第5話 その「いつか」が来ないとはこの時は思ってもみなかった

 クロシュは拝火教の信徒だった。彼は神官マギの一族であることにたいへんな誇りを持っていて、我が子に王書シャーナーメの登場人物の名をつけるほどアリアナ文化を愛していた。


 そんな彼をルーダーベは拝火教の掟に則って葬ってほしいと言ったが、拝火教の葬儀といったら、天の御使いである鳥に遺体を『預ける』、いわゆる鳥葬である。聖法教の都であるマムラカには、死肉をついばむ猛禽類と安全に共存するための塔はない。人間が少なく乾燥しているアリアナ高原とは違って、川の流れる百万都市マムラカで遺体を長期間晒しておくのは、衛生的にも問題がある。『鷹』の共同墓地に埋葬するのが一番現実的だった。


『鷹』のみんなで時間をかけてルーダーベを説得した。皇帝スルタンに頼んで命令してもらうのが一番手っ取り早かったが、ルーダーベもクロシュもみんなに愛されていて、誰もがこれ以上彼女を傷つけたくないと思っていた。クロシュへの申し訳なさもあった。彼は信仰を守るために『鷹』に身を捧げてきたようなものだ。そんな彼の最期を異教のやり方で葬るなんて残酷だ。


 自分の最期がどうなるかなど、オルハンは考えたことがなかった。この仕事をしている以上早めに死ぬ気がしていたが、その後遺された人々が自分をどう葬るかで議論をすることは想定していなかった。

 こだわりはないのですんなり『鷹』の共同墓地に押し込んでくれればいいのだが、誰かはオルハンの父親がカムガイ人であることを思い出すだろうか。生まれてこのかたマムラカから出たことのないオルハンに草原への執着はないけれど、誰かはそんなことを想像するのだろうか。


 オルハンの隣で、イオアンがぽつりと「つらいな」と呟いた。彼も熱心なルーサ使徒教会の信者だ。イオアンはどんな最期を望むだろう。やはり教会の裏に運んで十字架の墓碑を用意してほしいのか。

 いつかは話し合わなければならない。

 いつかは。


 最終的にルーダーベは折れた。彼女もクロシュのために泣きたいだけで本当はどうするのが一番スムーズなのかわかっているのだ。


 目を真っ赤に泣き腫らしても、彼女は美しい。


『鷹』の有志一同でクロシュの体を洗い清め、棺に納めた。

 そして、彼とルーダーベが十年を過ごした武官の邸宅に運んだ。


 遺体になった父親を、双子の子供たちが出迎える。


 ルーダーベがクロシュから離れようとしなかったので、オルハンはゼイネプとシャフィークに頼んであらかじめ双子に父親の死を説明してもらっておいた。いきなり父親の遺体や錯乱している母親の姿と対面するのは可哀想ではないかと思ったのだ。

 双子は現実感のない様子で、泣きもしなければ茶化しもしない、落ち着いた態度で聞いていたらしい。

 子供を育てたことのないゼイネプは「まだよくわからないのかしら」と言っていたが、当時すでに妻子持ちで四歳の子供と暮らしていたシャフィークは「いやいや」と首を横に振った。


「子供は空気を読むからね。僕らこそあの子たちがどんなリアクションをしても冷静に対応できるよう覚悟しておいたほうがいい」


 居間の絨毯の上に棺を下ろす。ふたを開け、ぼんやり棺の脇に突っ立っている双子に父親の死に顔を見せる。


 双子はしばらく黙ってクロシュの顔を見下ろしていた。


 そんな双子を見てルーダーベがまた泣いた。右腕に片割れを、左腕に片割れを抱き、泣きながらその場に膝をついた。


「お父さんに挨拶して」


 母親にそう言われた途端、片方の大きな黒い瞳からぼたぼたと大粒の涙がこぼれてきた。獣のように低く「うーっ」と唸る。首を横に振る。

 それからワンテンポ遅れて、もう片方も泣き出した。兄だか妹だかが泣き出したことで自分も泣くことを許された気になったのかもしれない。昨日ルーダーベがクロシュの遺体と対面した時の自分たちとまったく同じだ。ルーダーベが泣いているから泣ける。


「嘘でしょ? ねえお父さん。嘘でしょ? 嘘でしょ?」


 そう繰り返す子供たちに、ついてきた『鷹』の幹部たちは何も言えなかった。


 十歳はどこまでわかっているんだろうな、とぼんやり考える。まだまだ子供ではある。だが自我ははっきりしている。思春期にはまだ早い。それでも親に反抗する程度にはおのれがある。人間の死、それも自分たちを溺愛してくれた父親の死を理解できない年ではないはずだ。


 それに――片方はこんなことを言い出した。


「お母さん、だいじょうぶ?」


 胸が握り潰されるような苦しみを覚える。


「お母さん、つらい? お母さんがおかしくなっちゃわないか心配」

「あんたたちはそんなこと言わなくていいの!」


 ルーダーベは子供の服で自分の涙を拭いた。


「そうね、だめね。あんたたちのためにわたしがしっかりしなきゃいけないわね」


 たまらなくなって、オルハンは三人まとめて抱き締めた。


「大丈夫だからな」


 このまま泣かせ続けてあげたかった。


「俺がお前らのことを守ってやるからな。しっかりなんてしてなくてもいい」


 双子がまたぴいぴいと泣いた。




 クロシュを埋葬したのはクロシュが亡くなってから三日後のことだった。

 かわるがわる誰かが訪れてはクロシュのために泣いた。

 彼がどれだけ慕われていたかがよくわかる。『鷹』はもちろん、『卒業』して近衛武官になった元『鷹』たち、アリアナ人の親族や友人、帝都防衛隊の隊員や帝国軍の高官まで弔問に来た。


 その間ルーダーベはずっと泣いていて使い物にならなかったので、喪主は実質的に直属の上司であるオルハンが務めることになった。誰もルーダーベに期待していない空気がいっそ清々しかった。彼女はみんなのお姫様で、恥も外聞もなく泣いていても叱られない。

 ただ、子供である双子だけはルーダーベの顔色を窺って過ごしていた。それがまた痛々しくて、イオアンやシャフィークが気を遣って時々母親から引き離したりなどしていた。子供は子供らしくいてほしい――それが遺された『鷹』一同の総意だ。


 最後、墓地に棺を運び、墓穴に棺を沈め、土をかけた。その時、双子が小さな声で「待って」「埋めないで」と呟くのがまたいじらしくて、こちらまで泣きそうになってしまう。


「お父さん……もう会えないの? お父さん……」


 わかっているだろうにそう訊ねてくる双子に、誰も何も言わなかった。




 埋葬が終わり、みんなで一度クロシュの家に引き返して、会食をした。静かでつまらない食事だった。誰もクロシュとの思い出を語ろうとはしなかった。喪失感があまりにも大きすぎた。

 それでもルーダーベがなんとか正気を取り戻したと見えたので、オルハンはルーダーベと双子を残して『巣』に引き揚げることにした。


「大丈夫よ、そんなに心配しないで」


 ルーダーベが震える声で言った。


「わたし、この子たちのためにがんばるわ。クロシュの子だもの。この子たちの生活を守るためにしっかりするわ」


 そう言うルーダーベをゼイネプが抱き締めた。たぶんみんな彼女を抱き締めたい心境だったと思うが、一応異性の自分たちが馴れ馴れしく彼女に触れるのは控えた。


「でもごめんなさい、ちょっと時間をちょうだい。しばらく『鷹』としての仕事はできない。まずはクロシュの遺品を片づけて、双子の生活リズムを整えてあげなきゃ」

「ああ、そうしてくれ。残りのことは全部俺らに任せろ。それにまた様子を見に来させてくれ」

「心配しなくても変な気を起こしたりはしないわよ」

「心配ぐらいさせてくれよ。どうあがいたって俺たちには心の傷ってやつは癒せねえんだからよ、せめてできることぐらいはさせてくれ」


 ルーダーベがちょっと笑ってオルハンの胸を殴った。オルハンは苦笑してそれを受け入れた。


「何かあったら言ってくれ。俺は何でもするからな」

「ばーか」


 そうして、口々に「それじゃ」「また」と言ってクロシュの家を辞した。


 帰り道も静かなものだった。今まで多くの仲間たちを見送ってきたが、ここまで重苦しい空気は久々だ。


「なあ、オルハン」


 もうすぐ『巣』というところで、ようやくイオアンが口を開いた。


「なんだ」

「何か気づくことはあったか」

「何の?」

「クロシュさんを刺した人間について目星はついたか、という話だ」


 頭を掻く。


「それなあ。俺、ずっと先頭で弔問客の様子を見てたけど、なんか、こいつ怪しいな、みたいなのわからなかったんだよな。俺も自分で思ってるより混乱してるのかもな」

「その可能性はあるわね。私もクールぶっているように見られているみたいだけど正直ルーさんや双子に声をかけることもできないくらいショックを引きずってる。私でさえこうなんだから――」


 そう言ってくれたゼイネプの頭を撫でてやった。ゼイネプが心底嫌そうに「なによ」と言って振り払った。


「お前はどうだ?」


 イオアンが首を横に振る。


「むしろ、意外に防衛隊に好かれてたな、と思って、仕事の面でこの先が不安になった。クロシュさんには申し訳ないが、俺は今後『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』としてどうなるのか心配してしまっている」

「まあ……、大人になるとそういう悲しみもあるよな」


 後ろを向き、「シャフィーク」と問いかける。シャフィークも首を横に振る。


「お墓ではずっと双子と一緒にいたし、周りの人間に気を配っていられなかった。申し訳ない」

「いや、それはそれでいいんだ。双子は気を遣ってくれる大人がいてくれて多少は安心したんじゃねえの」

「ひとりの父親として自分の子供のことを思い出してしまったよ。双子の傷が予想より浅く済めばいいと願うばかりだ」


 そして呟く。


「死ねないなあ。死ねない。死ねないよ」


 それが、家庭がある、ということか。


「とりあえず、ふりだしに戻る」


 イオアンがそう言ったので、一同は頷いた。



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