第5話 エレミヤには振り払えなかった

 夕方、教会に帰ってきた。

 この時間帯、父はいつも礼拝堂で祈りを捧げている。この祈りが終わったら閉門、そして施錠だ。父は昼夜問わず信者の困りごとに対応するようにしているが、夜間は教会ではなく教会裏の自宅に通すようにしていた。


 薄暗い宵闇の中、少しだけ開けられていた扉を大きく開く。重い鉄の音が響く。


 教会の内部は石造りでひんやりしている。右手には聖人の墓碑があり、左手には小さな礼拝室が並んでいる。一番奥に祭壇があり、その真上、壁の天高くには粒子が荒くて不透明な窓ガラスがはまっていた。そしてその祭壇の手前には、小さな炎の燈された無数の蝋燭が並んでいる。


 いつもの光景。

 生まれた時から見つめてきた、ルーサ人の心象風景。


 ルーサ人が共有してきたもの。


 ルーサ人が共有している罪。


 祭壇の前に一人の青年がひざまずいていた。エレミヤの父グレゴリだ。いつもの白い司祭服、成人男性にしては華奢だがエレミヤよりはまだ広い背中。


 客が来たのはわかっているだろうに、彼はもったいぶってゆっくり顔を上げた。そして十字を切り、頭を下げてから振り向いた。


「おや、エレミヤか。もう夕飯の時間でしょう、どうかしたのかい」


 エレミヤはちょっと視線を逸らした。


「夕飯の席で話してもいいんだけどさ、なんとなく礼拝堂に来たくなって」

「いいことだ。祈る者は救われるよ」

「本当に?」


 視線をまた父のほうに戻す。

 目が合う。

 父は少し驚いた顔をしていた。エレミヤが信仰を疑ったのが初めてだからだろう。エレミヤもできることならこんな日に来てほしくなかった。


「オルハンさんに聞いた」

「何をかな」

「ポリュカルポス蜂起事件」


 父がまたたきをする。

 エレミヤは二歩、三歩と父に――祭壇に近づいた。


「今日、店にオルハンさんの古い知り合いだという人が来て、ちょうどその話題になったものだから。具体的に何があったのか聞いてみたんだ」


 父がちょっと微笑む。


「だから思い詰めた顔をしているのかな」


 そんなつもりはなかったが、親が言うのだからそうなのだろう。エレミヤは確かめるように頷いた。


「『鷹』にルーサ人がいたんだね」


 父は祭壇から降りてくると信徒の席の間までやってきた。エレミヤに「座りなさい」と促す。素直に木の長椅子に腰掛ける。


「私も『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の正確なシステムはわからないんだ。皇帝スルタンの親衛隊で、存在そのものが国家機密のようなものだからね。組織図がどうなっていて、どれほどの権限があって、どういう時に動くのか、具体的なことは知らない」


 神秘とまで言われる存在で、帝都の中にいる人間でも実在を疑う人がいるほどだ。


「でも――」


 次の言葉を聞いた時、エレミヤは目を丸く見開いた。


「入団の条件は、十歳から十五歳の容姿端麗で身体頑健な子供であること。うち半分ほどは子供の将来に箔をつけたい富裕層や武官文官の子供だが、うち半分はワケありだ。たとえば精霊ジンの血を引いているとかね」

「――なんで知ってるの?」

「だいたいは三十歳で除隊されて帝国軍の高官になるそうだから、いつもおよそ三百人前後を保っているそうだけど、当時は、十八人ルーサ人の若者がいたんだそうだ」


 あまりにも詳しすぎる。

 しかし、父はあくまでも穏やかに微笑んでいた。


「イオアンが教えてくれたんだ」


 頭の先から爪先まで、何かが突き抜けた。


「お父さん、その、イオアンという人と、知り合いなの?」


 父が静かに頷く。


「といってもすごく親しかったわけではないよ。イオアンのほうから近づいてきたので、当たり障りなく対応したつもりだ」


 驚きのあまり言葉を失う。

 中心人物とここで話がつながるとは思ってもみなかった。

 本当に、まったくの他人のことではなかったのだ。


「どうやらイオアンは各教会から義勇兵を出させたかったみたいだけれどね、私はこの教区の若者を反逆者にしたくなくて拒んだ。それきりだ」


 父もエレミヤの隣に座った。


「臆病者、と言われたよ。民族のために戦う気概はないのかと。聖職者というルーサ人の代表者でありながらルーサ人の自由のために戦う気はないのかと」


 そして「けれどね」と言いながら手を伸ばす。エレミヤの頭を撫でる。


「私にはわからなかった。はたして本当に為るかどうかわからない革命のために教区の青少年を差し出すべきか? 何より私自身――そう、イオアンの言うとおり――意気地がなかった。自分が戦場に行くのも嫌だったし、ヘレナやエレミヤを危険にさらしたくなかった」


 父の手は大きく温かく優しい。もうすでに十五歳で身長は大人と一緒のエレミヤがそうされるのは本来恥ずかしいことだが、今のエレミヤはどうしても振り払えなかった。


「最終的に、ルーサ人義勇兵は六百人ほどになったみたいだよ。それを宮殿の各門から十八人のルーサ系『鷹』が導いた。宮殿の中に入り、皇帝スルタンを目指して一直線、破壊と殺戮を繰り返した」


 そして、奇襲は成功する。


「『鷹』は三百人、つまり半分くらいだからね。ましてルーサ人にはルーサ商人という金脈がバックについている。武器のたぐいには事欠かなかった。『鷹』は確か――六十人ほどが亡くなったと聞いたかな。でも、最終的には、『鷹』のほうが戦闘のプロだから。帝都防衛隊や帝国軍治安部隊も出動すると、あっと言う間に形勢逆転」


 六十人――大雑把に言って三人に一人が亡くなったということか。


「……イオアンは、『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』の副団長だったんだそうだ」


 それを聞いた途端ずきりと胸が痛んだ。


「オルハンさんとはどういう仲だったのか、想像すると胸が痛む。イオアンは真面目で一本気な男だから周囲から信頼を勝ち得ていたんじゃないかな。オルハンさんはイオアンが裏切ったと思わなかったかな――」


 そこで、彼は「さて」と言って手を離した。


「オルハンさんが話したことと矛盾はなかったかな」


 エレミヤは首を横に振った。


「というか、オルハンさん、もっと淡々と話してたよ。ぜんぜんそんなすごい話じゃないかのように話してた。そんなもんだ、以上だ、終わり、なんて言っちゃって」

「不器用な人なんだね。具体的な数字を挙げて話してくれたら重大事件だったことが伝わったかと思うんだけど」


 確かに、エレミヤは今父に具体的に数字を聞いてもっと生々しく事件の全容を把握できたように思う。オルハンのほうが当事者のくせに、はたで見ていただけのグレゴリの説明のほうがわかりやすかったとは。


「ねえ、父さん」

「何だい?」


 この人なら、教えてくれると思った。


「その、オルハンさんのお客さんに、変なことを聞かれたよ」

「どんな?」

「民族で共有する罪は存在するか、って。ルーサ人にはルーサ人であることの罪は存在するか、って聞かれたよ」


 すると父は少し黙った。笑みを消す。


「今聞いた父さんの話が全部本当なら、イオアンが声をかけた結果『ルーサ人だから』というだけの理由で自由を求めて闘争した人たちがいたということだよね? その人たちが『ルーサ人だから』反逆した罪を『ルーサ人だから』僕たちが背負わなきゃいけないということかな」

「難しいことを聞くね」

「いやね、オルハンさんやその周りの人たちは理解のある人ばかりだから、最終的には、必ずしもそうじゃない、と否定してくれたよ。でもそういうふうに考えている人がたくさんいることはわかった。僕らを『ルーサ人だから』反逆した、ルーサ人という民族であることを理由に革命を起こそうとした危険な民族であると思っている人たちがいる、ということだよね?」


 父が溜息をついて首を横に振る。


「そういう罪を背負ってほしくないからお前には何も言わずにおきたかったよ」

「でも父さん、僕もルーサ人だよ」

「生きにくい世の中だね」


 首からさげた祈り紐の十字架を握り締める。


「イオアンはその生きにくさに抗うために立ち上がった。でも結果として私たちの生きにくさは増した。……どうするのが正解だったのか、私たちはまだ答えを見いだせずにいる」


 少し間を置いてから、父に肩を抱かれた。


「祈ろう。事件で命を落としたすべての人々の鎮魂と、そして事件の後に生きる私たちの平安のために」


 エレミヤは、頷いた。



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