第9話 命を懸けてもいいものって何ですか?

 その次の日、双子の猫の店にシャフィークがやってきた。


「やあ、ごきげんよう」


 褐色の長い髪を緩く束ねており、開いた襟がついている紺色の服を着て、爪先のとがった靴を履いている。そして何より黒い日傘である。市場の大通りはアーケードがついているので日陰だが、武器通りは屋根がない。だからそのまま出歩くと日焼けしてしまう、という理屈はわかる。わかるけど、シャフィークみたいにきざな伊達男がやると、なんだかな。ちなみに今日は『鷹』のマントはしていない。非番なのだろう。


 エレミヤは怪訝な顔でシャフィークを出迎えたが、シャフィークは光り輝かんばかりの笑顔だ。


「おや? なんだか疲れている顔だね、少年。何かおもしろくないことでもあったのかい?」

「よくもぬけぬけと、昨日あのあと僕がどんな目に遭ったのか知っているくせに」

「はっはっは、言うようになったね。僕に生意気な口を利けるようになったら一人前だよ」


 店の奥に向かって「双子ー、シャフィークさんが来たよー」と言うと、洗濯物の片付けに精を出している双子が「わざわざわたしたちが相手をするまでもないですぅー」と返してきた。正しい。


「僕の絶大な権力をもって助けてあげたのに」

「恩着せがましい」


 しかしシャフィークの言うとおりだ。


 あのあと、エレミヤは帝都防衛隊の詰め所に連れていかれた。表面的には、事件の概容について聞きたい、という穏当な理由だったが、実際のところは取り調べで、騒動を起こした犯人としての扱いである。


 エレミヤは半べそで震えた。理由はともあれ、エレミヤも覆面の男の腕に剣を突き刺したのだ。傷害罪で逮捕、と言われれば仕方がない気がしたのである。加えて、防衛隊の連中に魔法の仕組みはわからないだろうとは思っていたが、なんとなく、自分がオルハンを召喚したせいで騒ぎが大きくなったのではないか、という気がしていた。全部自分のせい。どうしよう。つらい。人生ここで終わりか。


 牢屋に放り込まれそうになったあたりで、シャフィークが助けに来てくれた。いわく、相手は皇帝スルタンの御用学者であるハッダードを殺そうとした連中である。皇帝スルタンの意に背く大罪である。その場で処刑されたとしても仕方がない。特にエレミヤ少年の場合はまさに傷つけられんとするところだったので正当防衛である。――と言いつつ袖の下を渡していた。さすがはシャフィーク、手慣れたものだ。


 最終的にはシャフィークがエレミヤの両親を呼んでくれて、なんかいい感じのことを吹き込んでくれたらしく二人にたいへん心配してもらって、叱られることなく一件落着した。

 一応、もう今後一切ハッダードと一対一で会わないように、とは約束させられたが、大学に行けば大勢の人がいるところで会話をすることになる。今までと何も変わらない。


 ハッダードについても、傷は深かったが、命を左右するほどのものでもないそうだ。皇帝スルタン寄進財ワクフで作られた病院に入院して、今は厳重に警護されているらしい。


「今日もここに来る前にハッダード先生に会ってきたよ」


 そう言いながら、シャフィークは図々しく店の中に入ってきた。エレミヤを押し退け、勝手にカウンターに座る。そしてエレミヤに「まあまあ、座ってくつろいで」と言う。ここはあんたの家じゃない。


「先生、どんな具合でした?」

「今までとなぁんにも変わらず。早く学術問答をしに大学に戻りたいと言って聞かないよ。じゃあ病室に学生さんを呼ぶ? みたいなことも話していたから、もう少し傷の状態が安定したらエレミヤも行ってあげておくれよ」


 エレミヤはほっと胸を撫で下ろした。


「マジでなぁんにも変わらず?」


 突然頭上から声が降ってきた。顔を上げると、すぐそばにオルハンが立っていた。険しい顔でシャフィークとエレミヤを見下ろしている。それでもシャフィークは「やあやあ」と能天気な反応だ。


「これを機に引退したら、とでも言っといてくんない? あれじゃいくつ命があっても足りねぇわ」

「僕もそれは思ったんだよ。せめて宮廷学者として陛下のおそばで僕らに守られていてくれないか、と。でもね、ぜんぜんだめ。傷が良くなったら大学に戻るし、なんならまた旅に出るかもしれないとまで言っている」

「げぇ」


 エレミヤも顔をしかめた。


「帝国内を放浪してたら危ないですよ。預言者の言行録を絶対だと思っている人がいる限りこうして暗殺されそうになるということでしょ?」

「そういうこと」

「それに、そもそもお年なのに。何歳でしたっけ」

「何歳だったかな、正確にはわからないけど、確か六十八だか九だか」

「それで旅に出たいって、次は本当にマムラカに帰ってこれませんよ」

「まったく同意見だ」


 シャフィークが肩をすくめる。


「でも、先生はそれでもいいのかもしれないね」

「そう?」

「人間誰しも一番大事なものというのがあるじゃないか。これについてだけは命を懸けてもいいと思えるものが。先生の場合はそれが学術研究なのさ。死んでもいいんだよ。死んだら何も残らないと僕は思うんだけどね」

「俺もだ」


 オルハンが真面目な顔をする。


「どんなに大事なものであっても、死んじまったらもう守れない。生きて主張すること、生きて守ること。それがすべてだ」


 エレミヤは何とも言えなくて頷いた。こういう時、二人は自分よりずっと年上の大人なんだな、と思うのだった。エレミヤはむしろ信仰のためなら死んでもいいと思ってしまうタイプで、残すために、主張するために、守るために生きていく、というのがあまりぴんと来ない。

 真理を探究すること。真理を追究すること。これ以上に大事なことがあるだろうか。生きる意味を解き明かすことが生きるということではないのか。

 でも、たぶん、この二人にとっては違うのだ。


「聞いてもいいですか?」


 シャフィークが「何だい?」と微笑む。


「シャフィークさんにとっては、命を懸けてもいいものって何ですか? 『鷹』としてのプライドとか?」


 彼はあっさり「そんなものはどうでもいいんだよ」と答えた。こいつ、やっぱりオルハンの血縁だ。


「僕は奥さんだねぇ」

「えっ、結婚してるんですか?」

「もう連れ添って七年になるよ」


 オルハンが「こんなやつと七年も付き合える女神よ」と言うので、エレミヤも聖母を連想した。


「じゃ、オルハンさんは……?」


 おずおず尋ねた。

 オルハンはしれっとした顔で「特にない」と答えた。

 それを言い終わるか否かのところでシャフィークが割り込んできて「双子だよ」と言ってのけた。

 店の奥から「えーっ? オルハンさんが双子が世界で一番可愛いと思ってるですってーっ?」という声が聞こえてきた。地獄耳だ。

 オルハンが咳払いをした。否定はしないんだ。


「エレミヤは――って、まだ十五歳じゃぴんとこないかな」


 シャフィークに言われて、むっとして「馬鹿にしないでくださいよ」と答える。


「そりゃ、信仰ですよ。ルーサ使徒教会の人間として、主に近づくために祈りを続けること。ハッダード先生の真理を探究する気持ちと一緒です、僕にとってはそれが聖書や礼拝を通じてするものってだけで」


 そこで、シャフィークもオルハンも、一瞬黙った。


「――同じだな」

「何がですか?」

「イオアンと」


 一気に血の気が引いた。目が覚めた気分だった。


 オルハンが店の外へ向かってふらふらと歩き出した。


「シャフィーク」

「なんだい」

「エレミヤが三年前のことを知りたがってる。お前、教えてやれよ」


 シャフィークが肩をすくめて溜息をつく。


「僕が語ってもいいのかな? あの事件の中心人物は兄さんだったのに。突き詰めていけばあれは兄さんとイオアンの問題だ」

「知らねー。もう過去の話だ。どうだっていい」


 ひらひらと手を振る。


「口下手な俺より吟遊詩人みたいなお前が語ったほうがおもしれぇだろ。楽しくおしゃべりしてろ」

「兄さんはどこに行く気?」

「そのへんぶらついてくる。シャーベットでも食ってくるわ」


 その姿が、通りのほうに、消えた。


「……不器用な人だねぇ」


 シャフィークが息を吐いた。


「本当はエレミヤに教えてあげたいんだと思うんだよね。でも自分の口から語るのは恥ずかしいんだよ」


 エレミヤも苦笑して頷いた。


「まあ、そうだね。今日はいい機会だから昔話をしようか。僕らがまだ全員揃っていた頃の話を。――ルーダーベさんが生きていた頃の話を」


 そうして、シャフィークは静かに語り始めた。










 教会の扉はいつでも開いている。いつ誰が入ってきてもいいように、だ。教会は常に祈る人のために開かれている。


 グレゴリは今日も日課の午後の礼拝を済ませて天井を仰いだ。そこには磔刑にされた主の像が取り付けられていた。


「主よ」


 目を細める。


「どうぞ罪深い我々をお救いください。どうぞ我々の子を我々の罪に巻き込まぬようお取り計らいください」

「本気でそう思っているのか?」


 若い男の声が、先ほどまで無人だったはずの礼拝堂に響いた。

 グレゴリは血の気が引くのを感じながら振り返った。


 扉にもたれかかるようにして、一人の青年が立っていた。ターバンからはみ出る、緩やかに波打つ豊かな黒髪。若い男性にしては滑らかで白い肌。長い睫毛に黒曜石の瞳。


 彼の顔を見て、グレゴリは後ずさった。


「イオアン」


 彼は――イオアンは、教会の礼拝堂に一歩ずつ踏み入れながら、淡々と話を続けた。


「エレミヤがオルハンの周りをうろついているようだな」


 グレゴリは首を横に振った。


「あの子は何もしていない! 私もあの子がこんなふうに関わることになるなど想像していなかった。決して君たちを裏切るつもりでやっているつもりではないんだ」

「よくもぬけぬけと」

「本当だ、あの子は無関係なんだ。何も知らずに無邪気に社会勉強をしているつもりなんだ。決して、決して、信仰を、民族の誇りを捨てたわけじゃない」

「どこまで信用してもいい?」


 イオアンがグレゴリの目の前に立つ。

 グレゴリはひざまずき、両手を床についた。そして、床に額がつくのではないかというほど深く頭を下げた。


「オルハンやシャフィークの信頼を得ているなら皇帝スルタンのふところにも潜り込める」

「頼む、許してくれ」

「本物のルーサ人なら信仰のために殉じることも歓びのはずだ」

「あの子はまだ十五なんだ」


 グレゴリの肩が震える。それをイオアンが冷たい目で見下ろす。


「もう十五だ。俺が『鷹』になったのもそのくらいだ」

「イオアン……!」

「むしろ、礼を言う。次の作戦の時には、エレミヤにはルーサ人として大きな仕事をやってもらえると信じている。信仰心の篤いあんたの息子なら、必ず民族の役に立ってくれるだろう」

「やめてくれ!」


 グレゴリがイオアンの足にすがりついたが、イオアンはそれを蹴り飛ばした。踵を返し、教会の外に出ていく。


 空を見上げると今日も青空が広がっていた。マムラカの空はいつでも快晴だ。



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