第4話 泣き喚いている奴がいると泣いてもいい雰囲気になったりする

 死因は短剣で胸をひと突きにされたことのようだった。

 傷はそのひとつだけで、あとは綺麗なものだった。美しい顔には傷は一切なく、遺体を回収した帝都防衛隊の隊員が口から漏れた血を拭ってくれたこともあって、まるで人形のようだった。眉根を寄せ、つらそうな顔をしているが、痛みにもがき苦しんだという様子とも少し違った。

 防衛隊に本人確認をと言われたが、誰がどう見ても間違いようのない。死んでいるのは『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の『お母さん』クロシュだ。


 防衛隊の隊員がクロシュの顔を覆っていた布をめくった時、ルーダーベはまず硬直した。しばらくの間無反応だった。大きな目を丸く見開き、ただ呆然と夫の死に顔を見下ろしていた。ショックが過ぎたのだろう。

 たっぷり十を数えてから、叫び声を上げた。


「クロシュ! クロシュ!!」


 ルーダーベが膝をついて遺体に縋りつく。そんな彼女に寄り添うように、ゼイネプも膝をついた。


「なんで!? どうしてこの人が!?」

「ルーさん、落ち着いて」

「この人何にも悪いことしてないじゃない! なんでこの人に限ってこういう目に遭うのよ! なんで!?」

「ルーさん」


 遺体安置室に呼ばれたのは『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の幹部であるいつものメンバー、オルハン、イオアン、シャフィーク、ゼイネプ、そしてルーダーベだ。

 みんな仲間の死には慣れている。ルーダーベ以外の四人は泣きはしなかった。だがみんなそれなりに動揺したらしく沈黙していた。ルーダーベの意味のない叫び声だけが響き渡った。


 ルーダーベの言うとおりだ。どうしてわざわざクロシュが、とオルハンは考え込んだ。

 クロシュはひとから恨みを買うタイプではない。好かれこそすれまったく憎まれるような人間ではなかった。しかも最近は『鷹』の『卒業』が決まっていたので、そんなに重大で危険な任務を与えることもなかった。後片付けのような雑務ばかりで、詰め所から離れるのもまれだったはずだ。


 膝を折り、ルーダーベの隣、ゼイネプの反対側にしゃがみ込む。

 クロシュにかけられた布をめくりあげる。胸に深い刺し傷があり、大量に出血したあとが残っている。


「素人の犯行じゃないな」


 シャフィークが言った。


「一撃で的確に心臓を刺し貫いている。プロの仕業だ」


 オルハンは頷いた。


「どこで見つかったって?」

「宮殿の防衛隊の庁舎の裏だそうだ」


 そんなところに賊が入り込んでいたらもっと大騒ぎになっているはずだ。防衛隊も『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』も総動員で大捕物おおとりものに当たっただろう。だが、クロシュはひっそり暗殺された。つまり、犯人は堂々と宮殿に出入りできる立場の人間である。


「防衛隊のうすのろにできる所業とも思えねぇ」


 安置室に隊員たちが控えているにもかかわらず、オルハンは煽るようなことを言った。イオアンが冷静に「バカ、よせ」とたしなめた。


「身内の犯行、かな?」


 シャフィークが言う。

 一同が黙る。

 少ししてから、ゼイネプが言う。


「争った形跡がないんだものね。クロシュさんは誰か顔見知りと対面で話していて、あるタイミングでいきなり刺された、とみるのが正解かもね」


 ルーダーベが金切り声を上げた。


「『鷹』の誰かがやったって言うの!?」

「そのとおりよ」


 ゼイネプはあくまで落ち着いている。


「宮殿の中で堂々と『鷹』を暗殺できるなんて『鷹』しか思いつかないわ」

「クソ野郎!」


 クロシュの冷たい頬に濡れた頬を寄せる。


「誰よそんな恩知らず! この人がどれだけみんなに尽くしてきたのか知らないで……ずっとみんなのことを守ってきたのに……!」


 シャフィークが「本当にね」とはなをすすった。


「どうしてよりによってクロシュさんが……『鷹』には殺されても仕方がないようなアホ他にいっぱいいるのにね……」


 シャフィークがそう言うと、イオアンが目頭を押さえて天井を見上げた。あのゼイネプでさえようやく事の重大さを悟ったかのように唇を引き結び眉間にしわを寄せた。


 ルーダーベが泣く姿はあまりにも痛々しいが、オルハンはほんの少しだけ救われる心地もした。彼女が泣き喚くことでみんなも泣いていいような空気になっている。彼女が気丈に笑顔で振る舞っていたらみんなもっとつらかっただろう。つらい時にはつらいと言って泣いてもいい。人間集団にはそういうキャラが一人は必要なのだ。


 それはそうと、彼女は比翼連理のこの世で唯一の夫を失った。元気に泣けるからといって泣いた分早く復活できるという保証もない。

 十年以上寄り添い合い、子供を為して育て家庭を築いてきた片翼を、ある日突然失った。どれほどの苦しみだろうか。伴侶のないオルハンには想像もつかない――と言いたいが、自分なら、ルーダーベがある日突然死んだら殺した相手を殺そうとするだろう。

 そこまで想像した時にようやく、オルハンの中に激しい感情が湧いてきた。憤怒だ。


「事件のあった昨日の夜に誰がどこにいたのか洗い出す」


 オルハンがそう言うと、イオアンが震える声で「無茶言うな」と言った。


「みんなそれぞれてんでばらばらに仕事に行ったか『巣』で寝ていたかだろう。アリバイなんて誰にもない」

「わかっててもやりてぇんだわ。どっちかっつーと犯行時刻をあぶり出すというよりは顔を見て反応をチェックしてやりたい」

「それは言えてるかもな。俺も付き合うか」


 さすが復活が早い。冷静沈着な表情を取り戻してゼイネプが問いかける。


「そもそも、オルハン、あなた把握していなかったの?」

「何をだ」

「クロシュさんがどうしてその時刻にあんなところにいたのか。仕事は全部団長であるあなたを通してやれと言っていたじゃない? それが、どうしてあなたがクロシュさんはなぜあんなところになんて言えるの」


 さすが鋭い指摘だ。イオアンが「そういえば」と言ってオルハンを見つめる。オルハンは溜息をついた。


「『卒業』にあたって挨拶まわりをしたいとしか聞いてなかった。俺もクロシュさんのことは信頼してたからいちいちいつどこで誰と会うかなんてチェックしてなかった」

「あなたのミスじゃない?」


 詰め寄るゼイネプにイオアンが「そういう言い方はやめろ」と止めに入る。


「クロシュさんがこういうことになってつらいのはみんな一緒だ。オルハンだけ平気なわけじゃない」

「私はあなたがやったと言っても信じるわ。あなたほどの手練れなら心臓をひと突きなんて造作もないことだし、誰にも気づかれずにクロシュさんを呼び出すことも可能だし、何より――」


 ちら、とルーダーベのほうを見る。見られたことに気づいたらしく、ルーダーベが涙でぐちゃぐちゃの顔でゼイネプを見上げる。


「クロシュさんがいなくなればルーダーベさんがフリーになる」


 言葉を失ったオルハンにかわって、イオアンがゼイネプの胸倉をつかむ。


「お前自分が何を言ってるのかわかってるのか」

「私は至極冷静よ。一番あり得ると思ったことを意見しているだけ。私の主観だけど、これ以上客観的な証拠が出てくるとも思えないし」

「言っていいことといけないことがある」

「ひとが死んだ時にまで口封じをしたいってこと?」

「ゼイネプ貴様――」


 オルハンは首を横に振り、溜息をついた。


「イオアン、いいんだ。言わせてやれ。ゼイネプだって言いたい気分なんだろ」


 ゼイネプが少しむっとした様子で「私は冷静だと言っているじゃない」と繰り返す。


「まあ、でも、どうにかしたほうがいいかもね」


 赤い目をしたシャフィークがようやく会話に入ってきた。


「悲しいけど――申し訳ないけど、この状況では一番疑われるのは兄さんなんだと思うんだよね」


 するとちょっと笑ってしまうことに、よりによってルーダーベがこんなことを言うのだ。


「オルハンはそんなやつじゃないわ!」


 一同が肩の力を抜いた。


 シャフィークが続ける。


「まあ、今のこのタイミングで、と言われたら確かに変なんだけどね。私怨だと決めつけてかかるのは早計だ。クロシュさんは挨拶まわりに行っていたんでしょう? クロシュさんが『卒業』することを知って急いで始末しようとした誰かがいるのかもしれない。それも僕らの把握していない何か大きな陰謀がきっかけで」


 イオアンが「俺はシャフィークの言うことを支持する」と宣言するように言う。


「どうせ身内の犯行だとバレるのにわざわざ防衛隊の庁舎の裏で犯行に及んだ理由がわからん。防衛隊との間に何かがあるのかもしれない」

「それな」


 そう言われると、オルハンにはまったく心当たりがないわけではないのだ。

 それこそ――オルハンは『鷹』全員の仕事を把握している。

 人当たりが良くて交渉や折衝のような仕事が得意なクロシュにしかできないことがあった。帝都防衛隊との棲み分けについての話し合いだ。

 もちろん団長のオルハンや副団長のイオアンもやっていることではある。だが、皇帝スルタンを守るために都合の悪い人間を力ずくで排除していく『鷹』は公的な武官に嫌われている。帝都の治安をあずかる防衛隊は基本的に『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』をよく思っていないのだ。したがってクロシュのように後から非公式にフォローしてくれる人間が必要なのである。

 そう考えると、クロシュが邪魔なのは反『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』派の防衛隊の人間だ。それでもこの暗殺の仕方はどう見ても『鷹』だから、オルハンの知らないところで防衛隊と懇意にしている『鷹』がいて、その『鷹』が防衛隊から利益供与を得て犯行に及んだと考えるのが自然か。

 これは自虐だが、防衛隊に嫌われている人間筆頭のオルハンにはどうしようもないことだった。イオアンやシャフィークのほうがもうちょっとうまくやる。


「とにかく」


 オルハンはまた溜息をつきながら言った。


「今日のところはもうクロシュさんをゆっくり休ませてやりたい。クロシュさんをどうするか決めないといけない」


 ルーダーベがはなをすすりながら「どうするか、って?」と問い掛けてくる。


「『巣』の霊安室に運ぶか、ルーさんちに運ぶか、だろ。双子にも教えてやらないといけないし、どこでどうやって双子に対面させるかも考えねえと」


 また、ルーダーベがわっと泣き出した。




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