パン屑

ohne Warum|

第1話

君の持つ定期入れは、ポケットが沢山あるらしい。水も持たない君の辿り着ける先は、ひとつだけなのに。余所見をすれば、其処だって永遠に遠ざかる始末。地図を眺めて歩くことや、経路を辿って進むと良さそうでも、少しでも迷うのならば向こうを見たまま歩いて線路に落ちてはいけないので、微かに聞こえる死者の声に、耳を澄ませるだけでいい。


血管を辿って歩くのはやめて、見つめるべきは、昔から知ってるそれが良い。其処への行き方を知らずとも、どう歩くのかはもう決めたはず。無駄なことに捧げる時間はない。その足はベンチに休むほど衰えてはいないので、何も気にせずそこを通り過ぎろ。


幽霊の降らせた雨に濡れようが、人々の群れる真ん中を通ってはならない。不思議な感触のタイルの上を歩くことなど言語道断。そこへ到着する列車は、何も、君のいる場所を把握してはいない。車両の長さなど日替わりだし、ホームの一部も陥没していて、通ることなど許されない。目の前を過ぎる戯けた鳩たちに気を遣ってもいけない。


あの場所を見失うな。その地がそこから遠すぎようと、冷たい伴奏を聴いたせいで不安に思おうと、寄り道をしている余裕はない。もしも方向を見失おうとも、その鳩たちは、君の手にパンがないと知るなり、何事も言わずに歩き去る。飛び去ることもあろうとも、君がそいつを追った場合に限られよう。そもそも君の模写する鳥は、その街には住めない。


あのエメラルド色に輝く羽毛を自慢することもなく、ただただ忙しなく花から花へと飛び移る小鳥たち。巨大な嘴の哲学者も、君の興味を惹きはしない。あの異世界から訪れた尾長鶏も、いつか君が手にしたパンを見せようと、気付きもせずに歩き去る。この世に咲いた多くの鳥たちが、その地の特色を纏って舞うものだ。君が選んだその鳥も、いずれはその地に実を落とす。一度も鳥に触れたことのない君が、どんなに不思議な蜜の花を捧げようと、鳥というのは八回も羽ばたくと何事も無かったのかのように忘れ去ります。なので多くの者たちが触れることさえ叶わぬ鳥を、蚤の市で見つけてはガラスに入れて飾るでしょう。


君の目の前にも黒いアヒルの子が微笑んでいる。その子の飛ぶ姿を知らずとも、その子の知らない君はいない。眠ることの叶わないあの夜でさえ、アヒルはあの静かな崖で隣に座って、鳴き声もあげずにその羽毛の撫で心地をも教えてくれます。それは小魚を岩に寝かせるカワセミに君が見た幻。


そこには崖もなければ、涼しく吹く風も、雀の羽ばたき。その揺れる草の感触は鼠に響いた命の流れに過ぎない。君がガラスに閉じ込めたハチドリの剥製に花の蜜に魅せられる余裕はない。目を瞑ったままに、ありもしない夢に浸るのはおやめなさい。君の前を通り過ぎた鳩たちに、手にしたパンを散らそうものなら、そこにいるカラスが君の脳天に一撃を加えることは既に知ったはず。君を見守るそのアヒルの表情の見えない不気味な目が、君の可愛い後輩を見定める日は訪れない。


怖い顔した哲学者も水辺に迷い込んだワニの子供を飲み込んで、音もなく神社の向こうへ飛び去った。老いぼれイグアナと共に優しく話しかけてきた白孔雀も、いまでは君の耳たぶで遊んだリスザルたちと共に、ヤシガニの支配する林の中に囚われている。君のもとへと鳥は来ない。


それが向こうに見えようと、そこに君の居場所はない。その地に辿り着いてから、そこまで時間は経ってはいない。通る列車も親切で、目の見えない君を轢き殺すこともない。飛ぶものたちにパンを撒くのは、剥製の飛び去った後でもいい。何も持たずに向こうへ進め。飛びたくなっても地に足をつけていろ。そのまま列車を見失わずにいれば必ずあの地へと向かう機会は訪れる。


君が飛んで仕舞えば、その花もそこにはいられない。その地に咲く花など初めから存在しなかった。君の見ているそれは根のない花。猫も鼠も失った君が愛したその黒アヒルも、いまでは君の恩人の暮らす港町に飛び去った兄弟たちのことしか覚えてはいない。いずれ羽ばたくのを止めるその鳥は、そのうち羽毛の白さを見せてはくれなくなる。君は既に知っている。


雲の目覚めない空に響き渡る鳥の囀りも、知らぬうちから知っていた。嘘つき鳩や意地悪カラスの見せる悪夢も、知らぬうちから知っていた。君の愛するその鳥は、草を羽織るだけ。

尻尾を引き抜く前の君が、三年間も着たままだったフリースの色によく似てる。君を笑わせた水辺の小人や、その壁に住む奥行きのない月の色にも良く似てる。でしたら尚更、それを見失ってはならない。


君の向かうその土地は、そこからは遠すぎて、白鳥に愛された小狐たちも、とうとう腹を空かせてしまう。もう黒アヒルも、白鼠も、君を見つめることはない。その街で列車を目指す日々も過ぎ去った。われわれは皆、人の見せるものには目もくれず、過ぎ去った日々でさえ、新作のキッシュの味に期待しながら、なかなか現れないそれを待ちわびることもしなかった。彼らは地上で暮らす鳥たちだ。どんなに飛び方を真似ようと、体を持たぬ君には羽の感触を知る日は訪れない。


優雅に泳ぐ鯨の唄声に魅せられようと、たった一人であの地へと向かわねばならない。これまで以上に残酷な世界が広がっているはずだ。失った羽毛のもつ滑らかさを忘れる暇もなく、君の元へは訃報が届いては去り続ける。オキアミたちからも遠ざかった君を待つのは、誰も知らない死者の国。そこに暮らすのは君と同じく、この世に生まれても、肉体を持たぬうちに死んだものたち。「存在する」ということの感触を知らない彼らは、君の見る世界を言葉を介さずに理解する。


どこにも存在しなかった彼らにパンをやろうとしても、君と同じで肉体がないのだから仕方がない。キッシュを待つうちに文化人となってしまった彼らのいる地上へと降らせてやりなさい。誰でもそれくらいの礼は伝えるものです。道ゆく鳩や、カワセミを気にしたって仕方がありません。君の想像できないほどに皆逞しく飛びながら破れた羽はちぎり棄てています。


これまで多くの生き物たちが地上での生き様を見せてくれました。遠くに生きるものから、君を愛した唯一の猫まで。彼らに与えるパンを、まだ君には渡すことはできません。


生きるのです。遅れてはならない。

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パン屑 ohne Warum| @mir_ewig

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