第5話 踊る双子の猫たちの魔法
騒ぎの中心に駆けつける。
まず目に入ったのはマイの後ろ姿だ。肩で大きく呼吸をしている。頭に巻いていた布がずれ、長く豊かな褐色の髪がこぼれ出ていた。
その右手に例の短剣が握られており、短剣の切っ先には赤い液体がまとわりついていた。
床にひとりの男がうずくまっている。頭にターバンを巻いたその男は、年齢は四十歳くらいだろうか、若くもなければ年寄りでもない。太くて立派な眉、筋骨たくましい体躯をしている。
男は左手で自分の腹の左側を押さえていた。
その指の隙間から赤い液体が漏れ出ていた。
しかし致命傷ではないようだ。
男が立ち上がった。
左手で腹を押さえたまま、右手を振った。
マイの頬を打つ。
彼女の華奢な体が吹っ飛び、壁に叩きつけられた。
男は自分の腹から手を離した。
そして大声で怒鳴った。
「この、恩知らずッ! 恥を知れッ!」
腹に怪我を負っているにもかかわらず、こんなに大きな声が出る。
傷が浅いのだ。
鍛えられた肉体からして、もともとの体力もありそうだ。この程度の傷はたいしたことはないに違いない。
悔しい。
マイからしたらきっと決死の行動だろうに、大きなダメージを与えられていない。
周りに使用人と思われる女たちが寄ってくる。
「ご主人様、お怪我のお手当てを」
こう呼ばれているということは、彼がこの家の当主であるイブン・ワハシュで間違いない。
イブン・ワハシュは壁際に倒れているマイを踏みつけるように蹴った。
二度、三度と足をめり込ませる。マイが苦しそうにうめく。
「馬鹿な女だ」
ふたたび左手で腹を押さえつつ、しゃがみ込む。
マイの髪をつかみ、強引に顔を上げさせる。
先ほど打たれた時に切れたのだろうか、綺麗な形の唇から血が流れていた。
彼女は気丈にもイブン・ワハシュをにらみつけたが、それで事態が変わるわけではない。
イブン・ワハシュの大きな足が、彼女の手を踏みつけた。
彼女の手から短剣が離れた。短剣の転がる金属音がむなしく響いた。
「連れていけ」
護衛の私兵だろうか、男たちが群がるようにマイを囲む。
イブン・ワハシュはマイから離れると、汚いものにでも触れたかのように右手を服にこすりつけた。
「どうなさいますか」
「明日一緒に首を刎ねる」
そしてにたりと笑う。
「今夜はお楽しみだぞ」
気色が悪い。
怒りで頭が沸騰しそうだ。思わず拳を握り締めた。
その手首が不意につかまれた。
見ると、ロスタムがエレミヤの手首をしっかりと握っていた。
適当にそのへんの角に引きずり込まれる。イブン・ワハシュとマイからは死角になるあたりに身をひそめる。
ロスタムはしっかりエレミヤを見つめていた。
「短剣が抜かれているのにご主人様が出てくる気配がありません」
言われてから気がついた。
「何か考えがあるんだと思います、ロスが見ているものをミーネを通じて見ているはずですから。ちょっと聞いてみます」
「どうやって?」
ロスタムが目を伏せ、少しの間黙った。
ややして、斜め下を見たまま小声で話し始めた。
「ミーネ、聞こえる?」
次の時、エレミヤは鳥肌が立つのを感じた。
『はーいっ、こちらミーネですぅ!』
ロスタムに握られている手首から骨を通じて全身にタハミーネの声が響いた。
「エレミヤさん、ミーネの声が聞こえますか?」
問われて、エレミヤはすぐ頷いた。
魔法だ。今自分は魔法が使われる瞬間に立ち会っている。
「こっちはこういう状況なんだけど、そっちはどう?」
『今ねぇ、シャフィーク様にチクりにご主人様と宮殿へ来てるのぉ! 位置的には近くにいるんだけどぉ、ちょーっと今すぐそっちに飛ぶというのは難しいかなぁ』
「ぼくらは次にどうしたらいい?」
『ちょっと待ってねっ』
少し間隔が開く。
『ご主人様からの
「殺さないのが一番難しいんだってばって言っといて」
ロスタムは虚空に向かって「じゃあね、切るね」と言ってエレミヤから手を離した。
「エレミヤさんにも伝わりましたか?」
「伝わったけど、むちゃくちゃじゃない?」
「いつもこんな感じです」
壁の角から顔を出し、イブン・ワハシュとマイの様子をうかがう。
私兵たちがマイを引きずっていくのを、イブン・ワハシュが苛立ちをあらわにした顔で見送っている。
イブン・ワハシュの傷はおそらくほとんどダメージになっていない。むしろ怒りに火をつけるだけになってしまった。最悪の事態だ。
マイを抱えた男たちは、廊下の奥、突き当たりで角を左に曲がった。
これくらいの大きな屋敷だと内部が市場の通りのように入り組んでいる。家族構成が変わるたびに増改築を繰り返すからだ。ここら一帯の建物はみんなそんな感じだ。だからオルハンも屋敷の中でさらにどこに何があるか特定しろと言ってきたのだろう。面倒臭いことこの上ない。
マイたちが消えると、イブン・ワハシュはすぐそこの部屋に入っていった。大きな両開きの扉で、細かな彫刻が施されている。彼の私室だろう。一家の当主というものはだいたい一番いい部屋を寝室にするものだ。
「とりあえずここはここでおぼえておいて、マイさんたちを追いかけましょう」
ロスタムに言われて、エレミヤは頷きを返した。
イブン・ワハシュとともにその場にいた女たちが部屋に入っていく。
一人残った女性が床を拭い始めた。血が垂れていたようだ。
エレミヤとロスタムは彼女に気づかれないよう慎重に廊下を進んだ。抜き足差し足忍び足。
彼女が顔を上げた。
「あんたたち何してるの」
心臓が口から飛び出そうになる。
しかしロスタムはいけしゃあしゃあと言った。
「ご主人様がお越しになる前に地下牢に何か敷くものか椅子をと思いまして。ご主人様を直接床に座らせるわけにはいかないじゃないですか」
使用人の女性は嫌そうな顔をしながらもあっさり「それもそうね」と言った。
「そんなことあんたたちみたいな若い子がする仕事じゃないと思うんだけど、こっちは手が離せないから、よろしく頼むわね」
「はーい!」
ロスタムが小走りで廊下の奥に向かった。エレミヤもすぐその後に続いた。
「よくも、次から次へと、適当な嘘を」
「ロスみたいな可愛い子が無事に生きていくためには知恵が必要なんですぅ」
左に曲がった。
その先は長い廊下になっていた。
だが奥のほうに先ほどの男たちの後ろ姿が見えた。
男たちが奥から一個手前の階段をおりていった。一番奥の階段ではなかった。危うく見失うところだった。
「行きますよ」
廊下を駆け抜ける。
少しでも早く助けられますように。
少しでも早くマイが安心できますように。
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