第7話 偉い学者の先生は若者に未来を示していくんだよ
ハッダードは気前がよすぎる。
大学で会った二日後、彼は宮廷に上がる際にエレミヤも同行するよう求めてきた。
「大丈夫、君の知性は私のお墨付きだ。陛下もいい気分転換になるだろう」
そうは言っても宮殿の中だ。ルーサ人どころかマシュリク人でもふつうは入れない。エレミヤは最初辞退しようとした。
しかし周りの大人たちがそれを許さないのだ。
「まあ、いい機会じゃん。行ってくれば?」
そんな軽いノリで言ってきたのはオルハンである。
「ハッダード先生の言うとおり、
「そ、そういうものですかねぇ」
「
「顔ー!? 顔はちょっと! すごく困ります!」
「まー先生の言うことをおとなしく聞いてりゃつまみ出されることはないでしょ。シャフィークもいるんだろうしあんまり緊張することないんじゃね?」
エレミヤの両親も大喜びだ。
「ぜひとも上がらせていただきなさい! こんな機会一生に一度あるかどうかですよ」
「マシュリク人の王とはいえこの帝都の支配者だからね。かのお方の采配で私たちの暮らしも保護されているんだ。きちんとご挨拶するんだよ」
「うわーっ、怖いよーっ」
「ハッダード博士というのは信頼のおける学者様なんでしょう? そこまで気に入ってくださったなんて光栄なことじゃない」
「取って食われるわけじゃないんだから」
「いやーオルハンさんの話を聞いた限り取って食われるかもしれないんだけどさ……」
この世にエレミヤの味方なんかいないわけである。
というわけで当日、母に一番上等な民族服を着せられてお出掛けである。濃き緋の木綿のズボンに黒いベストを着て、首から十字架のついたチェーンを下げ、黒い帽子をあわせて、どこに出しても恥ずかしくない立派なルーサ人の若者の完成だ。
オルハンの入れ知恵で例の短剣も持っていくことにした。武器のたぐいは門で取り上げられないかドキドキしてしまうが、「誰が見ても『鷹』の剣だとわかるからむしろ通行証としてアリでしょ」とのことである。なるほど、言われてみればオルハンは三年前まで宮廷にいたのだった。そもそも官製の支給品だったのだ。
待ち合わせ場所は大学の正門だ。宮殿まで二人でのんびり歩いていくことになったのである。
ハッダードほどの偉い学者なら輿を準備させてもいいものだが、ハッダードいわく「他人に頼っていては足腰が弱ってしまう」らしい。確かに、大学は宮殿から
マムラカ大学と宮殿の近さは、そのままマムラカ大学の権威を示している。
そんなところで研究できる人生というものは、さぞかし充実しているんだろうなあ。
「どうだね、エレミヤ」
ハッダードと肩を並べて歩く。
彼は背が高い。まだ成長途中のエレミヤより頭半個分大きかった。その上七十近くなるというのに背筋がぴんとしているので、実際よりもさらに大きく感じられる。
ハッダードの顔を見上げる。
優しい目で見下ろされている。
「君がマムラカ大学を気に入ってくれたように思うのだが」
エレミヤはすぐ「はい」と頷いた。
「すごくいいところですね。僕も司祭見習いじゃなかったらここでなんらかの学問をしたいと思ったかもしれないです」
「嬉しいことを言ってくれる。私にとってこの大学は揺籃の地だからな。孫のような若者がそう言ってくれるのだと思うと誇らしい」
こうしてハッダードと話していると緊張がほぐれてくる。
「しかし、どうだろう? 君のお父さんは大学に来ることについていい顔をしないのかね」
「え? なんでそんなこと。父さんは快く送り出してくれていますよ」
「いや、聖なるルーサ人の司祭見習いは俗なるマシュリク人の作った大学には通えない、なんて言い出すのではないかとドキドキしてしまった。君が、司祭見習いじゃなかったら学問ができたのに、というようなことを言うものだから」
指摘されてから気づいた。
「むしろ逆です。使徒教会の人間が出入りするなんて迷惑じゃないかな、って」
「馬鹿にしてもらっちゃ困る。大学は聖域だ。学問を志す者はなんぴとたりとも拒まない。そこに民族の垣根はないのだ」
「それに、僕は聖書の勉強をするのに忙しくて――なんかオルハンさんの使いっぱしりみたいなことをしているからヒマに見えるかもしれないですけど、一応午前中はまるまる机に向かってがりがりやっているつもりです」
「では大学でその勉強を続けるといい」
視界が晴れた気がした。
「大学ではやってはいけない学問ではないのだ。研究対象に真摯かつ客観的な態度を貫けるというのならば、東方正教会系の神学を追究することも可能だろう」
やはり、偉い学者が言うことは違うものだ。
「でも……、マシュリク人の作った学問所なのに……。マムラカ大学では神学と言えば聖典について研究するものなんじゃないんですか」
「君がパイオニアになってもいいのだよ」
ハッダードがひげの下で「ふふふ」と笑う。
「大学はできる限り多様であったほうがいいのだ。将来同じことを学びたいと思ってくれる次世代が現れるまで、知の畑を耕しておくべきだ」
エレミヤは頷いた。
聖法教の信徒でありながら音楽の研究をするのは大変だろう。しかしハッダードの言うとおり、音楽と運命と星の運行には大いに関係があるように思う。その関係性の研究という信念を貫くハッダードはかっこいいし、そのかっこよさこそ学問というものの本質なのかもしれなかった。
「そっか。僕も司祭をやりながら学者をやるという道もないわけじゃないんですね」
「そういうことだ」
ハッダードがエレミヤの肩を叩く。
「神学は哲学であり文学だ。議論したい者は大勢いる。その輪の中に入りなさい。まして異教徒だなんて、神学をまことに志す者にとってはなんと魅力的な議論相手だろうか。君は後続のルーサ人だけでなくマシュリク人たちをも豊かにしてくれる。学問とは本来そういうものなのだよ」
想像の翼を広げようとする。
未来はこんなにも広がっている。
そう思った時だった。
建物の角から、数人の男たちが飛び出してきた。
いずれもマシュリク人のようだった。何の変哲もない白いシャツの上に丈の短いベストを着ている。だが顔には黒い布を巻いていた。物々しい。
エレミヤは反射的に身構えた。
こちらに向かってきている?
「……博士――」
ルートを変えましょうと、そう言おうとした瞬間、
「死ね、ハッダード!」
男たちが腰の短剣を抜いて跳びかかってきた。
「博士!!」
硬直して突っ立ったハッダードに凶刃が近づく。
危ない。怪我をする。
手を伸ばそうとした。
男のうちの一人に肩をつかまれた。後ろに投げ飛ばすように押し退けられた。エレミヤは地面に尻餅をついてしまった。
男の短剣の刃が日光を弾いて鈍く輝く。
「教友のおしえに背く不信心者め!」
「天罰だッ!」
刃の切っ先がハッダードの体にめり込んだ。緑色のガウンに赤い血がにじんだ。
どうしよう。
こんな時自分に力があったら――オルハンやロスタムのように戦う力が。
そう思って、はっとした。
こういう時のために、オルハンは自分に剣を持たせたのではなかったか。
修羅場慣れ、とでも言おうか。エレミヤも要領をつかんできた。
ためらいなく、剣を抜いた。
刃が蒼白く光った。
円形の魔法陣が壁に映し出された。
魔法陣の中から、人影が出てくる。まずは頭、それから肩、腕、腹、腰、脚――全身が出てきてから地面に降り立つ。
「先生!」
オルハンが叫んだ。
「やってくれんじゃねーかよ!!」
オルハンはすぐさま自前の切っ先がふたつに割れた長剣を抜いた。
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