第7話 長く生きてりゃ普通の人間には理解できない摩訶不思議のひとつやふたつ遭遇するってことで

「オルハンさん!?」


 名を呼ぶと、彼が振り向いた。切れ長の目、薄い唇――確かにあの武器屋のオルハンだ。

 彼はエレミヤを見下ろしたが、今度は見下されている感じはなかった。


「騙すようなことして悪かったな。お前がどこに行くのか、と、お前にどの程度の覚悟があるのか、を知りたかった」

「え、どういう――」

「十分試させてもらった。満足だ」


 そして、エレミヤに向かって手を伸ばした。


「返せ」

「何を?」

「剣以外に何かあるかよ」


 混乱する。

 そんなエレミヤにオルハンが言う。


「ここから先は俺の出番だ。お前の代わりにやってやるから、お前は母ちゃんたちの縄を解いて安全なところで見てろ」


 こういう言い方をするということは、きっと敵ではない。

 エレミヤは「はい」と頷き、剣を鞘に戻して、鞘ごとオルハンに差し出した。


 男たちは突然の展開に驚いて硬直していたようだ。少ししてから我に返っていまさら怒鳴った。


「何だテメエ!?」


 オルハンが冷静な声で答えた。


「ただの人妻大好きマンだ」


 そして、ガウンを脱ぎ捨てた。


 またもや驚かされた。


 オルハンが着ている民族服には袖がなかった。

 筋肉が盛り上がったたくましい腕に、赤褐色の複雑な模様が彫られている。

 エレミヤの目にはそれは鳥の翼に見えた。

 同時に――どこかで見たことがある気がする。どこでだろう。自分は確かにどこかでこの模様と出会っている。


 彫られている、というのは違うかもしれない。

 彼の腕の模様は、黒い服の背中にまで続いていた。

 腕と服の背中の模様がつながっている。

 刺繍ではない。オルハンが腕を動かすたび、服の背中の模様も連動して伸びたり縮んだりする。わずかに光を放っているようで、暗い中でもよく見えた。


 男のうちの一人が叫ぶ。


「『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』……!?」


 それを聞いて、エレミヤもはっとした。

 オルハンの体の模様は、『皇帝の鷹サクル・アッスルタン』のマントの刺繍によく似ている。


 オルハンは「あー」と感情のない声で言った。


「まあ、長く生きてりゃ普通の人間には理解できない摩訶不思議のひとつやふたつ遭遇するってことでよろしく」


 オルハンが身を低くした。


 一瞬のことだった。


 オルハンが一足飛びで男のふところに跳び込んだ。


 剣を鞘から抜く。その勢いを殺すことなく男の胸を下から上へ切り裂く。


 ランプの炎にきらきらと赤い血液が輝いた。


 男たちの悲鳴が上がった。


 逃げようとする男たちをオルハンが追いかける。


 一人目、背中を上から下に斬る。一人目が床に倒れる。


 二人目、振り返って対峙しようとしたところ、剣を横に薙ぐ。男の胸が右から左へ裂ける。


 三人目、恐怖のあまりか尻餅をついた男には、剣を斜めにくれてやった。首が飛んだ。


 動きが滑らかだ。まったく迷いがない。

 美しいとすら思った。

 この男、強い。


 オルハンが次々と侠客アイヤールたちを斬り伏せながら廊下へ出ていく。

 エレミヤはついその後ろを追いかけた。その強さに魅了されたのかもしれない、もっと見ていたいと思ってしまったのかもしれない。


 オルハンの後ろにいれば何の危険もなかった。オルハンは一人ずつ確実に仕留めていった。後ろは振り返らなかった。


 中庭に出た時、オルハンは逃げていこうとする男の首根っこをひっつかんで持ち上げた。凶悪なほどの握力に引きずられて、男が宙づりになった。


「お前たちのボスのところに案内してくんない?」


 男が小便を漏らしながら「はい」と答えた。


 手を離す。男が小走りで奥のほうへ導く。その後ろをどこか優雅にも見える落ち着いた足取りで追う。


 男がたどりついたのは一階の奥、分厚い豪奢な彫り物の施された扉の前だった。


 門兵よろしく両脇に立っていた男たちが、侵入者であるオルハンに襲いかかる。


 右からやって来た男と切り結ぶ。刃と刃がぶつかって金属音が鳴る。

 オルハンの剣が男の剣を弾き飛ばす。

 だがさすがに組長の護衛とあっては強い。

 男も反撃する。下から上へ剣を振り上げる。


 同時に別の男が左からやってくる。

 オルハンは男の腹に蹴りを入れた。

 男の体が傾く。

 滑らかな動きで剣を左肩から右の脇腹へ動かす。胸がばっくりと裂け、血が噴き出す。


 右側の男が声を上げながら迫ってきた。

 オルハンはすぐに向き直った。


 剣の二つに割れた切っ先を男の顔面に突き立てた。

 男の顔面に切っ先が埋まった。


 振って捨てる。

 男の体が床に落ちた。


 オルハンの手が扉を開けた。


 中は広い部屋だった。高価な絨毯が敷かれ、香が焚かれており、窓を分厚い布で覆っていた。


 中央奥、文机を置いて向こう側に、老人が一人座っていた。堂々とした態度だ。彼は今なおひるむことなくオルハンを見据えていた。


 老人の手前に中年の男がいて、彼はオルハンの顔を見ると剣を握って立ち上がろうとした。

 それを老人が止めた。


「よせ。お前が敵う相手ではない」


 老人が言うと、中年の男は舌打ちをしながら腰を下ろした。


「『鷹』か」


 またそう問われた。

 オルハンはいけしゃあしゃあと答えた。


「そんじょそこらの『鷹』とは違って俺は鷹狩り用じゃないんですのよ」


 老人が小さく笑った。


「聞いたことがある。野良の『鷹』。もしもお前が本物のそれならわしらにできることはない」

「そりゃどうも」

「何が目的だ」

「いたいけな少年のお袋さん探しのついでに、ルーサ使徒教会を一個救ってヒーローになってやろうかと思って」

「ルーサ使徒教会?」

「あんだろ、ラフマン通りの端っこに一個。お前らが土地押さえてみかじめ料取ってるのが」


 オルハンに言われて、老人は溜息をついた。


「おい」


 そばに控えていた中年の男が、「は」と短く返事をして頭を下げる。


「その土地の権利書があるなら持ってこい」

「承知しました」


 男が部屋の右側、厚い壁掛けに隠されていた通路の向こうに消えた。


 少しの間、みんな黙っていた。


 男はすぐに紙を一枚持って帰ってきた。

 土地の権利書だ。


 オルハンが部屋の奥に入っていく。

 老人の文机の前に行く。

 文机の上に片足をのせた。


「書いて」

「何をだ」

「甲は乙にこの土地の権利を全面的に無償で譲渡する。甲にあんたの名前。乙は後で教会の司祭様に書かすから空欄で」

「生意気な若造だ」


 しかし老人は「いいだろう」と言ってペンを取り、権利書の空欄にオルハンが言ったそのままの文言を書き連ね始めた。


 エレミヤは安堵のあまり全身から力が抜けていくのを感じた。思わずその場に座ってしまった。


 オルハンが権利書を受け取り、振り向く。


「あらお前さんいたの」

「わかっているかと思ってました」

「お母さんとおとなしく安全なところで待ってなさいって言ったのに」


 つかつかと歩み寄ってきて、くつくつと笑う。


「まあ、でも、見届けてせいせいしたろ」


 そう言いながら、オルハンはエレミヤに向かって権利書を差し出した。

 エレミヤは涙があふれてくるのを感じた。




 さっきの納戸に戻るとすぐ、女性たちを縛っていた縄を切って解放した。

 女性たちに感謝されているのを見ているうちに、ようやく現実感が湧いてきた。エレミヤはほっと胸を撫で下ろした。


「みんなおうちに帰れる? 大丈夫?」


 オルハンのその問いかけには、ある人は「はい」と答え、ある人は口ごもった。口ごもった人にオルハンが「まあなんとか行き先斡旋するからちょっと待ってて」と告げる。


「エレミヤ、お前のお母ちゃんはここにいる?」


 エレミヤは「はい」と頷き、自分の母の腕をつかんだ。

 母が穏やかな顔で一歩前に出る。そして頭を下げる。


「ありがとうございました。息子もたいへんお世話になりまして」


 オルハンが硬直した。

 エレミヤは首を傾げた。オルハンの驚いた顔に驚かされてしまった。これだけ強い男が何に動揺しているのか。


「あの……、お母さんおいくつですか」


 エレミヤの母がきょとんとする。


「年齢ですか? 三十三ですが」


 急にオルハンがエレミヤの手首をひっつかんだ。

 引っ張られ、壁際のほうまで連れていかれる。


「お前、まずはお前のお母ちゃん紹介しろよ。あんなすっとしててそれでいてふわふわしてていい感じの人だなんて聞いてねェぞ」

「は?」


 エレミヤは顔をしかめた。

 さっき侠客アイヤールたちを前にしてオルハンが言っていたことを思い出した。


 ――人妻大好きマンだ。


「お前のお父ちゃん何してる?」

「ルーサ使徒教会の司祭です」

「生きてんの?」

「生きてます」

「くっそ! 生きてたら不倫になっちまう! ワンチャンと思ったのに!」


 エレミヤは心底オルハンを軽蔑した。


「帰ろう母さん。父さんきっと心配してるよ」

「え、でも、あの方はいいの? 助けてくださったのに」

「いいんだ、ほっといて。真剣に構うとバカを見そうだから」


 オルハンが「せめて手だけでも握らせて! 頼む!」と追いすがるのを振り切って、エレミヤは母とともに教会へ帰宅した。




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