第11話 三人で暮らそう

 オルハンが皇帝スルタンの部屋の前にたどりついた時、最初に目に入ったのはゼイネプの頭蓋が砕け散って脳髄が床にぶちまけられる瞬間だった。

 思わず叫んだ。

 怒りかどうかすらもわからない激情にき動かされるまま剣を振った。

 つたない一撃だった。相手がプロの兵士だったら避けられてしまっていたかもしれない。しかし相手は囚人であり、おそらくはルーサ人の知識層で、もしかしたら聖職者だったかもしれない男だ。難なく斬れた。

 こんな人間なんかに最強の部隊である『鷹』の一員のゼイネプが殺されたという事実が耐えがたかった。


 あたりが静まり返った。


 オルハンはその場で膝を折った。

 涙をこらえながら床に飛び散っているゼイネプの頭の中身を掻き集めた。そうしたところで彼女の生が戻ってくるわけではない、ということがわからなかった。どうにか元に戻したいと、そればかりを考えた。


「兄さん」


 肩をつかまれた。

 顔を上げると、疲れた顔のシャフィークが膝立ちでオルハンの右隣に寄り添っていた。いつもへらへらしている彼が笑っていない。珍しい。


「ここはもう終わったよ」


 周囲を見回した。

 誰も動いていない。

 血の香りが充満している。


「……お前一人か?」

「うん」


 幼子のようにこくりとシャフィークが頷く。


「みんな死なせてしまったよ。僕一人だけでは足りなかった」


 それでも生来感情の揺れ動きの小さいシャフィークは、オルハンよりは冷静そうだった。淡々と状況説明をした。突如大勢のルーサ人が襲ってきたこと、全員が帝国南西部の高価な鋼の武器を所持していたこと、神への祈りを唱えた命知らずの狂信者たちに対して『鷹』の人数が少なかったこと――そして近衛兵と数人の『鷹』を連れて皇帝スルタンはこの居室から脱出していること。


「は?」


 オルハンは思わず本音を言ってしまった。


「お前から死ねや、クソてい


 再会してから初めてシャフィークが笑った。


「殿下がもう少し大きくなられるまでは。今陛下に死なれたら、どうしても、御子たちのお守りをする側の僕らが困るので……」


 シャフィークの言うとおりだ。彼がまっとうなことを言っていると、逆に不安を掻き立てられる。今は普通の状況ではないことを突きつけられる。


「忘れてた。お前はけがは?」

「それが優先順位か。兄さんにとって僕はそんなものなのだね」

「悪ぃ」

「まあ肩と腿を少し打撲したくらいで元気だよ、歩けるししゃべれる。でも――少し休憩したいかな」


 そこまで言うと、彼は自分のマントをはずしてゼイネプにかけた。彼女の全身を覆う。それから横抱きで抱え上げ、廊下の端に移動させる。そこには彼女以外にも『鷹』のマントを身に着けた男女が並んでいた。シャフィークが一人で並べたのだろうか。まるで墓場だ。


 シャフィークが、ゼイネプの隣に座り込み、大きく息を吐いた。


「まだ動けるよ、大丈夫」


 そして微笑む。


「まだここに陛下がいると思わせておいたほうがいい。僕は誰にも何も言わずにここで援護を待つよ」


 オルハンよりシャフィークのほうがずっと冷静なのだ。


「もし誰かが来てくれる前に追加のルーサ人が来ても僕は一人で戦えるから。だから、兄さんはルーさんのところに行くといい」


 そう言われてから、オルハンは目を真ん丸にした。ゼイネプの死があまりにも衝撃的だったので、一番大事な人なのに頭からすっぽ抜けていた。


「ごめんな、シャフィーク」


 ここに彼を一人置き去りにすることは彼をも死なせることではないのか、というのも頭をよぎっていった。だが彼の言うとおり、オルハンから家族の愛情を奪っていった彼の優先順位はオルハンの中ではいつだって低い。それが心の底から申し訳なかった。彼は何も悪くないのにオルハンは彼を愛せない。


 腕を伸ばした。

 一瞬だけ強く抱き締めた。

 それがせめてもの償いだった。


「死ぬな」


 直後、オルハンはイオアンとルーダーベと別れた屋上へ跳んだ。




 ルーダーベの剣を媒介して目的地についた。

 一瞬のことが永遠に感じられた。

 早く彼女の声を直接聞き、顔を見たかった。できることなら抱き締めたかった。

 安心したかった。


「オルハン」


 もっと名前を呼んでほしかった。


 しゃがんだ状態で目を開けた。


 ルーダーベが血まみれで地面に這いつくばっていて、オルハンにその白く華奢な手を伸ばしているところだった。


「オルハン……」


 彼女の頬を涙が伝う。透明な涙が血に濡れた頬を洗っていく。


「双子を……双子をお願い……」


 彼女の唇から血があふれ出した。


 影が落ちたので顔を上げた。

 月光を背負って、イオアンがオルハンとルーダーベを見下ろしていた。


 イオアンが逆手で握っている剣が、ルーダーベの体を針で床に縫い留めるようにルーダーベの背中に突き刺さっている。


 目が合った。

 イオアンはひどく冷めた目をしていた。

 ああ、怒っている顔だ、とオルハンは思った。ルーダーベは彼の神経を逆なでするようなことをたくさん言ったんだな、ということを悟った。でなければ優しい彼が仲間だったルーダーベをここまでぼろぼろにするくらい切り刻むなんてありえない。

 失敗した。仲間たちの声が聞こえるルーダーベを伝令役として行かせて、オルハン自身がイオアンの相手をすべきだった。

 すべてあとのまつりだ。


 イオアンが剣から手を離した。

 だがあまりにも深く突き刺さっていて――後で確認したところ腹まで貫通していて――ルーダーベは床にうつぶせになったまま動けなかった。


「オルハン」


 ルーダーベの手が震えている。

 ルーダーベの声が震えている。


 彼女の手を握った。

 血でべとべとだった。


「双子をお願いね。双子を。双子をお願い――」


 彼女はそればかり繰り返して、そのうち事切れた。


「双子――」


 手が、ずるり、と抜け落ちた。


 オルハンはそのまま床に両手をついた。


 もう何も考えられなかった。ただただはてしなく疲れた。


「疲れたな」


 ぽつりとそう言ったのはイオアンだった。


 改めて顔を上げ、イオアンを見る。


 彼は腹や肩から血を流していたが、どれも致命傷ではなさそうだった。彼はただひと仕事を終えたあとかのようにゆっくり息を吐きながら、自分の額を引っ掻いていた。


「もう何も考えたくない」

「俺も」


 何も考えていないオルハンは、そんなことを言った。


「俺も疲れた」


 少し、間が開いた。


 イオアンがボタンをはずし、紐を解いて、自分のマントを剥ぎ取った。

 何をする気だろうと思って、オルハンはしばらく見守っていた。

 彼はオルハンに背を向けて歩き出した。


 屋上の端にかがり火が焚かれている。

 そのかがり火に、彼は自分のマントをかざした。

 マントに火がつき、燃え上がった。


 燃え盛るマントから手を離した。

 マントは灰になりながら空中で踊った。


 オルハンは、終わったんだな、と思った。すべて。何もかもが。友情。愛情。思い出。プライド。祈り、願い、望み。イオアンはそういう優しくて温かかったものを全部燃やしてしまったんだな、と思った。


「もう寝ろ」


 それは拒絶だ。


 イオアンは静かに扉を開け、一人で階段をおりていった。オルハンは黙ってその背中を見送った。

 もう、どうしようもなかった。


 しばらくして、人が来た。近衛兵たちだ。

 彼はオルハンの周りでがやがやと騒ぎ、あれこれ訊ね、なんやかんやしたが、何ひとつオルハンの中には入ってこなかった。


 近衛兵の一人が、ルーダーベの体からイオアンの剣を引っこ抜いた。

 ルーダーベの体は一回びくりと跳ねたがただの反動で、生きているからの反応ではない。


 ルーダーベが死んだ。


「そうだ、双子……」


 オルハンはふらふらと立ち上がった。


 近衛兵たちに何か言われたが、聞き取れなかった。


 もうなにもいらない。

 もうなにもかんがえられない。


 オルハンもマントをはずした。


 扉の両脇にもかがり火が焚かれていた。

 そのうちのひとつにマントをかぶせた。

 マントに火がつき、黒焦げになり、やがて灰になって空に舞い上がった。


「オルハン!?」

「ちょっと、なにを!?」


 振り切って階段をおりた。






 武官の官舎、クロシュとルーダーベが互いへの愛情と二人の子供をはぐくんだ部屋に向かうと、玄関で双子が揃って膝を抱えて座り込んでいた。

 二人とも強張った硬い顔をしていた。蒼白い肌で、人形のように固まっていた。


「どうした?」


 そう訊ねると、二人はゆっくり小さな声で話し始めた。


「お母さんが死んだって――」

「この家を出ていかないといけなくて――」

「どこに行ったらいいんだろうって――」

「もう売りに出されるしかないのかなって――」


 オルハンも玄関にしゃがみ込んだ。ひざまずくように膝をついた。


 右腕を伸ばす。

 片割れを抱き締める。


 左腕を伸ばす。

 片割れを抱き締める。


「怖かったな」


 そう言うと、二人がようやく声を上げて泣き出した。


「立て。行くぞ」

「どこに……?」

「さあ。どこかに。『巣』はペット禁止だから、今からマムラカの土地持ちをめぐって猫二匹飼えるところ探す」

「……にゃーん!」


 双子は泣きながら笑った。


「どこか誰にも見つからないところに行こうな。三人で。三人でもう誰にも指図されずに暮らそうな――」









 ここまでが、三年前のすべて。



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