第10話 あんたのそういうところいつかバカを見るからな

 ルーダーベの魔法は、美しい言い方をすれば――これはこれでちょっと怖いが――「心の声を聞く」のだそうだが、より正確に言うと相手の思考を読む。頭が自分の身体を動かす前に「右足で蹴る」「左手で殴る」などと考えてしまえば一瞬でもアウトで、まばたきをする間に彼女の精霊ジンとして授かった瞬発力にやられる。


 オルハンのように殴る蹴るの暴力に慣れて考える前に体が動くタイプだと効きが悪いらしいが、イオアンのように理詰めでものを考えるタイプにとっては最悪の敵だ。ましてひとに知られたくない秘密を抱えているのならなおさら、精神攻撃として効くはずだ。


 しかも、普通は魔法を使うたびに体力を消耗するはずだが、頻繁にクロシュとまぐわって精気を吸い尽くしてきた彼女の魔力は年々強まり、近年はほぼ無尽蔵だ。その上意識すれば宮殿全体に耳を広げることもできるので逃げられない。


 彼女はすべてをあばき立てる。


 ただし、完全で万能だというわけでもない。


 彼女の身体能力に限界がある。


 彼女は平均的なアリアナ人女性より少し小柄だ。その分体重が軽い。ひとつひとつの攻撃力がさほど強くないのである。もちろん一般人よりは圧倒的に強いが、『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』トップクラスの技能を有し鍛え上げられた鋼の筋肉を備えているイオアンとだと、どこまで渡り合えるかわからない。イオアンなら最悪武器を失っても両腕さえ動けばルーダーベの華奢な首などへし折ることができるに違いない。


 ルーダーベが先にイオアンを討ち取るか、イオアンがルーダーベに粘り勝ちをするか――勝負の分かれ目はそこだ。


 こんなことを考えなければいけないのが嫌だ。


 彼女の身体が疲労する前に戻って加勢する必要がある。急がなければならない。


 泣くな俺。


 ともかく、地下にある魔法陣を探して跳んだ。考えている暇はない。オルハンの魔法の一番の長所はルーダーベの魔法をもかわせるスピードだ。


 すぐに地下牢にたどりついた。


 地下は酷い有り様だった。血と汚物の臭い、そして転がる死体や怪我人の様子から牢番の兵士と収容されていた囚人たちが激しく衝突したのがわかる。

 囚人たちを解放したのは誰か? 囚人たちに武器を持たせたのは誰か?

 答えは明白だ。


 床に、オルハンが魔法を発動させるのに使った媒介の剣が転がっている。切っ先が二つに分かれた『鷹』の剣だ。

 全体が――刃も柄も血に濡れている。


 片膝をついてしゃがんだ。


 剣の持ち主が横たわっていた。二十歳と少しの若い『鷹』の青年だ。彼は美しいその顔を苦痛にゆがめたまま目を閉ざしていた。


 軽く肩を揺すった。

 うめき声が聞こえてきた。

 よかった。かろうじて生きている。


 名前を呼びかけた。彼が目を開けた。


「オルハン……?」

「そうだ。もう大丈夫だからな」

「大丈夫じゃない。だめだ。もう終わりだ」

「そんな言い方すんな」

「でも、だって――」


 目の端から涙がこぼれる。


「だって、あいつがこんなことをするって思ってなか――」


 頭を撫でてやった。


「少しだけ待っててくれ、ここを片づけたらすぐ医者を呼んでやるからな」


 オルハンは剣を抜いた。


 地下の奥から金属音と怒鳴り声が聞こえる。誰か複数の人間が剣を交えながら罵り合っている声だ。


 その剣を目標にして魔法を使えば一瞬で跳べるが、オルハンはあえて自分の足で走った。左右にある牢の鉄格子の向こうや通路に転がっている人間を目で見て確認したかったからだ。


 牢は全部がら空きだ。すべての囚人がここで兵士や『鷹』に倒されたか地上に出ていったことになる。


 人間はいずれも血まみれで、少し見ただけでは生死を判別できない。

 しかし着ている衣服でだいたいどこに所属している人間なのかは見分けることができる。

 汚れて黄ばんだ無地の服は囚人、白いシャツに赤いベストと革の靴は宮殿警護の兵士、そして、黒い鷹の翼の模様の刺繍が入った赤いマントを身に着けているのは『鷹』だ。


「……くそっ」


 地下牢の奥まではさほど長い距離ではなかった。距離にして数十歩で音の発信源に到着した。


 ちんたらチェックしていないですぐに魔法を使ってやればよかったかもしれない。


 剣を構えていたカムガイ人の『鷹』の青年の腹を、向かい合って剣を振るっていたルーサ人の『鷹』の青年の腹が突き破った。


 ほんの一瞬のことだった。


 オルハンは立ち止まって二人を見た。


 近づいてきたことに気づいたらしい。肩で荒い息をしながら、ルーサ人の『鷹』がこちらを向いた。


 とてもではないが楽しそうではなかった。蒼ざめており、白い唇からは何かが噴き出しそうで、真っ赤に充血した目からは涙がしたたり落ちてきそうだった。


「イオアンはあんたをつなぎとめておけなかったのか」


 こういう聞き方をするということは、今夜のこの悪事はルーサ人の『鷹』の間では計画的なものだということだろう。イオアンが犯行グループのどこかにいて、彼らは共通の目的意識を持っている。


「ルーさんとやり合ってる」

「帰ってきやがったのか、クソ魔女」

「そんなこと言ってるとルーさんに聞かれるぞ」

「じゃああの魔女が俺たちの計画の全貌を知るのも時間の問題だな」

「イオアンが全貌を知ってるならそうだろうな」

「イオアンが全貌を知らないと思ってるのか?」

「いや」


 彼は敬虔で、言動に一貫性があって、弱い者に優しくて、真面目で、本当に真面目で、クソがつくほど真面目だから、ルーサ人の仲間たちから非常に慕われていたのだ。


「なんなら首謀者なのかなとも思ってる」

「わかってるなら離れるな。あんたのそういうところいつかバカを見るからな」

「ご忠告ありがとよ」


 剣を、構えた。

 切っ先を、向けた。


 向こうも、仲間の血に濡れた刃をオルハンに向けた。


 一瞬のことだった。


 オルハンが踏み込んだ。

 魔法が発動した。

 彼の剣に皮膚が触れるすれすれまで一瞬のうちに移動した。

 切っ先を胸に突き立てた。


 彼の口から、血が噴き出した。


 剣を抜いた。肉が絡んで重かった。


 彼の体が床に崩れ落ちた。

 オルハンは無表情を装いながらそれを見下ろしていた。自分に冷静になれと言い聞かせていたが、彼の目に映ったオルハンは冷静そうに見えるだろうか。ルーダーベがオルハンの心の声を聞いていたら今頃大笑いか大泣きだ。


「オルハン」


 彼が言った。


「クロシュさんを殺したのはイオアンだ。あいつは本気だ」

「そうか」

「ああ」


 目を、閉じる。


「自由って何だろうな」


 それが最期の言葉になった。それきり彼は沈黙した。


 言葉が出なかった。頭が真っ白だ。早く次の行動に移らないといけないのに足が動かない。誰か命令してくれと思ってしまった。

 自分は、命令を上から下へ、意見を下から上へ、ただただひたすら誰かの話をつないでいるだけの団長だ。ここには、頭になってくれるクロシュやイオアンやゼイネプもいなければ、手足になってくれるシャフィークやルーダーベもいなかった。


 急がなければならない。だがどこに行けばいい?


 誰か命令を――


 はっと我に返った。


「ルーさん!」


 天井に向かって呼び掛けた。


「俺の声が聞こえるか!?」


 一瞬間が開いたが、


『聞こえてる!』

「そっちはどんな様子だ!? 俺今ちょっと手が空いた、そっちに跳んだほうがいい!?」

『バカ、早く来て、今すぐ来て、一刻も早くわたしを助けに来て! イオアンの馬鹿力、わたし一人じゃどうにもなんない!』

「よしきた」


 次の時だった。


 オルハンは目を真ん丸にした。


 目の前に、光の壁が現れた。

 正確には、顔の前に手の指を広げてよっつ分くらいの光る板が浮かんできた。


 ゼイネプの魔法だ。


 光の板に何かが反射するように浮かび上がり、やがていくつかの像を結んだ。そしてそれらが最終的にどこかの景色になった。


 絶句した。


 紅のマントを身に着けた青年たちが、大きな扉の前に転がっている。誰も彼も血にまみれて沈黙している。

 大きな、木製の、緻密な彫刻の施された扉だ。

 うんざりするほど通った部屋の前だった。


 皇帝スルタンの寝室だ。


『オルハン!』


 板の角度が変わった。景色が動き、ゼイネプの顔が映った。


 ぞっとした。


 ゼイネプの美しい顔に大きな刃物傷ができている。左目の上から右の唇の端まで達するほどの巨大な傷だ。


『来て! 早く!』


 冷静沈着を擬人化したような彼女がぼろぼろと泣いている。


『もう私とシャフィークしかいないの! シャフィークがやられたらもう誰も戦えない!』

「マジか」

『助けてオルハン! 助けて!』


 ゼイネプが泣き崩れた。

 その背後に、鉄の棒を構えた囚人の姿が見えた。


「ゼイネプ!!」


 すぐにルーダーベの声が聞こえてきた。


『ゼイネプのほうに行ってあげて』


 オルハンは歯を食いしばって魔法を発動した。


「ごめん、ルーさん」


 目指すは皇帝スルタンの部屋の前だ。



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