「そのつもりで家出してきたんじゃないの」

「えへへーっ、教会というところは恵まれない子供を保護してくれるってミーネ知ってるですよ」


 この教会の司祭である父が小さく笑って「間違いない」と答えた。


「タハミーネちゃんもお察しのとおり、うちでよくあることだよ。家に入れば妻もいるし、安心して休みなさい」

「はーいっ! エレミヤさんのお父さん、だいすきーっ!」



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