第2話 本当に人を殺す人の目
軒先に立っていたのは、ひとの良さそうな好青年だった。短く切った褐色の髪の上にターバンを巻き、白いシャツの上に刺繍の入った丈の短いベストを着ている。マシュリク人だろう。年齢は二十代前半だと思う。
彼は穏やかな笑みを浮かべていた。まるで鍋でも買いに来たかのようだ。
「あなたが店主さんですか」
「お、おう」
珍しくオルハンがたじろいでいる。
双子がこそこそとエレミヤに小声で話しかけてくる。
「こんなお客様めったに来ないです」
「どんな客?」
「殺気とか焦燥感とかがないです」
なるほど、この店に来る客はたいがい殺気か焦燥感を抱えてくるのだ。
誰かを攻撃する意図がなければ剣を握ろうとは思わないものだろう。エレミヤも
「かといって本職の方でもなさそうです」
「本職?」
「武器を日常的に使う職業の人々です。主に傭兵とかですね、軍隊のような大口顧客は持っていないので」
それはまったく思いつかなかった。エレミヤの日常とはあまりにも縁遠すぎる。そもそもそんな職業の人間が実在するのか。いわゆる裏社会というものに一歩踏み出した気分だ。
「本職の方ならいつもの仕事道具を揃える感覚で来るんですけど、そういう人たちって雰囲気でわかりますから」
エレミヤは唾を飲んだ。
これから先、自分はそういう人たち相手に接客させられるんだろうか。
「お客さん、何をお求めで?」
オルハンがカウンターに身を乗り出しながら問う。
「見てわかると思うんだけどさ、うち、武器屋なのよ。金物屋じゃないわけ」
青年が笑顔のまま頷く。
「わかっています」
「それとも誰かにここへ行けって言われてきた?」
「いいえ、私自身の意思です。このあたりの武器屋でひとつ短剣か何かを仕入れたいと思いまして。ところが武器通りに来てもどなたも出てこないものですから――」
市場の普通の店舗は商人が店先で待ち構えていて客引きをしている。こんなに静かなのはこの通りくらいだ。この店に限っては特に用事がなければ手持ち無沙汰な双子が座っていることもある、程度で、こんなに商売っ気のない通りも珍しい。
武器屋なんて、明るく能天気に、うちの店安いよ、とか、うちの店高品質だよ、とか言わないよな、普通。
「この店だけ看板を出しているではありませんか。双子の猫ちゃん。あれがなんとなく入りやすかったんです」
「あれね。武器をお求めのお客さんを呼び込むために置いてるんじゃないんだけどね」
うたぶんシャフィークたち『鷹』にあそこへ行けと言われた時のための目印として置いている。オルハンもそこまでやる気がないわけじゃないのだ。
「猫を飼っているのかと思ったら、双子ちゃんが出てきたものですから、驚きましたよ」
青年はにこにこしている。世間話をしに来たのか。普通の店ならそういうこともあるだろうが、一人でここまで短剣を買いに来たのだと思うと違和感がある。
「お茶いれます?」
双子の片割れに問いかけられ、青年が「結構です」と手を振った。
「急いでいるので」
微塵もそんな雰囲気ではない。
物腰穏やか、を通り過ぎて上品だ。着ている服の感じをとっても、こんなところまで一人で剣を買いに来たことをとっても、いいところのお坊ちゃんというわけではなさそうだが――いったいぜんたい何者だろう。
「誰かへのプレゼントというわけでもないのか」
「あくまで私が自分で使うために欲しいのです」
「ちょっと突っ込んだこと聞いてもいい?」
オルハンが目を細めた。
「お前さん、何のために剣が欲しいんだ?」
青年が、笑った。
その笑顔を見て、エレミヤは全身に鳥肌が立つのを感じた。
口元は笑っているのに、目の形も笑っているのに、瞳の奥底が冷たい。顔色もなんとなく青黒くなったように見える。
深い闇を抱えている。
絶望と紙一重の激情だ。
「殺したい人間がいます」
この人、たぶん本当に人を殺す。
今までの好青年ぶりは何だったのだろう。彼は普通の人間のふりができる狂人だ。
「誰を?」
対するオルハンの声は落ち着いている。
エレミヤの両隣で、小声で双子が言った。
「よかったです」
「何が?」
むしろ逆だろう、と言いたかったが、双子はこんなことを言った。
「自分で使うんじゃない武器を買う人にはろくな人がいないです」
「自分の殺意を剥き出しにできる人にはまだ理性があるのです」
「そういうもの?」
それが三年間ここで店を構えている双子とオルハンの観察眼か。この市場の店は売る側も客を選ぶのだ。
「ちなみにどこのどなたを殺したいのかは聞いてもいいか?」
すると青年は先ほどまでの狂気をひそめて首を横に振った。
「申し訳ございません、そこまでは」
「どこに何を持っていくのかアドバイスをしたいだけだ。別にお前さんの殺したい相手を特定したいわけじゃないさ」
「ああ、そうですか。言われてみれば確かに、そうですね」
青年がひとりで頷く。
「私はとあるお屋敷で料理人をしております」
「ほう」
「で、そこのお屋敷のご主人様を、ちょっと」
オルハンが自分の顎を撫でた。
「包丁を握って食材をさばくあんたが剣を握って人間をさばくのか」
そう言われると、青年は少しの間黙った。
エレミヤはようやくひとつの気づきを得た。
ひょっとしたら、オルハンは、人殺しをさせたくない相手には武器を売らないのかもしれない。
「ちょっと、事情を聞かせてくれねぇか」
そんな問いかけに、青年は少し考えるそぶりを見せた。
「私はアービドと申します。十二の時から料理の修行をして、今年で十年になります。今のお屋敷に勤め始めたのは三年前でしょうか、それまでは大きな食堂で働いていたのですが、いわゆるヘッドハンティングというやつですね」
「へえ、あんたすごいんだな」
「最初はよかったんです。私の腕を認めてくださる方に召し上がっていただいて幸福だと思っていました。まさかあんな方だと思っていなかったので」
そこから話が急に飛んだ。ひょっとしたら実は見た目に出ているよりずっと興奮しているのかもしれない。
「毒を盛ろうかと考えたこともありました。私は仕事上ご主人様のお口に入るものにそういう細工をすることも可能です」
そしてうつむく。
「でもできない。私はプロです。料理はひとを満たすためのものだ。汚すわけにはいかない。お屋敷にいる奥様方やお子様方も召し上がるものですしね。私が殺したいのはあくまでご主人様だけです」
「ふうん」
「肉を切るための包丁も持っています。でも仕事道具をあんな男のために汚したくない。繰り返しますが、私はプロなんです。そのプライドに反することは絶対にしたくない」
「それで、包丁ではない剣が欲しい、と」
「はい。でも、できる限り使い慣れた包丁に近い形状のものを」
また、にたりと笑う。
「確実に肉を断てるように」
よっぽどの殺意だ。寒気がする。
「そこまで殺したいご主人様ってのはあんたに何をした? 仕事を辞めるだけじゃダメなのか。あんたの腕なら簡単に再就職できそうな気もするけどな」
「いえ、絶対に殺します。でないと安心できません」
彼は少し、悩んだようだった。
「……妻を」
店側の一同が黙った。
「妻を譲るようにと言われているのです。あの男はもう四人妻があるというのに、愛人として囲いたいから差し出すように、と。それも、私の目の前で、妻の体を触りながら」
聖典では妻は四人までと定められているし、絶対にひとの妻と姦淫してはならないとも書かれている。それを堂々と無視するとはマシュリク人の風上にも置けないとんだ好色家だ。
「あんなにつらそうな顔をした妻の顔は初めて見ました。彼女の不安を取り除くにはもうあの男を殺すしかないんです」
オルハンが溜息をついた。
「わかった。あんたが握りやすそうな剣を選ぼう」
エレミヤと双子は息を詰めて見守った。
結局、アービドは刀身が少し長めの短剣を買って帰っていった。
肉切り包丁はこれくらいの大きさだ、と笑っていた。
その笑い方にまた狂気を感じてエレミヤは怖くなった。
一般の店舗のように金銭を授受した。エレミヤの時とは違いそうだ。
「普通の剣を売ったんですか?」
アービドが帰った後、エレミヤはオルハンにそう尋ねた。オルハンは「ああ」と頷いた。
「お前の時とは違ってな。あいつがどこかで本当にあの剣を抜いたとしても俺にはあずかり知らぬところでってことになる」
「止めないんですか?」
「止めたって無駄だ。惚れた女がいいようにされようって時に正気でいられるかってんだ。そこで手ぇ出して俺が恨まれてもなぁ」
双子が「エロじじいはちんこ切られればいいですぅ」と物騒なことを言う。
「ただ、ちょっと気になるな」
「何がですか?」
「今のアービド氏、相当ちゃんとしたところに勤めてんじゃねぇかな」
確かに、あの丁寧な所作や言葉遣い、そして料理人としての腕を買われてヘッドハンティング、となるといいところの厨房にいるイメージである。
「とんでもないお偉いさんが暗殺されて明日の新聞に出ちゃったりしてな」
ぞぞぞ、と鳥肌が立つ腕をさすった。
「そうなったらアービド氏の奥さんが独り身になるのか……。この世にまた一人未亡人が……」
「あーっ! ご主人様今変なこと考えたでしょーっ」
「ご主人様のクズーっ! 最低ーっ!」
「げへへへ……」
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