第8話 お前と知り合って何年だっけ

 何もしていないと思われがちだが、オルハンは一応『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の団長で、実務的なスケジュール管理はゼイネプに小遣いを握らせてやらせているとはいえ、一応誰がいつどこで何をしているのか把握しているていになっている。


 今日も、オルハンは、イオアンが皇帝スルタンの身辺警護をしていること、夜勤を終えて朝方『巣』に帰ってくることを知っていた。


 イオアンの部屋の前に座り込んでいるオルハンを見て、一人で廊下を歩いてきたイオアンが立ち止まる。


「何をしてるんだお前」


 彼の顔を上目遣いで見た。


「見てわからん? いとしのイオアン様を待っているうちに夜が明けたのよ」

「キモい」

「俺も言いながら気持ち悪ぃなと思ったからつっこまれなかったらどうしようかと思っちまった」


 イオアンがオルハンの目の前で立ち止まる。オルハンは立ち上がることなくそのままの姿勢を続けた。


「この前の休日何してた? 朝から晩までお出掛けしてたみたいじゃん」

「仕事以外のことまで管理される筋合いはない。休日ぐらい好きに過ごさせろ。お前だって休日はルーダーベさんと乳繰り合ってるんだろ」

「してねーよ、してたらもっとご機嫌だわ。たいがい双子の子守でルーさんと二人きりになることすら許されてねーわ」

「そうか、さすがのお前も十歳児の前では理性を保っているのか」

「褒めてくれていいのよ」

「ぬかせ」


 ドアノブに向かって手を伸ばすのを、手首をつかんで止める。イオアンの真っ黒な瞳がオルハンをにらみつける。


「……何の用だ?」

「何をしていたんだ、と聞いている」


 オルハンは一度イオアンの手首を離した。そして、ゆっくり立ち上がった。

 二人の身長はちょうど同じくらいだ。目線がかち合う。


「デート」


 にこりともせず答えた。楽しくなさそうだ。そう言えばオルハンの詮索をかわせるとでも思っているに違いない。

 イオアンは、嘘をつく時、挑むように真正面から相手を見据える。無意識のうちに警戒、威嚇しているからだ。

 自分たちはこういう癖のひとつひとつまで知っている。


 イオアンは頑固だ。その上義理堅い。絶対真実を吐かないだろう。


 おそらく、オルハンに知られたくない誰かと会っていたのだ。


 だが、オルハンには、具体的に誰とどこで会っていたのか想像がつかなかった。


 根掘り葉掘り聞くのも嫌だった。

 もし知られてもいい相手ならこの段階で教えてくれるはずだ。

 オルハンに教えたくないのなら、オルハンにとって不利益な相手なのだ。


 信じたかった。


 何を背負っているのか知らないが、一人で背負い込みたいならそうすればいい。イオアンのことだから最後まで貫くことだろう。


 ただ、本音を言うと少し寂しい。

 頼られたい。

 イオアンは甘え下手だ。ルーダーベを見習ってほしい。


「――お前と知り合って何年だっけ」


 オルハンが尋ねると、イオアンが「そうだな」と呟いてまたたきをした。


「十五年くらいか? 俺が十二の時だ」


 道理で嘘のつき方まで知り尽くしているわけだ。


「長い付き合いになったな。俺はずっと陛下の下にいたから逆に誰がいつ来たのかわからなくなっちまった。みんなやって来ては通りすぎていった」

「酷い奴だ、みんなお前を陛下の子分の中では一番のボスなんだと思ってぺこぺこしてたのに」

「っつっても俺も十一歳だろ。全盛期で可愛い頃じゃん」

「ああ、お互いな。お互い陛下の期待を裏切って普通の男に成長したな、今はむしろちょっと老け顔なくらいだ」


 イオアンの唇の端がわずかに持ち上がる。微妙すぎて感情が読めない。なつかしんでいるようでもあり、自嘲的なようでもある。楽しそうではない。


「ちょうど俺が生まれた年にルーサ王国が滅んだ」


 オルハンは黙った。イオアンがルーサ人の歴史について語り出したのは初めてだった。最初から最後まで傾聴しなければと思った。


「父親は王国軍の兵士だったらしい。最後の最後まで王都を守った。遺体は確認されていないが、戦死したか、捕虜として王都の城壁にさらされて死んだか、いずれにせよ生きてはいないだろう。母親は早々に諦めた。夫は民族の誇りと信仰に殉じて死んだに違いないと、祈るような気持ちで受け入れた」


 先帝の、今の皇帝スルタンの父親の時代だ。

 先帝は帝国を今の広大な領土まで拡大した人で、皮肉も込めて征服者と呼ばれている。何千人と殺してきた彼だったが、最後は宮殿の布団の上で死んだ。それを恨んだ人間はいったい何万人に及んでいることか。


「おふくろはでかい腹を抱えて王都を脱出した。金で安全を買った金持ちに保護されて、なんとかマムラカまで逃げてきた。当時のマムラカはルーサ王国から流出したルーサ人であふれていたから、紛れ込むのは大して難しいことじゃなかったという。だが生まれたての赤ん坊を抱えた若い女ができることはたかが知れてた」


 オルハンはひやりとするものを感じたが、その先に続いた言葉に少しほっとした。


「さっき言った、金で安全を買った金持ちが拾ってくれたんだ。落ち着くまでマムラカの別邸――当時はすでに本宅になっていたが――そこで暮らしていいと言ってくれた。おふくろは似たような境遇の女が何人かいることもあって安心して身を寄せた」


 ところが結局、予想の斜め上の展開になった。


「金持ちは善人じゃなかった。女たちは奴隷を産むための奴隷になった。生まれた子供たちを一人、また一人と切り売りし始めた。くいっぱぐれのルーサ人は掃いて捨てるほどいたから薄利多売だったみたいだけどな」


 そこで互いに溜息をついた。


「そうして十二歳の時俺は今の皇帝スルタンに献上された。以後はご存じのとおりだ。めでたしめでたし」

「楽しい生い立ちじゃないだろうなとは思ってたけど思ってたより百倍壮絶だった」

「でも、どうなんだろうな」


 イオアンが目を逸らす。逆に、こういう目をしている時のイオアンは本気で優しい。


「十二歳までは母親と一緒にいられた。五人くらい弟と妹が生まれて子守に追われたけど、おふくろは正真正銘唯一の夫の子供である俺を一番可愛がってくれた。何かにつけて全力で守ってくれた、十二まで売るのを引き延ばすくらいには。……皇帝スルタンの奴隷という、当時考えられる中では最善の選択肢を選ばせてくれるくらいには」


 一方、オルハンに母親はいない。


「おふくろは俺にいろんなことを教えてくれた。ルーサ語。ルーサ使徒教会の信仰。ルーサ人の歴史がいかに古いか。ルーサ民族が、いかに、偉大か。いつかルーサ民族の罪は浄化され自由に羽ばたいて天使たちとともに天の門に入る」


 その言葉を聞いた時、オルハンは不安になった。思わずもう一度イオアンの手首をつかんだ。


「早まるんじゃねぇぞ」

「何もしてない」

「お前の母ちゃんはお前に幸せになること以外の何も望んじゃいないと思う」

「もう死んだ」

「イオアン!」


 手首をゆすって「しっかりしろ」と訴えるように言う。


「冷静に考えろ。ルーサ王国は滅んだ。ルーサ人のほとんどは解放奴隷になって自由に金を稼いでる、帝国でまっとうに暮らしてる。それにお前を売ったのは同じルーサ人だろ? お前がルーサ人のためにすべきことなんて何にもないし、したところで無駄な労力払わされるだけだ」

「そうなんだよな。そう。何もかもお前の言うとおりだ」


 静かな声で「どけ」と言われた。


「疲れた。寝かせてくれ」


 その声に本気で疲労が滲んでいる気がしたので、オルハンはやむを得ずイオアンの手首を離した。


「……おやすみな」

「ああ。おやすみ」


 イオアンがドアを開ける。


「一人で冷静になってゆっくり考えればまた変わるだろ」

「そうだといいな」


 ドアが、閉まる。


 そのドアに向かって、オルハンは呟いた。


「母ちゃんと一緒にいた十二年と俺と一緒にいた十五年のどっちが大事なんだよ……」


 父親に赤ん坊を放り投げて消えた精霊ジンを母親にもつオルハンには、想像がつかなかった。



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