5匹目 どんなに重い事情があってもクズはクズでしょ
第1話 そのうちイオアンに直接会うことになるかもしれない
というわけで話はエレミヤ少年に戻る。
夕飯の席で、エレミヤは溜息をついた。
食が進まない。
とっとと食べて片づけてくれる母に迷惑をかけないようにするか、あるいは両親に何か語って他愛もない情報を共有し団欒を楽しむべきなのだが、今のエレミヤにはどちらもできなかった。
夕方シャフィークが語った三年前の物語が、あまりにもショッキングだったからだ。
やっぱり胃もたれした。
「エレミヤ?」
母が顔を覗き込んでくる。
「調子が悪いのかしら。なんだかぼんやりしてる」
「母さん……」
「食欲がないの? どこか痛い? 顔色がよくないけど、お熱でもあるのかしら」
彼女はスプーンを置くと、斜め向かいに座るエレミヤの額に手を伸ばした。
触れる。ひんやりして気持ちいい。けれど別に発熱しているわけではない。彼女も少し首を傾げて「別にそういうわけじゃなさそう」と呟く。
母の白い手は冷たくて優しい。今となってはもう自分よりひと回り小さな手だけど、子供の頃はこの手をとても大きく頼もしく感じていたものだ。
双子もそうだっただろうか。
双子もルーダーベの手をそんなふうに思っただろうか。
もう二度と会えない。
つい涙ぐんでしまった。泣かないように歯を食いしばって鼻をすすった。
「エレミヤ」
向かいにいる父が心配そうな声で問いかける。
「何かあったのかい?」
顔を上げ、父の顔を真正面から見つめる。心配そうな顔をしている。
「また外でルーサ人だからどうこうと言われてきたのではないだろうね」
何と答えたらいいのかわからなくてうつむくと、父は「エレミヤは考えすぎだよ」とわざと明るい声を出した。
「神はすべてをお赦しくださる。不安に思わなくていい。食べて、祈って、休みなさい」
イオアンも、祈ったのだろうか。
「――父さん、母さん」
エレミヤも一回スプーンをテーブルの上に置いた。
「シャフィークさんから、聖ポリュカルポス蜂起事件の話を聞いた」
二人とも表情を強張らせた。
「正確には、そのちょっと前から。事件で亡くなった方々がどんな人たちだったか、誰と誰がどういう関係だったか、とても丁寧に聞かせてもらってきた」
「そう……」
「僕は――」
テーブルの上で拳を握り締める。
「帰り道、ぼんやり、僕は恵まれているんだな、と思った。ほら、こういう家だから、お葬式にはたくさん参列してきたけど、大半の方はお年を召して亡くなられた方じゃないか。ある日突然親しかった若者が殺されるなんてこと、今まで一回もないわけで――」
もう少し踏み込んで言えば、比較的若い人が病気で亡くなるのには何度か立ち会った。最期の祈りを捧げるために看取りに行くことがあるのだ。しかしそういう人々はすでに先が見えているから祈りを必要として聖職者を呼ぶわけで、朝元気に出ていった親が夜遺体で戻ってくる、というのとは違う。
父が言った。
「私がお前にそういう育ち方をしてほしいと望んだからだね。できる範囲では、ではあるが、最大限お前の人生から不幸を取り除いてきたつもりだ」
理解した。無言で頷く。
「でももう十五だ。付き合う人間も変わってきた。今まではルーサ人のコミュニティで勉強だけしていればよかったけれど、マムラカで生きていくなら、マシュリク人はもちろん、アリアナ人やカムガイ人――いろんな人と関わっていかなければならない。もしお前がまだ本気で私の後を継ぎたいと思っていてくれるのならなおのこと。この教会の、この
父は父なりのやり方で戦ってきたのだ。華奢で身体能力の点では頼りない人だが、エレミヤが育ったコミュニティではもっとも知的な男性だ。
「……厳しいことを言ってしまったけれど」
そうだろうか。彼はエレミヤにとても甘い。エレミヤは今日ルーサ人の背負う罪を突きつけられてきたばかりだ。
と、思ったのだが。
「聖ポリュカルポス蜂起事件のことに限って言えば、悪いのはイオアンでありルーサ使徒教会自由同盟だからね」
面食らってしまった。
「いや……、いやー」
「そういう話ではなく?」
「そういう話なんだけどさ、こうもストレートに言われてしまうとさ……」
「だから、お前は考えすぎなんだ。お前がすべきなのは亡くなった方々の冥福と自由同盟の罪への赦しを祈ることだけなんだよ」
なんだかとても簡単に悩みを解決されてしまったような気がして、エレミヤは喜ぶべきか悲しむべきかわからなかった。
結局、父もスプーンを置いた。
「この
「そうなんだ……」
「冗談じゃない。私の子供たちはとっくに王国が滅んでから生まれ育った子たちだ。失敗すればお尋ね者になるようなことをさせるものか。この子たちは、マムラカ生まれマムラカ育ちなんだ」
いつになく力強い言葉に、やっぱりほっとしていいのかもしれない、と思う。
「自由同盟の人々が『鷹』のルーサ人の若者たちをそそのかしたんだ。彼らが言う綺麗な言葉を使うなら、目覚めさせた、みたいだけれど。民族のために立ち上がることを。抗うことを。戦うことを。そして最終的には王国の再興を」
父が首を横に振る。
「いいかい、エレミヤ」
「はい」
「人間というものは、誇れるものが何もなくなった時、自分の血にすがるんだ」
「って、どういう意味?」
「家もない、学もない、お金もない。そういう状況に陥った時、人間が振りかざすのは、出自なんだよ。ルーサ人だから、救われるべきだ。ルーサ人だから、他の民族より優秀だ。ルーサ人だから、あれを、これを、それを、やってもいい――というようなことをね、言うようになってしまうんだ。それが、自由同盟の正体だ」
エレミヤは深く頷いた。
「ルーサ人であっても、特定の教会に属して教会員として満足していたり、商売がうまくいっていたり、学問や趣味に熱中していたり、そういう人たちは、ルーサ人であるというただその一点だけにすがることはない。つまり――『鷹』の不幸な若者たちはルーサ人であることのほかに何のアイデンティティももてなかった」
エレミヤにはここに両親がいて、教会の友達もいて、なんならちょっとだけオルハンと双子との関係もいい感じに育ちつつあって、そして最近は大学に行くという夢もできた。もうルーサ人であることをもって他人を殴る必要はないのだ。
「父さんは、お前と自由同盟の人間を絶対に接触させないと決めている。お前は今はまだ自由同盟とは怖くて悪いものなんだと思っていていい」
そして、「ただ」と付け足した。
「やはり、もう十五で分別もつくようになってきたし、最近は少しずつ戦う練習をするのも必要なのかもしれないと思い始めてきたんだよね」
エレミヤより先に母が「ちょっと、あなた?」と文句をつけようとしたが、エレミヤは前のめりになって「なに、どういうこと?」と問いかけた。
「会ってみるかい?」
「誰に」
「イオアンに」
エレミヤは目を真ん丸にした。
「えっ、会えるの?」
「たぶん」
その人は最重要人物で双子の両親を殺した極悪人で指名手配犯なのだが――なんなら今生きているということがびっくりで、エレミヤにとっては伝説上の人物であると言っても過言ではない人なのだが。
「教会にたまに来るよ。自由同盟の人間として、勧誘に」
「えーっ、うっそー!」
「酷い生活をしているようなので食事を提供したこともある。ねえ?」
母が「言われてみれば」と呟く。
「
「めちゃめちゃショックなんですけど……」
「定期的に来るわけじゃないから、いついつに会えるという約束はできない。でも、来た時に引き留めてお前に会わせる、というのは不可能ではないと思う。何を吹き込まれるかわからない、言いくるめられて連れていかれるのは困るから、一対一にはならないでほしいけれど。私が立ち会いのもとでだったら、話を聞いてみるのもいいかもしれないね」
「そんな……ことが……可能なんだ……?」
「それこそオルハンさんたちには内緒だよ。本当なら帝都防衛隊に通報しないといけないところを救われるべき罪人で同胞だからという理由で見逃しているわけだから」
「そう……だよね……」
「その上で、はっきり言ったほうがいいのかもしれない。自由同盟には関わりません、と。もう、エレミヤ本人の意思できっぱり、自分たちの世代はそういうことはしません、と言ってもらったほうがいいのかもしれない」
そこまで言うと、父は十字を切ってからふたたびスプーンを手に取った。
「そこは、私が責任をもって戦うところを見守らないといけないのかもしれないねえ。いや、私自身が戦わなければならないのかもしれない。いつまでも頭を下げてばかりではなく、子供たちを守るためにも、子供たちが主張するのを助け、応援しなければ。それが私にとっての戦いなのかもしれない」
父がスプーンを取ったのを見たからか、母もスプーンを握って食事を再開した。
エレミヤは最初のうちこそ釈然としないものがあったが、父の言うとおり正面切ってイオアンを糾弾するのも自分の役割なのかもしれないと思い始めたので、とりあえず食事を進めることにした。今度は食べることができた。今夜はこれでめでたしめでたし。
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