第6話 ルーサ使徒教会自由同盟

 この後最初に動き出したのは実はシャフィークであった。


 普段は末っ子扱いで仲間からあしらわれているシャフィークだったが、むしろ、だからこそだろうか。茶の席で、酒の席で、時には音楽を聞きながら、ある時には馬術の競技に興じながら、シャフィークを侮った連中がべらべらと情報をこぼしてくる。おかげでシャフィークはいつの間にか『鷹』で一番の情報通に成長し、こういう時には誰に言われずとも真っ先に情報収集に出かけるようになった。


 今回も、彼はとんでもないところに出向いていた。


「兄さん、今日の午後空いてる?」


 空いているも何も、団長であるオルハンはよほどのことがない限り自ら率先して手を汚すことはないので、ほぼ常に『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の詰め所にいる。業務といったら同じ『鷹』たちの愚痴聞きぐらいで、つまり、暇なのだ。


「何かいいことあった?」


 シャフィークはにこにこしている。


「すっごくいいこと!」

「クロシュさんが死んで一週間も経たずにそんな顔できるお前の神経が知れないわ」

「だからこそだよ。クロシュさんの死の真相の手掛かりがつかめるかもしれない」


 それまで絨毯の上で寝そべっていたオルハンだったが、がばりと起き上がってシャフィークと向き合った。

 シャフィークは、顔はオルハンのほうを向けたまま、自分の人差し指で自分の頬をつついていた。ご機嫌だ。


「兄さんに会いたいと言ってくれている人がいるんだ」

「俺に?」

「兄さんなら用事があるならオメーから来いと言い出すんじゃないかとちょっとドキドキしているのだけど――」

「さすが二十三年の付き合いは違うな、俺の性格を知り尽くしている」

「それがね、向こうは『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』と対等か場合によってはそれ以上に偉い人だからね、どうしても兄さんのほうが出向いてへこへこ頭を下げてほしいんだよ」


 そんな相手は何人もいない。文官なら宰相やその補佐官くらいの上級役人か、武官なら帝国軍の将軍や副将軍クラスか、もしくは――


「帝都防衛隊長官、アブー・ヌワース様だ」




 さすがのオルハンも緊張した。気分は敵地潜入だ。潜入も何も正面玄関から堂々と『鷹』のマントをはためかせて入ってきたところなのだが、防衛隊の庁舎になんてお呼ばれしたことはない。


 アブー・ヌワース――帝都の治安を預かる官吏としてもっとも高位にある男だ。


 帝都防衛隊。

 戒律に則って市井にはびこる悪を裁き、時には宮廷の中に潜む背教者たちをも取り締まる。魔都マムラカを跋扈する闇を斬る、という点では平原で展開することを想定して訓練を積んでいる帝国軍より強いかもしれない。

 皇帝スルタンの命令で皇帝スルタンの邪魔者を秘密裏に排除してきた暗殺集団『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』とは、水と油の関係だ。なにせ『鷹』は防衛隊の仕事を増やす上に皇帝スルタンから特別扱いされて無罪放免となる団体である。帝都防衛隊からしたらおもしろくない。


 そんな防衛隊と『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の間の仲立ちをしていたのが、クロシュだった。


 そういえば、後任者を決めていなかった。基本的には顔と暗殺術の手腕重視の『鷹』にはクロシュほど知的で温厚な人間はそうそういないのだ。


 さて、その後釜について先方から話を振ってきてくれたのか――と思ったら、どうも違うらしい。


 庁舎の長官室の扉を開ける。赤いアリアナ絨毯の上に金の房のついたクッションが並べられ、文机とローテーブルには螺鈿らでん、全体的に爽やかな白檀の香りが漂っている。


 文机の向こう側に壮年の男が座っていた。白いターバンに黒々とした濃いあごひげ、鋭い眼光の男はアブー・ヌワースだ。

 彼は文机に両肘をつき、両手を重ね、その両手の上に鼻を載せるように唇を当てていた。


「久しいな、オルハンよ。いつぐらいぶりだ」


 重低音はそれだけで威圧感がある。


「少し見ないうちに十人並みになったな。陛下もさぞかしがっかりされておいでだろう」

「そうでしたっけ? 長官が長官に着任した時にご挨拶に上がったと思いましたけど」

「息災にしておったか――は、今のこの場にはふさわしくないか」


 アブー・ヌワースは表情ひとつ変えることなく「お悔やみ申し上げる」と言った。オルハンは少し気持ちを引き締めた。


「早々に後任者を決めていただきたい。隊員と『鷹』の良好な関係を維持するためには生贄が必要だ」

「その一言でクロシュさんがここでどう思われていたかよくわかりましたわ」

「別にそんなに難しいことを要求しているわけではない。だがシャフィークはやめておけ、こういう男は切り札に取っておくものだ」


 シャフィークのほうを見る。目が合う。彼は、ばちん、と片目を閉じてみせた。


「シャフィークと長官ってどういう関係なんです?」

「奥方とちょっとな」

「一筆書いてもらっただけだけどね」

「あーはいはいだいたいわかりました。コネって大事ですね」


 オルハンは文机の真正面まで来た。そして、アブー・ヌワースの真正面に堂々と座った。さすが防衛隊長官、肝が据わっているとでも言おうか、その程度のことではまったく動じない。


「『鷹』どもがクロシュ君のことで困っていると聞いてな。今回の件については我々も胸に痛むところであるし、遺体発見現場の場所が場所であるだけにあらぬ疑いを持たれても悲しいので、早急に情報を開示しておきたいと思ったのだ」


 また心にもないことを言う。この鉄面皮に「胸が痛む」とか「悲しい」とかいう感情があるようには思えなかったが、オルハンもまた面の皮が厚かったので「恐れ入ります」と言って頭を下げた。

 どさくさにまぎれてシャフィークもオルハンの隣に座った。さすが『鷹』一空気の読めない男、図々しさは天下一品だ。


「直接つながりがあるかどうかはわからないが、最近我々はある過激派組織を追跡している」

「過激派組織?」

「国家の転覆をもくろむ宗教団体だ」


 唇をちょっとゆがめて、「まあそんなものなど掃いて捨てるほどいるが」と付け足す。


「ただ、最近防衛隊の中に賄賂を受け取った者があって、内部で粛清したことがあってな。クロシュ君にもそのことは説明したはずだが、伝える前に死んだという解釈でよろしいか」


 オルハンは頷いた。正直なところ『鷹』たちは防衛隊の内部の事情にはあまり興味がなかったが、国家の転覆となると相手は皇帝スルタンの敵だ。仕事が増える。


「なんなら――これは私の勝手な想像だが、クロシュ君はその情報を捻り潰すために口封じとして殺害されたのかもしれん」


 唾を飲む。


「いったい、どういう目的で、誰がどんな賄賂を……?」


 アブー・ヌワースは、重々しく口を開いた。


「ルーサ使徒教会自由同盟だ」


 とうとう来たか。


 ルーサ人――マシュリク帝国の中で最大規模の少数民族。公職に就けない分商業に通じる者が多く、また金融の分野では戒律で禁止されている利子を取るため巨額の財を成す。ルーサ使徒教会と呼ばれる天主教の一派を狂信しており、教会を通じて帝国中にネットワークを広げ、聖職者を中心に独立解放運動を行っている――。


 この二十数年、ルーサ王国が滅んで以来、彼らは常に皇帝スルタンの首を狙ってきた。国家を転覆させ、攪乱し、破壊することで、ルーサ民族の優位を示そうと威嚇行動を行ってきたのだ。


 危険な民族だ。


「ルーサ商人は金を持っている」


 アブー・ヌワースが息を吐く。


「表向きは聖職者に清い金としてせっせと献金して貧困層に再分配していると言うが、裏ではわからん。こうして公職者に金を渡している者もあれば世界中から武器を買い集めている者もある」

「今回はまたどうして今のタイミングで賄賂を?」

「近々大きな集会があるのだろう。目星はつけている」


 彼は近くにいた部下に指先で何かを合図した。部下は踵を返すと、壁に立てかけられていた三本の紙の束を持ってきた。文机に広げる。


「この帝国には三種類の暦がある。普段我々が使っているマシュリク暦、春分を元旦とするアリアナ暦、そして奴ら曰く主の降誕を基準に作られているというルーサ暦だ」


 どれも微妙にずれがあるので、仕事をする時にはみっつともチェックするのが常識だ。


「ルーサ暦では毎日聖人の日が来る。聖アンナ、聖ニコライ、聖ゲオルギウス――子供が生まれたらその日の聖人にちなんだ名前をつけるというくらいだ」

「それはさすがの俺も知ってる」

「この暦で二月二十三日の日に、どでかい祭りが始まる、と我々は予想している」

「二月二十三日?」

「聖ポリュカルポスの日だ」


 首を傾げたオルハンを、アブー・ヌワースは鼻で笑った。


「天主教の教義を踏みにじられたことに抗議をして火刑にされた殉教者だ。聖ヨハネの使徒であるとされている。使徒教会では抵抗運動の象徴のような人物だ」


 オルハンは慌てて暦を見比べた。

 マシュリク暦で言えば一週間後だ。


「賄賂を受け取った男は、この日の祝祭を見逃してほしいと言われたという」

「……やべーな」


 教義を踏みにじられたことに憤慨し、殉教した者。


「早くイオアンに知らせないと。イオアンが板挟みになる」


 そう言ってオルハンは立ち上がった。

 そのオルハンの腕を、シャフィークがつかんだ。


「何だよ」

「イオアンが知らないと思う?」


 オルハンは目を丸くした。


「あの、頭の回転が速くてルーサ人の仲間を大切にしているイオアンが、こんなおおごとを知らずにのうのうと過ごしているとは、僕には思えないんだよなあ……」


 しばらく黙って向き合っていた。何を言ったらいいのかわからなかった。ただ腹の中で何かが渦巻いているのだけを感じていた。


「まあ、ここから先は『鷹』同士でゆっくり話し合ってくれ」


 そう言って、アブー・ヌワースが三枚のカレンダーをしまった。



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