第2話 天文博士ハッダード

 やっとひと息つけた。

 エレミヤは、双子の猫の店の中、カウンターに頬杖をついて溜息をついた。


 店の外、ひとけのない通りでは、双子が二人の頭よりひとまわり小さいくらいの大きなボールを投げて遊んでいる。

 あれにさんざん付き合わされて疲れた。エレミヤはオルハンや双子のような体力バカとは違うのだ。

 ちなみにタハミーネもそこそこ体づくりをしているようである。ロスタムとは違って純粋に正真正銘の女の子である彼女にはできることは少ないようだが、こうして眺めているとやはり運動神経がいい。たぶんエレミヤよりは機敏だ。これも精霊ジンの血なのだろうか。


「ポリュカルポス蜂起事件かぁ」


 今日はオルハンに話を聞く気で来たのに、なんだかんだ言ってまだ切り出せていない。オルハンは二階で寝ているので起こせばいいだけの話なのだが、なんとなく気が引けている。

 たぶん、オルハンにとっては、人生の大きな転機だったはずだ。そこに自分がずかずかと踏み込んでいっていいものか。

 しかもエレミヤの父までああいう態度だったということは、エレミヤが知らないだけで帝都中に響き渡る大きな事件だったに違いない。紐解けば胃もたれすると思う。簡単には跳び込めない、勇気が要る。

 なにもこうして当事者であるオルハンに切り込まなくても、その辺で聞き込み捜査をしてちょっとずつ情報を拾っていってもいいかな。

 いや、父さんはああ言っていたしな。

 オルハンに比べるとずいぶんひ弱な男だが、エレミヤは聡明で敬虔な父を尊敬していた。父の言いつけに背くのも気が引ける。


 双子が戻ってきた。やっと遊び疲れたんだろうか。このままお昼寝してほしい。


「喉が渇きました。お茶を淹れます」

「お疲れ様」

「エレミヤさんの分もお茶を淹れてあげてもよろしくてよ!」

「恩を押し売りするくらいなら淹れてくれなくていいよ」

「ええーっどうしてそういうひねくれたこと言うんですかぁーっ」


 ふと、視界の右のほう――大通りのほうから歩いてくる人の姿が見えた。


 濃緑のマントで全身を覆い、頭に大きな白いターバンを巻いた、白髪の男性だった。髪の色や顔のしわ、何より特徴的な長いひげから察するに七十歳くらいの高齢に見えるが、ふくよかな体格の背筋はぴんとしていて、足取りに不安なところはない。


 彼はしばらく店先に出ている黒い鉄板の猫たちを眺めていたが、ややして店の中に入ってきた。

 双子が台所に引っ込んでいったので、自然とエレミヤが応対することになる。


「いらっしゃいませ。何かご入用ですか?」


 と言ってから、僕別に店員じゃないんだけど、と思ったが時すでに遅し。オルハンと双子の術中にはまっているわけである。くっそ。


 老人は深いしわの刻まれた目尻を下げると、「汝の上に平安あれ」と丁寧な挨拶をした。


「君も『鷹』関係者かね?」


 エレミヤはちょっと身構えた。この老人はオルハンの素性を知っている。またシャフィークからの無茶な依頼だろうか。


「いえ、僕はただの――ただの、何でしょうね? オルハンさんに武術を教わるはずがていよく店員としてこき使われている何かです」


 そう答えている間に、双子が帰ってきた。


「あら、お客様ですかぁ?」


 すると老人のほうが少し驚いた顔をして「ほっほう」と声を上げた。


「ルーダーベちゃんの双子かね! いやはや、大きくなった」


 双子がきょとんとした。


 ルーダーベ――身の回りでは聞いたことのない名前だが、王書シャーナーメに出てくる美女のことである。英雄ロスタムの母親だ。ということはもしかして双子の母親だろうか。エレミヤはこういう推理ゲームは得意だ。

 この老人、たぶん、双子の親を知っている。

 だが双子のほうはぴんと来ていないようである。ひとの顔と名前を覚えるのが得意な二人にしては珍しい。


 老人が歩み寄り、左手で片割れの、右手で片割れの頭を撫でた。


「いやいや、双子よ、いくつになったかね」

「十三歳ですけど……」

「ごめんなさい、どこでお会いしましたっけ……」

「おぼえとらんのかね。まあ仕方がないか、最後に会ったのは七年前だから、君たちは六歳だったはずだ。それもルーダーベちゃんが連れてきてくれた時にちょっとやり取りするだけの仲だったからな」


 やっぱりルーダーベというのは双子の母親に違いない。家族ぐるみの付き合いだったのだ。


「では改めて自己紹介しようかね」


 老人が双子から手を離した。


「私はハッダード。マムラカ大学で天文学の研究をしていた者で、『鷹』たちが子供の頃預けられていたハラーフィー学院マドラサで教師をしていたのだ」


 ようやく話が通じたらしい、双子が「なんと!」と両手を挙げた。


「君たちのお父さんお母さんのことはよくおぼえているよ。オルハンやシャフィークのこともね」

「そういうことでしたか! これは失礼しました」

「この七年、教授として乞われて諸都市を漫遊していてね。ようやくマムラカに帰ってきたので、ここ最近なつかしい顔を訪ね歩いているのだよ」


 双子の片割れが「お茶を淹れます!」と言って台所に引っ込み、もう片方が「オルハンさんを呼んできます!」と言って階段を駆け上がる。おっと、双子がオルハンを「ご主人様」ではなく「オルハンさん」と言ったぞ? 何の使い分けがあるんだろう。


 老人――ハッダードと二人で残された。


 エレミヤはハッダードの顔を見上げた。


「大学の先生なんですか?」


 訊ねると、ハッダードがひとの良さそうな笑みを浮かべて「そうだよ」と答えた。


「学問を志してこの道五十年、理解ある人々は私を天文博士と呼んでくれる」


 感動した。神学や哲学を勉強してきたエレミヤにとっては少々分野違いだが、学問を愛する者としての先輩に出会えると心が躍る。

 五十年も一つの学問を追究してきた――どんなに素晴らしい人生だろう。

 エレミヤは学者になる気はなかったが、使徒教会の司祭になるということは神学の徒となることに近い。学問の世界に身を投じる人間として仰ぎたいと思ったし、研究者としての心構えなども聞いてみたかった。


「僕はエレミヤといいます」

「ふふふ、東方教会系の名前だ。典型的なルーサ人だね」

「はい、父がラフマン通りにある使徒教会の司祭で、僕も神学の勉強を始めたいと思っているところなんです」

「よい心がけだ。お父さんもお喜びだろう」


 立ち上がり、自分が座っていた席の奥を指して「こちらにお座りください」と案内した。ハッダードが「ありがとう」と言って腰を下ろした。


「博士は何歳の時に学問を志されたんですか?」

「十五の頃だよ。君と同じくらいの時だ」

「僕今ちょうど十五歳です」

「いいね、未来が広がっている。今の私の未来もまだまだ閉じてはいないが、君たちほど身軽ではなくなってしまったからね」


 本当に偉い先生というものは学問を前に平等なのだ。ルーサ人のエレミヤにも嫌な顔ひとつせず丁寧に受け答えしてくれる。エレミヤはますます嬉しくなってしまった。


「博士は哲学などはなさいますか? 少し話を伺いたいです」

「よいとも、私は若者と問答するのが大好きなのだ。それに世間で想像されるほど天文学と哲学は遠い学問ではない。天空の真理を探究し、神がお創りになった世界への理解を深める――神はまことに偉大なり」


 使徒教会の人間であるエレミヤも、天空の真理なるものに触れると神のみわざを感じる。彼らの神も我らの神もやっぱり同根なんだな、と思う。


「それに、嬉しいね。オルハンもルーダーベちゃんもあまり優秀な生徒とは言いがたかったからね、関係者の君が興味を持ってくれると心強いよ。がはは」


 ルーダーベちゃんとやらはともかく、オルハンが勉強がダメそうなのはすぐに想像がついた。


「なんなら大学に来たまえ。神学のコースは違うかもしれないが、異教の学問を覗くのもまた人生を実り多きものにする」

「そこまではちょっと考えていなかったんですが、博士にとってそちらのほうがご都合がよろしければそうします。間違いなくここで店番するより為になりますし」


 階段を駆け下りてくる音がした。体重のわりに身軽そうなこの足音はオルハンのものだ。

 ややして、「せんせいぃー」という猫撫で声が聞こえてきた。顔を向けるとやはりオルハンである。


「お久しぶりです、お帰りなさい!」


 ハッダードが微笑んで両腕を広げた。



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