第6話 客観性と主観性、または運命のハーモニー

 大学、というのは学問の第一人者たちが集って喧々諤々の議論を交わす道場だ。年長の学者が年少の学者や弟子に講義をつけてやることはあるが、基本的には身分や年齢の上下がなく、道を志す者であれば誰でも出入りし、論を競わせることができる。


 エレミヤは、大学に集まる人はみんな修道僧みたいだな、と思う。

 信仰に身を捧げることと探求に身を捧げることは似ている。どちらもストイックで、自分の心身を削ることで真理を見出そうとする。そしていずれの場合も真理とは神のみわざのことだ。おのれの精神世界が何を軸としているか、を探るのが修道僧で、物質世界が何を軸としているか、を探るのが研究者だ。


 マムラカにはいくつかの大学が設置されているが、マムラカ大学は中でも一番規模の大きな大学で、特別高名な人が集まる。

 そんな中に研究室をもっているハッダードは偉い学者なんだな、とエレミヤは思った。どうしてそんなすごい人が『鷹』の教師なんて――と思ったが『鷹』は基本的に皇帝スルタンに囲われているのだった。

 大学というものは権力に負けない。学問は何からも保護される。

 しかし利益が相反しない限りは富豪のパトロンを得るのも必要で、ハッダードの場合はそれが皇帝スルタンだったということか。


 初めて大学というものに足を踏み入れた。

 いくつかの棟からなる建物の複合体は、全体的に窓が少なく重々しかった。これもまた精神修養のためか、と思ったが、なんのことはない建物の中に本がたくさんあるので日焼け防止なのだそうだ。


 渡り廊下にはアーチ状の屋根がついている。

 その屋根の下を、エレミヤはハッダードと二人で歩いていた。


「ふむ、おもしろいね」


 ハッダードが自分のあごひげを撫でる。


「聖職者の皆さんは感受性が豊かでもっと情緒に語りかける人々なのだと思っていたが、エレミヤのお父さんはエレミヤにこの悲劇について語るのに数字を挙げたのかね」


 指摘されて初めて気づいた。


「客観性と主観性。数字は客観性の部類に属するものだ。どうだねエレミヤ、お父さんの説明を聞けたことでこの事件を現実に起こった事件であることを痛感しなかったかね。それすなわち現実というもの」

「はい、そうです。父は悲痛な顔でたっぷり抑揚をつけて語ってましたから、よっぽどすごいことなんだな、とは思いましたけど、ひどいとかつらいとか悲しいとか、そういうことはあまり言いませんでした。形容詞の排除は主観性の排除ですね」

「実に頭のいい人だ。そしてそれは君に遺伝している」


 ハッダードが隣を歩くエレミヤの肩を抱いた。エレミヤはちょっと照れた。


「感情と理論はけして対立するものではない。が、あえて分離させようとするならば、感情を語るのが聖職者で理論を語るのが研究者だ。つまり本来ならば私が君に数字を語り聞かせるべきだったのだが、私は君に『鷹』の人間関係がどうだっただとかそういう情緒的な話をすべき状況なのだろう」

「恐れ入ります」

「しかし何をどこまで語ってもよいのか。プライバシーの侵害だ。いかに信頼のおける人間であったとしても当事者たちの許可なくデリケートな話をすべきではない。まして私は、繰り返すが、三年前当時にはマムラカにいなかった。すべてシャフィークからのまた聞きだ」

「オルハンさんはすごく淡々と語ってましたけどね」

「あの子の性格だね。あの子は良くも悪くも鈍感であるように振る舞う。まあ、実際に鈍感だな、と思う場面もなきにしもあらずだが、少々露悪的なのだ」


 あまりにもよくわかるので、エレミヤは黙って頷いた。


「一方シャフィークは吟遊詩人みたいに情感たっぷりに語り上げるのだよ。いやはや、あれもまた性格だね。同じ父親に育てられながらどうしてこんな正反対の子が育ったのだか。とにかくシャフィークの語りには臨場感があったのだ」


 そこで立ち止まって、ハッダードは「そうだ」と呟いた。


「シャフィークに会うのはどうかね」

「シャフィークさんですか?」


皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の団長、美しいアリアナ人の伊達男で、オルハンの弟だ。最初にエレミヤにオルハンを紹介してくれた人でもある。


「シャフィークとは面識があったのだったかな?」

「はい、あります。そんな世間話をするみたいな親しい仲でもないんですけど、何度か会って会話したことがあります」

「ではだいたいどんな子かわかるね。裏表のない子だ、見たままの印象がありのままの彼だよ」


 あの人の場合それもそれでどうよ。


「忙しい子だが老いた師を無視するほど冷たい男ではない。近々なんとか都合をつけてみよう。また明後日に宮殿に上がる機会もあるし、その時にシャフィークを借りられないか皇帝スルタンに上奏しよう」

「そんなすごいこと大丈夫なんですか?」

「いや、君には知る権利がある」


 ハッダードの目が少し険しくなる。


「お父さんから聞いたんだろう。本来君は無関係ではなかったのだ」


 エレミヤも唾を飲み込みながら頷いた。

 ルーサ人の独立、聖戦。


「シャフィークに猫の店に行くよう言おう。猫の店で、オルハンや双子の様子を見ながら話を聞くといい。シャフィークが語り出せばあの子たちも何か語り出すだろう。シャフィークの語りにはそれくらいの力がある」


 エレミヤもルーサ人として生まれた。そしてルーサ使徒教会の司祭になろうとしている。知らねばならない歴史があるのだ。彼らの語りを聞きたい。当事者の、生の語りを。


「――用事は済んだかね」


 問われて我に返った。

 顔を上げると、ハッダードは先ほどと変わらぬ優しい顔をしていた。


「最低限聞きたいこと、言いたいことは終わったかね?」

「あ、はい。この件については」


 エレミヤは慌てた。


「すみません、お時間頂戴しちゃってますよね! 博士はお忙しいのにこんなこと、僕とっとと退散します」

「逆だ、逆、逆」


 ハッダードが笑う。


「過去の話は一段落。ここからは、現在と、そして未来の学問の話をしないかね」


 そう言われて、心がぱっと明るくなるのを感じた。


「いやね、学者というものは自分の専門領域について語る機会を得た時とてつもない幸福感を覚えるものだ。ずっと年下の若者に自らの研究成果をひけらかす――これほど楽しい時間もないのだよ」

「ありがとうございます!」


 二人でまた、歩き出す。


「まず博士の研究の基礎的な話を聞かせてくださいませんか? 天文学の博士であることはお聞きしましたが、具体的にはどんなことを研究しておいでですか。国家占星術? それとも星の軌道計算ですか?」

「ふむ、下調べをしてきてくれたのかね」

「せっかくプロのお話を聞けるんで、基礎研究の本をさらっと読んできました。本当に基礎も基礎の、簡単な占星術の本ですけど。具体的には月の運行の話ですね、月齢と潮の満ち引きの関係とか」

「おお、本当に、よくできた子だ。弟子たちがみんな君のようだったら私の苦労も減るのだが」


 ハッダードが真面目な顔をした。


「実は、私は星と音楽の研究をしておる」


 エレミヤはまたたきをした。


「音楽、ですか?」

「そうとも。特にウードの弦と天体の関係性について研究しているのだ」


 予想外の展開だ。


「音楽の完全な音は分類すればななつになる。このななつがそれぞれ水星、金星、地球、火星、木星、土星に対応している。この星の運行の調和は楽の音の調和と通じている」


 ハッダードのしみのある手が、ウードを抱えるしぐさをした。


「また、よっつの弦が十二の星座と対応している。高音弦はかに座からおとめ座、第二弦はおひつじ座からふたご座、第三弦はてんびん座からいて座、低音弦はやぎ座からうお座だ」

「なるほど……四の倍数ですね」

「そうだとも、四の倍数というものは重要だ。人間の生活時間帯も四つに分類できる、朝、昼、夜、眠り。このサイクルにふさわしい楽の音がある。つまり太陽の運行と楽の音の移り変わりには相関関係がある」


 なかなか壮大な話だ。基礎理論は理解できなくもなかったが、掘り下げていけばどこまでもやれそうである。確かに哲学とも相通じる話だった。


 だが、それ以上に――エレミヤは気づいていた。


「博士」

「ほい」

「音楽の研究をして、危なくないんですか……?」


 聖法教では、音楽は堕落の象徴とされ、推奨されていないのだ。


 それも、ルーサ人とこの宗教の相容れないところであった。


 聖法教の世界では、音楽は宴に属するものであり、酒色に通じるものである。人々が享楽にふける時そこには音楽がある。音楽家は幻惑師で、その旋律で人の心を惑わす。


 天主教には、神への祈りの声が声楽として発展してきた経緯がある。特に聖職者は讃美歌を歌うものとされ、エレミヤも声変わりをするまでは天使と同列に扱われる少年聖歌隊に所属していたものだ。


 歌は祈りだ。堕落の象徴なんかじゃない。


 エレミヤの生活には生まれた時から音楽があった。


 ハッダードが目を細めた。


「気づいてしまったかね」


 拳を握り締める。


「そう、音楽を好まれない教友が存在したことは預言者の言行録にも残されている。しかし君も気づいているだろう? 星は歌を歌うのだ」



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