第7話 ルーさんなら四十でも五十でも綺麗だろ

 クロシュとルーダーベが暮らしていた家の居間で、ルーダーベと双子とオルハンの四人が食事を囲む。絨毯の上に布を広げ、その上に料理を並べて、直接床の上に腰を下ろす――このあたりの地域ではよくある食事スタイルだ。

 いきなり訪問したら自分の分の食事はないのではないかと思ったオルハンは、市場で自分一人分の料理とパンを適当に調達した。が、たどりついてみると食事は四人分あるという。


「お父さんの分も毎回用意してます」


 双子の片割れが言う。


「お父さんの魂がちゃんと天国に行けなくてさまよっているといけないと思って。いつ帰ってきてもお父さんの分はちゃんとあるよって――」


 そう話す双子の片割れの頭を撫でると、その片割れの大きな目に涙が滲んだ。


「それ、俺が食っていいのか?」

「いいです。結局いつもロスとミーネで食べちゃうですし」

「そっかそっか。じゃあいただくわ」


 買ってきた総菜も並べると五人分になるが、育ち盛りの双子の胃に収まるなら何よりだ。


「ここのところどうよ」


 オルハンがそう訊ねると、ルーダーベが首を横に振った。


「もう、ぜんぜんだめ。メンタルもそうだけど、家のことが何にもまわらない。わたしどんだけクロシュに家事やらせてたのって感じよ」

「目に浮かぶようだぜ」

「あと、家の借用書とか双子の手習い所への寄付金とか、膨大な事務書類も出てきて途方に暮れてる。いつかゼイネプにお小遣い握らせて処理してもらおうともくろんでる」

「それが一番早ぇな」


 双子が「お料理はだいじょうぶです」「ロスとミーネでやるです」と言う。健気な子たちだ。


「あとお洗濯も。お母さん、遅くまでお酒を飲んでて朝起きられないんですもの」


 ルーダーベが慌てて「それは言わなくていい!」と言ったが、双子はそれを皮切りに次から次へとべらべらと母親の不手際を吐き出し始めた。双子も母親以外の大人の話し相手が欲しかったのかもしれない。オルハンはあまりのルーダーベらしさに笑ったが、同時にそれを十年以上ずっとフォローしてきたクロシュという男の存在感の大きさも思い知らされる。


「この分じゃ当分仕事への復帰はねえな」


 オルハンがそう呟くと、ルーダーベが急にしょぼんとうな垂れて「ごめんなさい」と言った。


「ひょっとして、今日はそういう話だった?」


 慌てて首を横に振り、「ただルーさんと双子の顔を見に来ただけよ」と答える。ルーダーベが「そう」と息を吐く。


「ね、オルハン」

「別にいいぜ、しばらくゆっくりしろよ。『鷹』はみんな事情わかってるんだから誰もルーさんを急かさない」

「そうじゃなくてさ、もう、根本的に」


 スープを飲んでいた匙を置く。


「『鷹』を辞めることってできないのかなあ……?」


 ひゅっと、心臓を撫でられたような不安を覚える。


「今までは家のことのほとんどをクロシュがやってくれてたし、なんていうか、刹那的、っていうの? 一時的なパッションで動く生き方してるわたしより堅実なクロシュのほうが長生きするんだと思い込んでたから、どうとでもなるような気がしてたけど。最近、なんかこう、いろいろ考えちゃって」


 双子が、じっと母親を見つめている。


「わたし一人ならいいわよ、いつどこで野垂れ死にしようが。でも、双子が――」


 ルーダーベも、双子の顔を順繰りに見た。


「わたしにまで何かあった時、この子たちはどうなるんだろう、って、ずっと考えちゃってる。この子たち、毎晩毎晩、わたしが寝るまで寝ないと言い張ってなかなか布団に入らないのよ。そんなところ見てると、もう、本当に、絶対生きて寝かしつけなきゃ、って思うわけ」


 オルハンは溜息をついた。双子は双子なりに母親が心配なのだ。毎晩飲んだくれて家事をおろそかにしている母親を眺めていたら、純粋に父の死を悲しんでいる場合ではないのか。

 父親にも母親にも可愛がられた記憶のないオルハンにはまったく考えられない話だが、双子は確かに両親に愛されて育ってきた。十歳にもなればその愛情を返そうと思うものか。


「そうなるとやっぱりいつ何が起こるかわからない『鷹』の仕事は怖いし、なんならそもそも宮殿にあまりいたくなくて――なにせ伏魔殿ってやつだわ。双子と陛下の距離もできるだけ離しておきたいしさ」


 濡れ布巾で手を拭く。


「今までそういう人いた? みんな死ぬか『卒業』するかの二択で平和的に辞めた人いないの?」


 オルハンは「いない」と即答した。ルーダーベも創立メンバーでわかっているのだろう、特に駄々をこねることなく頷いた。


「でも、まあ、ルーさんが一人目になるというのもアリかもしれないな。皇帝スルタンに掛け合ってみるわ」

「ごめんね、頼んでもいい? 陛下に何か申し上げるのって、結局オルハンが一番効果的だからさ」

「そこんとこよくわからんのだけど、みんなそう言うんだからそうなんだろうな。ひと肌脱ぎましょ」


 ルーダーベが空の食器を片づけ始めた。


「そう、ぜんぜん話は変わるんだけど、オルハンあんた銭湯ハンマームって行かない?」


 母親が立ち上がったので、双子も食器を重ね合わせ始める。オルハンも布の上のパン粉を払って空き皿の上に落とした。


「あんま行かないな、風呂なら『巣』にあるじゃん。特に何かポリシーがあるわけじゃないけど、汚れて帰ってきて人目のあるところに行くのはさあ」

「そうなんだけど、たまには気分転換に大きなお風呂もいいかなーと思ってこの前行こうとしたらさ、クロシュがいないことに気づいて」


 こんな些細なことで男親の存在の大きさを知る。


「ミーネはわたしと女湯に入ればいいんだけど、ロスは女湯に入れるわけにはいかないし、かといって一人で男湯にやるのは不安でしょ。だからあんた連れていってほしいんだけどさ」


 双子が同時に両腕を上げて「大きいお風呂入りたーい!」と主張した。オルハンは苦笑した。


 ルーダーベと二人土間に下りる。双子は食事用の布をたたんで、このままルーチンをこなすなら歯を磨いて寝間着に着替えて布団を敷く。


 洗い物の支度を始めると、ルーダーベは双子に「あとはオルハンにやらせるからあんたたち歯ぁ磨いて寝る準備しなさい」と告げた。双子は素直に「やったー」「よろしくお願いしますー」と言って歯磨き用の棒と手鏡を持ってきた。


 食器を洗う。

 ルーダーベの長い前髪がこめかみのあたりで揺れる。いつもはおろされている長い黒髪も今はひとつに束ねられていた。そんじょそこらにはいない美女だが、まるで普通の主婦のようだった。


 双子が歯磨きを終えて居間に戻っていくと、土間に二人きりになった。


 ルーダーベが棚に食器を収納する。小柄な彼女はクロシュが備え付けた棚に手を伸ばそうとすると爪先立ちになる。オルハンはそれがたまらなく愛しかった。


 後ろから、強く抱き締めた。


「……ちょっ、なに」


 ルーダーベが動揺した声を出す。


「やめてよ。お皿落とすかと思った。へこんじゃうで――」

「結婚しよう」


 両腕をしっかり腹に回す。華奢な体の背を強く強く自分の胸に押し付ける。


「俺が一生ルーさんと双子を守る。クロシュさんがやってきたこと俺が全部やる。『鷹』だって辞めたあと俺が養ってやれる、四人で住めるところに引っ越そう。双子だって男親も必要だろ」


 彼女の緊張が、筋肉の強張りや息遣いから伝わってくる。


「俺は絶対死なない。生きて、ルーさんと双子を守る。一生、命を懸けて」


 そこで一度、言葉を切った。ルーダーベの返事を待った。


 我ながら卑怯な奴だとオルハンは思った。ルーダーベが弱っているところに付け込んでいる。しかもこれでは双子を人質に取っているようなものだ。子供のためだと言われて心が揺らがない母親は少数派だろう。


 でも、今だった。

 それでも、今、言いたかった。


 どんなに卑怯な奴だとそしられてもいいから、彼女を手に入れたかった。

 もう、弱っている彼女を見たくない。いつものお姫様であり女王様である彼女でいてほしい。

 自分の上に君臨していてほしい。


「……オルハン」


 彼女が振り向こうとしたので、腕の力を抜いた。ほどく。

 向かい合った。

 彼女は、オルハンに胸に頬を寄せながら、「ごめんね」と呟いた。


「ここで頷いたらわたしは強い女でいられなくなる。わたしがわたしを好きでいられなくなる」


 弱くてもいいじゃないかと言ってしまうのは簡単だが、彼女に彼女を嫌いにならないでほしかった。


「甘えてばっかりでごめんね。ごめん。あんたを利用するだけして、わたしってほんとヤな女。せめて一発くらいヤらせてやればいいのに」

「俺が欲しいのはそういうのじゃない」

「そう言ってくれると思ってるからわたしは嫌な女なのよ」


 そして次の時オルハンから離れて、オルハンの後ろのほうを見て突然「寝なさい!」と怒鳴った。振り返ると、様子を窺っていたらしい双子が引っ込んでいった。オルハンは思わず笑ってしまった。


「クロシュさんとルーさんが付き合い始めたのっていつだっけ」

「わたしが十六歳の時だから、十二年前?」

「じゃあ十二年待つ」

「その頃わたし四十歳のおばさんなんだけど」

「ルーさんなら四十でも五十でも綺麗だろ」


 笑って手を振り、この家を出た。



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