4匹目 翼ある猫たちの狩りの失敗

第1話 3年前のあの頃を生きた鷹狩り用の猫たちの話

 アーケードの天窓から入る光が暗いことに気づいて、オルハンは立ち止まって頭上を見た。

 ここはマムラカで一番の市場だ。人の流れは決して絶えない。オルハンが道の真ん中で立ち止まっても、人々は彼を自然に避けて進んだ。

 星に似た多角形の窓枠に、粒子の荒いガラスがはめ込まれている。普段のこの時間帯ならそんな曇りガラスでも強烈な日光が差し入って通りを照らすものだが、空が曇ってきたのだろうか。気づかなかった。店の前には屋根がないので、店を出た時に曇っていればすぐに気づいたはずだ。この短時間で天気が変わったということか。


 市場にある無数の門のひとつをくぐり、馬車通りのほうに出る。案の定空が雨雲に覆われている。これはひどい雨が来そうだ。


 マムラカは砂漠の中にある都市だが、まったく雨が降らないわけではない。冬から春にかけて、一ヵ月に二、三日くらいの頻度で降ることがある。雨は基本的には畑を潤し井戸を肥やす神のお恵みだが、いつも人間の味方だとは限らない。砂漠の真ん中で大雨に見舞われると砂の谷に涸れ川ワディと呼ばれる急流ができてかえって危険だ。ましてここ数日は気温も低い。凍える人間が出るだろう。

 精霊ジンの血の濃いオルハンには気温の上下などあまり関係のないことだったが、エレミヤは普通の少年だ。雨が来る前に家に帰してやったほうがいいかもしれない。けれど、彼は今頃あの純真な瞳をらんらんと輝かせてシャフィークの語る叙事詩に耳を傾けているのだろうと思うとあまり気は進まない。


 好きなように解釈してくれ、という投げやりな気持ちと、それでも最低限の配慮はなされるのだろう、という照れや恥ずかしさと。


「ま、好き放題言ってくれや」


 オルハンは主人公になる気はなかった。自分はそんな殊勝なキャラではない。みんな自分を持ち上げたがるが、オルハンはひっそりと生きて朽ちていければ十分だった。盛大な葬式はいらない。墓もいらない。まして仲間たちの涙なんてなおさらだ。

 罪を背負っている、とか、運命を背負っている、とか、そんな御大層なことを言う気もなかった。みんな気づいていないだけで精霊ジンなんてそこらじゅうにいる。カムガイ人戦士の子供も掃いて捨てるほどいる。自分は特に珍しいタイプではない。たまたまだ。そう、すべては偶然で、ひとはそれを運命と呼びたがるがオルハンはそんなロマンチストではなかった。


 全部、たまたま。

 悲劇なんて、本当に小さなかけ違いの重なりで簡単に起きる。すべて、たまたまなのだ。


 それでも、どこかに悲劇を起こさずに済むポイントがあったらそっちを選んだんだろうな、と思う自分もいる。


 どこで止めればこんなことにならずに済んだのか。




 意識を三年前に飛ばす。




 あの頃『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』は創立十三周年を迎えようとしていた。


 先帝がこの帝国を統一した頃、オルハンは先帝の一の子分であるカムガイ人の将軍の息子として生を受けた。カムガイ人の将軍が愛人として囲っていたおそろしく美しい女が産んだ息子だ。その美しい女は子ができたことを告げる――というより宣言する――や否や精霊ジンとしての正体を現し、十月十日を待たずほんの数日で腹を膨らませて、何の苦しみもなく笑いながらオルハンを産み落としたという。そして、オルハンを将軍の正妻に託して文字どおり煙になって消えてしまった。


 将軍の正妻も賢く美しいひとで、人間のわりには気丈で神経の太い人だったが、それでもあくまで人間であった。ただでさえ夫の愛人の子だというのに、精霊ジンの血を引き常人にはできぬことをする幼子の相手をするのは難しかった。

 オルハンは特別虐待されたとまでは思わないが、彼女がオルハンと自分の実の息子であるシャフィークをそれとなく差別して育てていることには気づいていた。

 シャフィークには何の罪もない。わかっている。けれど彼と一緒にいたくなくて、特別に可愛がってくれる皇帝スルタンのもとに通い、ややして小姓として取り立てられた。シャフィークが無邪気にそんな兄の後を追いかけてきたこと、皇帝スルタンがこれもまた美しい少年であるシャフィークも気に入ったことは誤算だったが、とにかく自宅を離れられるのなら構わない。


 オルハンは勉学こそ苦手ではあったが、武術には人一倍長けていて、精霊ジンとしての魔法や身体能力の高さも活かすことができた。皇帝スルタンがコレクションしていたほかの美しい精霊ジンの子供たちとも仲良くなり、まとめてハッダード博士の教育を受け、知恵より一体感を醸成させていった。


 十三歳になった頃、オルハンは成長期を迎えて、一丁前に声変わりをしたり背を伸ばしたりし出した。それを見た皇帝スルタンは興覚めしたと同時に武力として使えるようになったことを確信した。精霊ジンの血を引くコレクションたちや、富豪から税金の代わりに引き取った奴隷、文官武官の私生児、その他訳ありだが簡単に殺すわけにはいかぬ利用価値の高い子供たちを掻き集めて、自分だけの近衛部隊を作り上げた。


 そして最初の仕事として、先の近衛部隊の隊員たちを暗殺させ、壊滅させた。


皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の誕生だ。


 創立当時のメンバーは十歳から十八歳くらいの少年少女で、『鷹』たちは『鷹』であることを楽しんで、仲間とつるんで『狩り』をすることに精を出していた。

 だが大きくなってくると皇帝スルタンの寵も薄れてくるし、知恵はつくのに体力は落ちて使い勝手が悪くなる。

 十年も経った頃には、皇帝スルタンは三十歳近い年かさの創立メンバーを配置替えすることにした。『鷹』を『卒業』させてまた別の近衛部隊を作り始めたのだ。『鷹』はあくまで鷹狩り用、こっちの近衛部隊はよその国から見ても立派な近衛で後ろ暗いところのない兵隊さん、といったところだ。

『鷹』たちはこの『卒業』が嫌だった。別に殺されるわけでもないのだが、楽しい仲良しグループから連れ出されてまっとうな仕事をさせられる、というのが強制的に大人にされるようで不愉快で、あとちょっとだけ恐ろしかった。


 というわけで、ちらほら創立メンバーが『卒業』していき、三年前当時は残った創立メンバーがだいたい二十代半ばから後半。団長のオルハンが二十六歳で、幹部の中では最年少のシャフィークが二十三歳、同じく幹部の中で最年長のクロシュが二十九歳だった。


 クロシュは温厚で何があっても絶対に怒らない男だった。いつも笑顔で面倒見がいい。その上、すらりとした立ち姿、さらさらの髪に大きな黒い瞳はたいへん美しく女性的だったから、メンバーからは「お母さん」というあだ名で親しまれていた。


 そんなクロシュにとうとう『卒業』の内示が下ったので、メンバーたちは泣いて怒って大騒ぎした。


「やだーっ! クロシュさんがいなくなったら誰がこの烏合の衆をまとめるんだよーっ」

「オルハンでしょ」


 その日もクロシュが市場で調達してきた菓子を食べながら幹部の会合――というほど立派なものでもない、お茶会に毛が生えたようなもの――を開いていた。クロシュはこういうこまごましたところもセンスがいい。


「みんな、しっかりね。僕がいなくなっても仲良くするんだよ」

「無理よ。もう終わりだわ。クロシュなしじゃもって半年」


 幹部の中でもとりわけクールなゼイネプが言う。彼女の父親はカムガイ人であり帝国軍の正規軍団の高官で、母親が精霊ジン、というオルハンとまったく同じ境遇だ。『鷹』にしては珍しく頭脳派で、自分が見たものを映像として他人に見せる魔法を使うことができ、情報収集などには重宝されていた。


「ゼイネプ、そんな冷たいこと言わないで」

「けど残り物たちに協調性がない」


 そう言って溜息をついたのはイオアンだ。彼は海洋貿易で巨万の富を築いたルーサ人富豪の息子で、税金の支払いを免れるために皇帝スルタンに奴隷として差し出された経歴をもつ。真面目で融通の利かない男なので、永遠に三歳児のオルハンや人生とは遊ぶことと心得ているシャフィークとはよく衝突した。


「クロシュがいなくなったら俺の仕事が増えるんだな」

「イオアン、あんまり悲観的にならないで。何かあったら手伝いにくるから、まめに胃薬を飲んで」


 最年少のシャフィークが無邪気に「僕がいるから大丈夫!」と言って何かを語り出したが、末っ子気質の彼では何を話しても説得力がない。


「そうよ、あんたたち、いい加減にしなさい」


 そこでクロシュにしなだれかかり、強引に腕を組んだ女がある。豊満な胸にくびれた腰、波打つ豊かな黒髪の女だ。長い睫毛は妖艶で、真っ赤な唇はいつも余裕の笑みをたたえていた。


「あんたたちのおもりはもう終わり。あんたもあんたもあんたもこれ以上クロシュに関わらないで。クロシュはもうあんたたちのわがままなんか聞かないのよ」


 そして邪悪に笑う。


「ざまあ。あんたたちがクロシュに会えなくなってもわたしだけは毎日クロシュに会えるのすごい優越感だわ。あんたやあんたやあんたはもう二度とクロシュに会えなくなるかもしれないけど、妻のわたしだけは毎晩好きな時にクロシュとセックスできるのよ。せいぜい嫉妬することねぇ!」


 クロシュが「ひい」とか細い声を上げた。


「ちょっとルーダーベ、自重して」

「やーなこった。どいつもこいつもクロシュクロシュクロシュクロシュ、みんないい加減クロシュはわたしのものなんだってことを学習してくれなきゃ困るわ」


 そして赤い唇をつんと尖らせた女――美貌の者が多いと言われる『鷹』の中でも至高と言われる魔性の女、数々の女を食い散らかしてきた男の精霊ジンとマムラカの市井で一番と謳われた絶世のアリアナ美女の間に生まれ誰もが絶望するほどの美しさをもって君臨する『鷹』の女王はルーダーベ。

 彼女こそ、すべての物語の主人公にふさわしい。



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