第3話 知る権利、知る義務、知る覚悟

 オルハンがハッダードに抱きつく。ハッダードは「わはは」と笑いながら抱き締め返した。


「いやはや、元気そうでよかった」

「先生こそ! マムラカを出る時不吉なこと言ってたからめっちゃ心配したんすよ!」

「ほっほっほ、私は今でも同じ気持ちで生きておるよ」


 芝居がかった声で唄うように言う。


「遠い旅路の果て真理を語らんと欲する友あらば、たとえ野辺にかばねを晒そうとも」


 聞いているエレミヤのほうも胸が熱くなる。


「ともに励みたいと言う人間がいるならば、私はどこにでも赴こう。砂漠を超えることなど、真理を求める心の衝動の強さに苦しむことを考えたら、たいしたものではない」


 この人は、本物の学問の探究者で、同時に教師なのだ。


「だが、まあ、たまには里帰りぐらい許されるだろう。私にも師は必要だ、揺籃の地たるマムラカで新たな研鑽を積んでからふたたび旅に出る」

「もういいお年なんだからこのへんに落ち着いてくださいよ、みんな心配してますよ。それに皇帝スルタンだってまた御用学者として宮廷に戻ってきてほしいって言ってましたよ」

「そうなのだ、それも少々悩んでおる。陛下の宮廷で切磋琢磨するのもまたおもしろいからな。帝国の最先端だ」


 ハッダードを離すと、オルハンは彼を二階に導いた。ハッダードはまったく足腰に不安がないようで、オルハンの求めに応じて二階に上がった。


「僕も行っていいですか?」


 オルハンが答える前にハッダードが「もちろん」と答えた。


 三階の壁が裏庭側に張り出しているので、二階の窓は日陰になっている。時々風が吹き抜けて涼しい。


 オルハンとハッダード、そしてエレミヤは居間の真ん中に腰を下ろした。双子もすぐ菓子を持って上がってきた。


「思いのほかいい家に住んでおるな。隠遁したがっているというから、もっと世捨て人のような生活をしているかと思ったが」

「俺一人だったらマムラカを出ていってもよかったんすけどね、双子を引き取ったんで。こいつらを変なところで育てられないでしょ」


 エレミヤはちょっと感動した。このオルハンにも一応双子の保護者としての意識があったのか。


「――そう」


 茶をすすってから、静かに口を開く。


「君が双子を引き取ったと聞いてな。結局何もかも君が一人で背負い込むことになったのかと思って肝を潰した」


 オルハンの表情が変わった。それまでは大の男のくせに顔見知りの大人に甘える少年の顔だったが、笑みを消し、神妙な顔をした。

 ハッダードの目も、冷静だがどこか慈しみまた嘆くような目に変わった。


「三年前のこと。全部シャフィークから聞いたよ」


 オルハンが吐き捨てるように「余計なことを」と言う。


「だから私は何度も陛下に進言したのだ、何もかもオルハンにやらせるような真似はなさるなと。君は責任感が強いから、ゼロから十へと極端に突っ走るに違いない」

「買いかぶりすぎっすよ」

「どれだけその時一緒にいてやれたらよかったのにと思ったことか」


 拳を握り締め、沈黙する。

 三年前の事件――ポリュカルポス蜂起事件のことだ。


 ハッダードの目が、双子の顔を見る。双子がきょとんとした目でハッダードを見ている。


「この子たちの前では語らんほうがいいかね」


 オルハンは「いまさらっすよ」と苦笑した。


「双子は全部理解してます。クロシュさんに似て賢いんで」

「では――」


 エレミヤはどきりとした。

 次に、ハッダードがエレミヤの顔を見たからだ。


「この若者も。ルーサ人だが、君は受け入れたということかね」


 オルハンはためらわなかった。一瞬も間を置かず即答した。


「もちろん。エレミヤはエレミヤであってイオアンじゃない」


 イオアン――また新しい人名だ。

 エレミヤはさらに緊張した。

 ルーサ系の名前だ。オルハンとハッダードの共通の知人に――三年前の事件の関係者に、イオアンという名のルーサ人が関わっている。


 ハッダードは満足したようだ。


「君も双子も大人すぎる」

「双子はともかく俺は二十九っすよ」

「私の中ではオルハンだって今でも初めて出会った少年の頃のままだ」


 そしてふたたびエレミヤのほうを見て「ほほほ」と笑った。今度は緊迫感のない笑いだった。


「今となっては信じられんが、当時のオルハンはそれはそれは美少年だったのだ。皇帝スルタンの大のお気に入りで、片時も放さず寝所にも侍らせていたのだ」


 緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。エレミヤも驚きで目を見開き「ええ」と声を上げたが、さっきとはまるで違う空気だ。


 オルハンが疲れた顔で「よしてくださいよそんな大昔の話」と呟く。双子が次々と「その噂ほんとだったんですか」「『鷹』の皆さんのたわごとだと思ってました」と言う。ハッダードはまだ笑っている。


「第二次性徴とは残酷だの。すっかり父親に似てしまって面影がない」

「男ってそういうもんすよね」

「双子も今はルーダーベちゃんそっくりの美少女だが、そのうちクロシュに似て――ん? クロシュは成長してもわりと美男子だったな、女性のような細面で」

「そういうことっすよ、この世は不平等で残酷っすよ」


 そして呟く。


「なつかしいな。三年前のあれ以来ガキの頃の話なんてしたことなかった」


 オルハンも、安心しているのだろうか。


「クロシュさんとか、ルーさんとか。イオアンとか、シャフィークとか。みんながいた頃のことなんて、まったく」


 双子もオルハンを見つめている。


「俺がしっかりしてたら、誰も死ななかったのかなあ」


 こんなオルハンなんて初めて見た。


「特にルーさんはつらかっただろうな。いや、今でも天国からこのありさまを見てしんどがってるかもしれねーな、可愛い我が子を俺が人質みたいに連れて逃げちまってよ」


 突然双子の片割れが立ち上がって大きな声を出した。


「そんなこと絶対言わないでください!」

「ミーネ?」

「絶対絶対、もう二度と言わないでください! わたしたちは――」


 そこで、声が小さくなる。


「オルハンさんが迎えに来てくれて、どんなに安心したことか……」


 次の時、片割れ――タハミーネの頬にぽつりと涙が流れた。エレミヤは動転して何も言えなかった。オルハンも唖然としている。ロスタムも呆然と妹を眺めている。


 ハッダードが、溜息をついた。


「まだ整理がついていないようだね」


 そして、「よっこらせ」と言いながら立ち上がった。


「また来るよ。しばらくマムラカにおる。ゆっくり話をして解きほぐしていこう。今日はもう休みなさい」

「先生……」

「タハミーネが泣いているのを見るとルーダーベちゃんが泣いているみたいでつらいのだ。あの子はけして泣かなかったけれどな」


 言いながらタハミーネを頭を撫でた。


「いいことだ。泣ける環境だということだ。双子は大事に育てられとるのだな」


 ハッダードは「平安とともに。神のお慈悲があらんことを」と挨拶して去ろうとした。階段のほうへとおりていく。

 タハミーネはまだぐずぐずと泣いている。ロスタムが立ち上がって妹を抱き締めたが、泣き止む気配はない。オルハンはぼんやりハッダードの後ろ姿を眺めていて、動く様子はなかった。


 エレミヤはハッダードの後を追いかけた。

 三人と一緒にいるのが気まずかったのもある。

 だがそれ以上に、話を聞きたかった。ハッダードがすべての真実を知っているように思えてきたからだ。


「博士!」


 店を出て通りを行こうとする彼を呼び止めた。彼はすぐに振り返り、エレミヤと向き合ってくれた。


「もっと話を聞きたいです」

「なんのだね」

「三年前の事件の話」


 ハッダードが少し間を置く。


「オルハンの傷をえぐり出したいのかね」


 ぎょっとして黙ると、彼は「言いすぎか」と苦笑した。


「あの子はそこまで気にする子ではない、とても強い子だからな。しかし強くてまっすぐだったからこそ、叩き折られてしまったのかもしれん」


 拳を握り締める。


「でも。ルーサ人が関わっているんですよね」


 ハッダードと真正面から向かい合う。


「イオアンというのはルーサ人ですよね。それなら僕は知らなければいけない気がするんです」

「エレミヤ」

「僕には知る責任があるように思えてきました。その上であの三人と接していかなければならない気がしてきました」


 タハミーネの涙を見るのは、初めてだった。このタイミングで見ることになるとは思ってもみなかった。しかも、こんなにもつらいとは。


「僕は、ルーサ使徒教会の司祭の息子です。戦わなければなりません」


 ハッダードはちょっと笑った。

 その笑顔から教えてくれるものと思ったが――


「少年よ」

「はい」

「君は罪を共有することはどう思うかね」

「罪、ですか」


 原罪の概念は天主教に共通するものだ。だがその罪は救世主である天のみ使いが十字架に磔刑になったことで贖われる。自分たちはそれを忘れず、祈り、尽くすものと――


「民族の罪、というものがはたして存在すると思うかね。マシュリク人にマシュリク人の罪が、アリアナ人にアリアナ人の罪が、カムガイ人にカムガイ人の罪が――ルーサ人にルーサ人の罪があると思うかね」

「えっ?」


 胸の奥が冷えた。

 そんなことをハッダードに言われるとは思っていなかった。彼は理知的な人で、平等を信じる人で、民族的な出自にけちをつけるような差別主義者ではないと思っていたのだ。

 その予想を――期待を裏切らず、彼は「私はないと信じたいが」と付け足した。


「私は学問を求めるものにならば誰にも知を施してきた。何人なのかなど関係がなかった」

「ではこれからもそうであってくだされば――」

「だが、ルーサ人が他の民とは違うことを信じているのは他の誰でもなくルーサ人たち自身だったのかもしれん」


 エレミヤは目を丸くした。

 ハッダードが踵を返す。


「私が言えるのはここまでだ。私は当事者ではない。まして当時ここにいなかった人間だ。この件については中心で事件の被害者となったオルハンに聞きなさい」

「先生……」

「さて、いつでも哲学問答をしよう。都合がついたら大学まで訪ねてきてくれたまえ。マムラカ大学の天文研究室のハッダードと言えば誰でも通してくれるだろう」



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