第9話 思考する限りわたしから逃れられない
ルーサ暦二月二十二日。
オルハンは『鷹』全員の予定表を書き換えた。『巣』の玄関に掲示されている巨大な黒い石板の行動予定表に石灰石のペンで矢印を書き込みまくって引っ繰り返したのだ。
流れるように綺麗なゼイネプの文字より、そういうつもりではないのに書き殴ったように見えるらしいオルハンの文字のほうが効果がある。オルハンはしばらく石板の前で人々の流れを見張っていたが、大きな文句は出なかった。何人かには「これなに?」と聞かれたが、適当に「
明日は聖ポリュカルポスの日だ。
何もなければそれでいい。杞憂であれば万々歳だ。
イオアンを信じてはいる。だが彼は優しいから情に流されてしまうような危うさがある。まして先日あんな会話をしたばかりだ。今、彼は葛藤しているかもしれない。
それに、ルーサ人の『鷹』はイオアンだけではない。誰も彼もいいやつだが以下同文だ。しかもみんなそれなりの訓練を受けた武人である。副団長で一番技術があるイオアンは手元に置いて監視するにしても、他の十七人までオルハン一人で拘束するのは現実的ではなかった。
この日、ルーサ人の『鷹』をすべて宮殿の内部の警備につかせる。宮殿の外に出さず、一般のルーサ人と接触させない。
できる限り普通の近衛兵との接触を増やすようにもした。マシュリク人兵士たちとやり取りさせることによって勝手な行動を取れないよう配慮した。
地下にも行かせない。
宮殿の地下牢には、冒涜罪や不敬罪、国家転覆罪で逮捕されたルーサ人たちもいる。中には去年の聖ポリュカルポスの日に捕まった者もある。そういう連中の半分くらいは知能犯なので、言葉巧みにルーサ人の『鷹』を操作しようとするかもしれない。ルーサ人は特別同胞意識が強い。
ほんの少しでも可能性を排除する。
ついでに、帝都防衛隊の人間とも会えないようにした。どの隊員がルーサ人に寝返っているかわからないからだ。アブー・ヌワースがどんなに有能でも、千人ほどいる防衛隊のすべてを把握しきれているとは思えない。取りこぼした人間と会話する可能性を排除する。
何事もなく終わりますように、何事もなく終わりますように、何事もなく終わりますように。
暦は日没とともに切り替わる。太陽が沈み、月が輝いたら、一日の始まりだ。
月は昇る。
二月二十三日が来る。
その時、オルハンはイオアンとルーダーベと三人で宮殿の二階――南側、礼拝堂の上――から正門を見下ろしていた。
ルーダーベにはルーサ人にとって二月二十三日がどんな意味があるのかを説明してある。彼女は前のめりで、自分の魔法が役に立つなら、と帰ってきてくれた。一時的なもので、今日が終わったらまた双子と引きこもってしまうかもしれない。けれど、
イオアンには、聖ポリュカルポスの日だからイオアンをそばで見張っていたいと考えている、ということは伏せてある。とはいえ頭のいい彼のことだから、あの行動予定表を見て何か勘づいているかもしれない。それでも何も言わない。オルハンが気づいていることに気づいていないのか、知らないふりをしているのか、あるいは――
ルーダーベが手すり壁に乗り出した。
「聞こえるわ」
彼女の、本来は黒曜石のように黒い瞳が、夕暮れの薄い闇の中で銀色に輝いている。魔力が彼女の体内を駆け巡っている証だ。
「――始まる」
日が、沈んだ。
礼拝を呼びかける声が聞こえてきた。マシュリク人たちにとっては日暮れの祈りの時間が始まる。
その、次の時だ。
帝都のあちこちから、地鳴りのような叫び声が聞こえてきた。
警鐘が一斉に鳴り響いた。
近衛兵たちが駆け寄ってきた。
「『鷹』!」
「へえへえ、何でございましょう」
「ルーサ人だ!」
三人で振り返る。
蒼い顔をした兵士たちが叫ぶ。
「ルーサ人どもが一斉に蜂起した! 防衛隊が鎮圧に当たっているが宮殿にも押しかけてきている、お前らは陛下を直接お守りしろ!」
「陛下を直接お守りするための要員はもう三十人くらい投入してある」
「用意がいいな」
オルハンはそれについては何も答えなかった。
門を大勢の人間が叩く音がする。
「門を守れ! 侵入を許すな!」
近衛兵たちがばたばたと駆け回る。
門の上から下へ矢を射かける。
叫び声が上がる。悲鳴、怒号、鬨の声。
「オルハン」
ルーダーベがオルハンの腕をつかんだ。
「わたしたちも門に行きましょう」
「なんで?」
自分たちはここでイオアンと待機するのだ。しかしイオアンがすぐそばにいるここではっきりとそう言うこともできず、オルハンは言葉に悩んだ。
ルーダーベの瞳がらんらんと輝いている。
「早く! 門が危ない!」
「でも近衛兵団が――」
「違うの!」
彼女は「聞こえる!」と叫んだ。
「開けてしまう!」
「こじ開けられそうか?」
「違う。内側から開ける奴がいる!」
それは重大な裏切りだ。暴徒と化したルーサ人たちとの内通した者がいることになる。
ここに? どこに? 近衛兵団か、防衛隊か、それとも――
イオアンが手すり壁に身を乗り出し、叫んだ。
「ルーダーベに聞こえている!」
門の近くに――オルハンの命令であえて近衛兵団とともにいたはずの『鷹』が、駆け出した。
まずい。
「だからでかい音と――礼拝の声と歩調を合わせろと言ったのに!」
ルーサ人の『鷹』たちが門のかんぬきを持ち上げた。重い、重すぎるはずのかんぬきを、軽々と引き抜いた。
滑車を回して鋼の綱を巻き上げる。門を左右に広げていく。
外にいた武装している男たちがなだれ込んでくる。
「クソが!」
とっさに正門の近くに行こうとした。『鷹』の剣すべてに魔法を施してある。魔法を通じて跳べば正門に行ける。
でも自分が行ってどうする? 何ができる?
最善の判断は何だ?
こういう時にいつもブレーンになってくれるイオアンが今日は頼りにならない。
「行くなよ」
イオアンはそう言いながらルーダーベを羽交い絞めにした。彼女の首元に短剣を突きつける。
「お前はここを動くな。俺と一緒にいろ」
笑ってしまった。自分たちはお互いを見張り合っていたということだ。イオアンは自分から能動的にオルハンと一緒にいることを選択していたのだ。
「お前が移動したらこの女を殺す」
だが、イオアンはルーダーベの真の力を味わったことがないのだ。
月明かりに、ルーダーベの白い頬が照らされている。
じわじわと、赤銅色の
「ああ、聞こえる」
彼女の魔法は、
「あなたの心の声が聞こえるわ、イオアン」
頭の中にしか響かない、他人には聞こえないはずの声にならない声を聞く。
「オルハンを馬鹿にしてもらっちゃ困るわ。こいつはわたし一人が死んだくらいで職務を放り出す男じゃないのよ」
イオアンがあからさまに動揺した顔をした。
「わたしを人質に取ったくらいで勝った気にならないで。あなたは思考する限りわたしの魔法から逃れられない」
ルーダーベがいつの間にか左手で腰の短剣を抜いていた。
イオアンの腹に突き立てた。
「わたしは顔を狙うと思っていたようね。ボディががら空きよ」
「このクソアマ」
深く刺さったわけではないようだ。服に血が滲んだが、内臓が飛び出るほどでもないらしい。イオアンは一歩分とびすさった。元気だ。
「聞こえる」
次から次へと、顎に、頬に、こめかみに、花が咲く。
「たすけて、って。あなた、たすけてって叫んでる」
「言うな!」
「わたしにはわかる。かわいそうに。でも門を開けたあなたたちは許されない」
ルーダーベが一足飛びでイオアンのもとに踏み込む。
「聞こえる!」
「黙れ!」
「オルハンにそばにいてほしいのね!? じゃあオルハンには地下に行ってもらいましょうねえ!」
彼女のその言葉を聞いてオルハンは決心した。
「地下牢のほうだな!?」
「そう! 門のほうは
「わかった!」
「いい子ね」
ルーダーベが腰の長剣を抜く。ルーダーベに向かい合っているイオアンも、同じように長剣を抜く。
『もし可能なら』
跳ぶ瞬間、彼女の声が頭の中に流れ込んできた。彼女は一方的に聞くだけではなく、任意の人間の頭の中に話しかけることも可能なのだ。
彼女の魔力が、心地いい。
イオアンに聞こえないよう、ルーダーベと内緒話をする。
『陛下の無事を確認したら、ここに帰ってきて』
どうして、と心の中で問いかけると、彼女は答えた。
『イオアンがおびえているから。止めてあげて』
彼女には、イオアンの心の叫びが聞こえているのだ。
引き裂かれるような苦痛を覚える。
この暴動は、イオアンにとってはきっと本意ではない。
抱き締めてやりたかったが、やはり、ルーサ人の『鷹』は彼だけではないこと、そして政治犯たちが解き放たれていることがオルハンを跳び立たせた。
どうか無事でと祈ると、ルーダーベが笑った。
「誰に物言ってんのよ!」
ルーダーベの剣とイオアンの剣がかち合った。
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