3匹目 体育会系ですみませんでしたね
第1話 いつもの朝、いつもの祈り
高名な詩人が三十年の歳月をかけてまとめたもので、全体で六万句にもなるらしい。
長い。
そんなものを全部読んだら何年もかかりそうだと思ったエレミヤは、教会に出入りする徴税人――なんとこれがまたアリアナ人だ、帝国の役人のいったい何割がアリアナ人なんだか――に訊ねて、『ロスタム』と『タハミーネ』という登場人物が出てくるのはどのあたりか教えてもらうことにした。
役人は、一瞬で、悩むことなく答えた。
――ロスタムというのは
さも、まさか知らないのか、当然のことだぞ、と言わんばかりの態度であった。すみません。
というわけで、エレミヤは英雄ロスタムの出てくる抄本だけ手に入れて読み始めた。
英雄ロスタムの強く勇ましく猛々しいことといったらこの上ない。
双子の親は、子供にすさまじい期待をかけて名前を付けたんだな……。
でも、今はまだ十三歳。声変わりもしていない。
ロスタムの親は『鷹』だ。体格のいい人で、息子にも遺伝すると思われていたのかもしれない。アリアナ人って平均的に背が高いしな。
抄本を読み込む。
さすがアリアナの誇る大詩人の書いた叙事詩である。普通におもしろい。
エレミヤは本を読むのが好きだった。普段は使徒教会の聖書や神学の書を読んでいることが多いが、余裕があればこういった詩の本や戯作、はてや聖典まで読み込むようにしていた。
文字を追いかけている時は自由に羽ばたける。他人の人生を追体験している気分になれる。誰にでもなれるし、どこにでも行ける。
心がはるかかなたアリアナ高原に飛ぶ。
偉大なる善の神が邪悪の神を討ち、世界は混沌から救われる――
「エレミヤー」
母の声に打ち破られた。
「ご飯よー。朝ご飯。食べちゃいなさい」
エレミヤは本を枕元に置いて「はーい」と返事をしながら立ち上がった。
自分の部屋を出てダイニングに行くと、母が食事の支度をしてくれていた。エレミヤは慌てて「手伝うよ」と言ってカトラリーに手を伸ばしたが、母はにっこり笑って「いいのよ」と言った。
「あんたは朝からお勉強してがんばってるんだから、こういうところくらい親に甘えなさい」
勉強しているつもりはなかったが、言われてみれば、アリアナ文化について学んでいると言えるかもしれない。双子の名前の由来を探っていただけだ、と言っても母はたぶん許してくれるのだろう。
両親はエレミヤが本を読むだけでたいへん喜んでくれる。ただ読書を楽しんでいるだけなのでちょっと恥ずかしい。けれど、貧しい中でも本を買ったり信徒から譲ってもらったりしてくれるのは助かる。自分は幸せ者だ。
父が戻ってきた。朝の畑仕事をしていたのだろう、手が土で汚れている。
マムラカは砂漠の中の街だが、いたるところに水路が流れている。遠い山から
「さて、では、いただこうか」
そう言って、父がテーブルについた。
親子三人、食卓を囲む。朝はパン、チーズ、サラダ、鶏の燻製肉と豆のポタージュスープだ。なんだかんだ言って人並みの食事は取れている。貧しい貧しいと言いながらも、エレミヤはそんなに飢えてはいない。
「主よ、あなたの愛に感謝しながらこの食事をいただきます」
いつものとおり、父が祈りの言葉を唱える。エレミヤも手を組み、祈りながら目を閉じる。
「主の御名において、ここに用意された食事を祝福してください」
「祝福してください」
声を揃えて祈りを済ませた。
いつもの平和な朝。
目を開けてフォークを手に取る。右手で握ったフォークにキュウリを突き刺す。
「パン、おかわりあるからね」
母が言った。エレミヤは「はい」と頷いてから食事を口に運んだ。
「エレミヤ」
父が穏やかな声で言う。
「どうやら最近お前の中で
親に何を読んでいるのか知られるのは照れるが、エレミヤは素直に頷いた。
「猫のお店の双子だよ。あの双子の名前がロスタムとタハミーネっていうんだ」
「おや、おもしろい名前だね。女の子にロスタムとは、あの子たちが生まれた時にはそういうのが流行っていたのかな」
「いやあれ男の子なんだ」
「えっ」
「男の子なんだ……僕もびっくりしたけど」
母が「二人とも?」と訊ねてくる。エレミヤは一応「タハミーネは女の子だよ」と答えたが、自信はない。体を見せてもらったわけではないのだ。
「まあ……、男の子は体が弱いから、小さいうちは女の子の恰好をさせて育てる、という地域はあるみたいだけれど」
「そうね、エレミヤも小さい頃はよく熱を出したものよ。女の子のほうが熱に強いとはよく言うわね」
「うーん、あのロスタムにはそういう深い意味はない気もするけどな」
そうは言ってもわからないものだ。なにせ双子の父親は死んでいるのである。もしかしたら母親は生きているのかもしれないが、その場合どういう経緯で自分の子供たちを夫の同僚に預けることになったのだろうか。
三年前の事件。オルハンが『
ポリュカルポス蜂起事件。防衛隊の幹部、イブン・ワハシュが口走った事件。『鷹』がたくさん死んだという。
同一の事件だろうか。
ポリュカルポスは、ルーサ使徒教会の聖人の名前だ。
「ねえ、父さん」
「何だい」
「ポリュカルポス蜂起事件って知ってる?」
言った途端だった。
両親の手が、止まった。
二人の目が、エレミヤの顔をまじまじと眺める。
少し居心地が悪い。
この反応は間違いなく知っているからの反応だし、エレミヤの直感が正しければ、たぶん二人はエレミヤにその事件について知ってほしくない。
だが、エレミヤは両親を信頼していた。この程度のことで二人が怒るとは思えない。何か知っているのならきっと教えてくれるはずだ。
おずおずとではあるが、エレミヤは言葉を止めなかった。
「三年前、双子のお父さんが亡くなって、オルハンさんも仕事を辞めた、って聞いたんだけど……その三年前に何かきっかけになった事件があったらしくて。その事件と、聖ポリュカルポスが何か関係があるのかな、って……あるとしたらどんなかな、って」
二人はしばらく黙って目配せし合った。
ややして、父が重い口を開いた。
「そういえば、オルハンさんは元『鷹』だったな。あの事件に関わっていたんだな」
エレミヤは頷いた。
「どうやら双子のお父さんも『鷹』だったみたいなんだ」
「そうか……可哀想に」
十字を切って「主のご加護がありますように」と唱える。
「確かに、三年前、帝都でポリュカルポス蜂起事件と呼ばれる事件が起こった。でも当時お前はまだ十二で、子供は知らなくてもいいと思ってあえて言わなかったんだ。教会の子供だちはたぶん誰も知らないよ、私が口止めしたのだから」
司祭である父がそういう判断をしたのなら、きっとこの教区の人々はみんな従ったのだろう。
それは裏返せば、子供には教えられない、ひどく暴力的で残酷な事件が起こった、ということだ。
それも、ルーサ人が深くかかわっているような、だ。
「……どんな事件だったか、教えてもらってもいい?」
父はまた、少しの間沈黙した。
「そうだな。お前ももう子供ではないんだし、説明しないといけない」
そして「ただ」と苦笑する。
「まずは朝ご飯を食べてしまいなさい。せっかくのスープが冷めてしまう」
「あっ、はい」
彼は軽く目を伏せた。
「私から話す前に、オルハンさんに話してもいいか聞いてみてくれないか。この件についてはどうしても中立的な態度で話せなさそうな気がするんだ。両者の意見を聞ける状態にしてから、もう一回聞いてきなさい」
よほど重々しい話になるようだ。きっとエレミヤにも覚悟が求められる。空気を呑み込みながら、エレミヤは「はい」と頷いた。
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