第3話 他の男のことが好きな女が好きなのよ

『巣』もとい官舎に帰ると、玄関の軒下にイオアンが突っ立っていた。

 季節は冬だ。精霊ジンの血を引き普通の人間より多少丈夫にできているオルハンは平気だが、イオアンは寒そうにしている。『鷹』のマントの下に分厚いコートを着て、首にはマフラーを巻いていた。


「なにしてんのお前」

「お前が通りを歩いてくるのが見えたから待ってた」

「やだ、一途じゃん」

「今気づいたのか? 俺はいつでもお前のことを想ってる」

「きっしょ」

「俺も自分で言っていてきっしょく悪かったのでツッコミを入れられなかったらどうしようと思った」


 こんなことを言っているが、実はイオアンはゼイネプとちょっといい感じなのだ。どんなに皇帝スルタンの寵愛を受けたところでどいつもこいつもそんなもんである。


「お前も今帰り?」

「ああ。ちょっと仕事でな」


 そう言われた途端不安になってオルハンは腕を伸ばした。

 イオアンの体を強く抱き締める。冷えてはいるが、変な臭いはしない。たとえば血の臭いとか――鷹狩りはいつだって危険と隣り合わせだ。


「おい、嗅ぐなよ。自分が臭いのか気になるだろうが」

「香水でもつけろや。俺らもあっと言う間に加齢臭が始まるんだからよ」

「『鷹』から匂いがしたら仕事にならん。俺らは無味無臭じゃなきゃだめだ」

「どんな仕事でも俺を全部通せ」


 イオアンが溜息をついた。


「あんまり気負いすぎないようにな」


 いろんな人に何百回、何千回も言われてきた言葉だった。言ってくるのは主にクロシュ、それからイオアンだ。


「イオアンが優しいと俺そろそろ死ぬんじゃねーかと思っちまう」

「貴様俺のこと何だと思ってる?」

「うそうそ、お前はいつでも優しいわ。頼りになる副団長様だこと」


 冗談めかして言ったが、事実イオアンは気遣いのできる男だ。細かいところによく気がつく。ただ不器用なので裏目に出やすいだけだ。図々しくてはっきり物を言うオルハンとは対照的だった。オルハンはちょっと鈍感で、だがだからこそわかりやすくて好きだと笑ってくれたのはいつだか鷹狩りに失敗して死んだ先輩のうちの誰かだった。


『鷹』はどうも長生きしない。生きて『卒業』できたのは数えるほどだ。たぶん半分くらいは墓に入っている。それでもそれ以外の生き方を知らずに大人になった元美しい子供たち、それが『鷹』だった。


 仕事を振られたらどこでどうやって死ぬかわからない。だからオルハンは皇帝スルタンから仕事を振られたら必ず自分に話すようにと言っている。自分の魔法だったらどこでもすぐに駆けつけることができるからだ。しかし優しくて真面目で馬鹿な連中にはオルハンの負担を増やしたくなくて黙って出掛けるやつがいる――たとえばイオアンとか、だ。


「休みの日くらい自由に過ごせ」


 イオアンが呟くように言った。


「ただ。自傷行為みたいなのはやめろ」

「自傷行為?」

「ルーさんとクロシュさんの家に行ってたんだろ」


 玄関のドアを開けながら、オルハンは「あー」と息を吐いた。


「わかりやすいんだお前」

「今自由に過ごせって言ったじゃん。矛盾してる。俺は好きであの家に通ってる」

「いつになったら諦められるんだ? 双子が十歳だぞ」

「別にいいんじゃない、一生こんなでも」

「オルハン」


 イオアンの手がオルハンの肘をつかむ。


「ルーさんは人妻だ。もう十年前からずっとクロシュさんのものなんだ」


 オルハンは振り向かない。暗い廊下を見つめている。


「……わかりやすいんだよ、お前」

「うっせえわ」

「それとも双子が大きくなるのを待ってるのか? ルーさんそっくりだもんな」


 それにはむっとしてイオアンの手を振り払う。


「そういう言い方はもう二度とすんな。双子はルーさんの子供だ、俺にとっても子供と一緒だ、そういう対象にはならない、一生な」

「お前はそう言うと思ってた。そこまでのゲス野郎ではないだろうな、とは」

「じゃあなんで言ったんだ? まあ俺もお前が俺のこと本気でそういう奴だとは思っていないだろうなとは思ってたけど」

「それでもここまで執着してたら万が一のこともあるかと思って。だってそれくらい――」


 イオアンは、不器用で優しい奴なのだ。


「それくらい、お前の目はずっとルーダーベさんだけ見てる」


 オルハンは何も言わなかった。


 二人で廊下を歩き始める。団長のオルハンの部屋と副団長のイオアンの部屋は隣同士で、二人とも三階の奥のほうの部屋だった。二人とも私室に帰るつもりならおしゃべりはまだまだ続く。


「惚れた女が旦那にでれでれしているところを眺めて何が楽しい? それも十年だ。十年ケツを追いかけていて報われない」

「ほっとけよ」

「ルーさんだって気づいてるに決まってるだろ。気づいててあんな振る舞いをしてる。卑怯な女。お前が自然と諦めるのを待ってるんだぞ、最低だ」

「卑怯とか最低とか言うなや」

「じゃあ何だ? 魔性の女?」


 暗い廊下に二人の声だけが響く。


精霊シンの女だ」


 オルハンはイオアンを振り返り、にらみつけた。


「その言い方だけは二度とするな」


 イオアンがうつむき、「悪かった」と呟いた。なんだかんだ言って彼は生粋の人間で、こういう時はたまにわかり合えない。


「いいんだわ、俺はさあ」


 廊下の壁に取り付けられたランプの光が、じじ、と燃えている。小さな明かりが揺れる。


「クロシュさんが好きなルーさんが好きなんだわ。クロシュさんと一緒にいて幸せそうなルーさんを見てるのが好きなの。好きなひとには幸せでいてもらいたいじゃん。恋する可愛い女でいてもらってさ。それを眺めているだけで俺は満足なのよ」

「バカ」

「でもそういう俺も好きでしょ」

「クソ野郎」

「ひっひっひ」


 二人で薄暗い階段を上がる。


「双子も俺になついてくれてるしな。純粋に双子は可愛いぜ。十歳の頃の俺らなんて擦れちゃって可愛くねえガキだったと思うけど、あいつらは賢いながらも幼い。矛盾してるかもしれないけど、まあ、頭のいい子供なんだわ」

「言いたいことはわかる。俺が十歳の頃というと世界の薄汚いところを山ほど見てきた気分になってた」

「事実俺らが十歳くらいってこの世の地獄の半分は見てきたみたいなところあったじゃん。そして残り半分は『鷹』になってから見た」

「言えてる」


 他に誰の足音も聞こえない。


「いいんだわ、幸せなら、幸せで。幸せな家庭がそこにあるってんなら、それでよ」


 オルハンは、自分の部屋のドアノブに手をかけた。


「それを見てるだけで満足なのよ。だから、ほっといてくれ」


 イオアンが隣で溜息をつく。


「お前も自分の幸せってやつを追求しろ」

「だからさ――」

「俺は、純粋に、お前が心配だ」


 オルハンはイオアンを見た。イオアンもオルハンを見ていた。目と目が合った。


「……お前には、不幸になってほしくない」

「イオアン?」

「どうするのが正解なのか、本当は俺は今もまだ悩んでる。お前の――お前らの幸せを祈ってやらなくてどうするって、時々立ち止まって考えてる。でも――祈りたい時ってあるだろ」

「急にどうしちゃった?」

「こういう時、お前はどうやって祈る?」


 少しの間、二人は向かい合っていた。

 イオアンが何を言いたいのかさっぱりわからなかった。イオアンは昔からオルハンより頭が良くて抽象的なことも言いたがる奴だったが、このタイミングでこんなことを言ってくるとは思わなかった。


 そのうち、イオアンはふいと目を逸らして、ドアを開けた。


「寝ろ」


 部屋に引っ込んでいくイオアンの背中に、オルハンは混乱しながらも「おやすみ」と投げ掛けた。






 クロシュが遺体で発見されたのはそれから数日後のことだ。




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