第13話:桜木冬威は背筋が凍る

「どうトーイ。がんばってる?」


 花恋姉は少し首を傾け、にこやかな笑顔で俺の顔を覗き込む。

 俺は──背筋がぞくりと凍った。


「あ、ああ。まあぼちぼちな」

「そっか。よきよき」


 満足そうな笑顔のまま、花恋姉が机の上のノートに手を伸ばす。


 ──うわヤバい!


 ノートにはトレーニングをこなした回数や時間を、日毎に書き込むようになっている。


 俺が書き込んであるのは、もちろん初日の十分にやったことのみ。

 サボってたことがバレてしまう。


 慌てて俺もノートに手を伸ばしかけたが、一瞬花恋姉の方が早くノートを掴み上げた。そしてパラっとページを開く。


「え……?」


 花恋姉は絶句した。

 しばらくじっとノートを睨んでいた目線を俺に向ける。


「こらトーイ。やったトレーニングはちゃんと記録しとかなきゃダメじゃない」


 あ。思ったよりも怒っていない。ホッとした。


 トレーニングはやってるけど、それを俺が記録していない。花恋姉はそう思ったみたいだ。

 まさか全然やってないなんて露ほども思ってない様子。


 どうしよう……

 これ、ホントのことを言ったら殺されそうだな。

 なんて言い訳をしようか。

 忙しかったから?


 確かにイラスト制作は時間を取られた。だけど他にまったく時間を使えないほどではなかった。そんなことはわざわざ言わなけりゃ、花恋姉にはわからないことだけれども。


 それとも、ちゃんとトレーニングをやったことにしとくか?


 いや。俺も変な嘘はつきたくないしなぁ。

 正直に話したらどうなるだろ?


 俺がトレーニングをサボったところで、花恋姉にはなんの損もないんだし。

 きっと花恋姉は笑って、「仕方ないなぁ」って許してくれるよな。どうせ俺なんか子供扱いだし。


 うん、きっとそうだ。それがいい。

 さらっとホントのことを言っちゃおう。


「ん? どした? なんで固まってんのトーイ?」

「あ、いや……記録を書いてないんじゃなくてさ……トレーニングをしてない」

「えっ……?」


 花恋姉の顔色がさっと変わった。


「なんで?」

「なんでって……イラスト書くのも忙しかったし、まあちょっとやる気が出ないってこともあってさ……あはは」


 花恋姉は青い顔で、無言のまま俺を睨んでる。えらくマジな表情だ。

 花恋姉が手に握ったノートが──くしゃりと音を立てた。

 そしてピンクの唇はぷるぷると震えている。


 あれ?

 軽く笑い飛ばしてくれると思った予想と違う。


 ──やべ。


 俺の頭の中の警報アラームが、マックス音量でビービー鳴ってる。


「まあ明日からちゃんとやるから。ごめんな花恋姉、あはは」


 俺は頭を掻いて、苦笑いを浮かべた。

 花恋姉は下を向いて、何やらぶつぶつ言いだした。

 これが漫画なら、周りには暗雲が……いや雷雲が立ち込めてる背景が描かれている雰囲気。


「やる気がでない…… 明日からやるから……」

「あ、いや…… 花恋姉? どしたの?」


 突然花恋姉は顔をがばっと上げて、不動明王像のような怖い顔で俺を睨んだ。

 そして大きく口を開けて、周りの空気を引き裂くような声を出した。


「トぉぉぉーイぃぃぃぃ!」

「は、はいっ!」

「アンタってヤツはっ!! なんでもっと真剣にやらないのよぉっ!」

「あ、いやだって…… なあ、花恋姉の方こそ、そんなにマジなふりするのやめてくれよ。それ、冗談で激怒する演技してるんだろ? な。冗談だよなっ?」

「誰が演技なもんかっ! 私は……私は本気で激怒してるのよぉ!!」


 花恋姉は片手で髪をガシガシしながら叫んでる。顔を真っ赤にして、目には涙が浮かんでいる。


 せっかくの綺麗な顔がボロボロになってるし髪も乱れている。おまけにぎりぎりと握りしめる拳も真っ赤だ。

 俺のノートがかわいそうに、丸まってくしゃくしゃになっている。


 これは──ホントに本気でマジで真剣に怒ってる……よな。


「な、なんで花恋姉がそこまで怒るんだよ? 俺がモテるためのトレーニングなんて、サボったところで花恋姉は何も困らないだろ。な、そうだろ?」


 俺には、花恋姉がなんでそこまで怒ってるのかわからない。とにかくなだめようと猫なで声をかけた。

 すると花恋姉は大きな目に涙を浮かべたまま、抑えるような声で話し始めた。


「私はね……ずっと前からトーイを心配してた。子供の頃のトーイはもっと明るくて天真爛漫だったのに。中学の頃からか、いつのまにか陰にこもったようになっちゃったし。自分に自信が持てなくてネガティブなことばっかり言うし……」


 あ。花恋姉はそんな風に俺を見てたのか。

 確かに子供の頃は、俺は普通に明るかった……ような気がする。


「だからいつかチャンスがあったら、トーイが自信を持って、前みたいに明るいトーイになって欲しいって……卑屈にならずに友達付き合いができるようになって欲しいって……そのチャンスがいつか来ないかって……私なりにずっと考えてたんだから」


 花恋姉はとうとうこらえ切らずに、目をぎゅっと閉じてうつむいた。その目から涙がボロボロっとあふれ出す。肩がプルプルと震えている。


 いつも偉そうな花恋姉の身体がとても小さく見える。俺はそんな花恋姉の姿を見て、言葉を失ってしまった。


「それでやっとこの前、トーイがやる気になってくれて……ああ、これでやっと、私がずっと心配してたことが解消できるかもって……すっごく嬉しかったのに。なのに……」


 とうとう花恋姉は、両手で顔を覆って、ひっくひっくとしゃくり上げ始めた。

 そんなに俺のことを思ってくれてたなんて思わなかった。

 ここまで悲しむほど、本気で俺のことを心配してくれてたなんて思いもしなかった。


「ごめん花恋姉。俺はさ……ホントはやっぱり自信がないんだよ。いくら花恋姉が大丈夫だって言ってくれても、俺にホントに彼女ができるようになれるかって言うと……自信がないんだ」


 それは本音だ。

 あまりに本音過ぎて、情けない声しか出ない。

 俺ってやっぱヘタレだよな。


 俺のそんな情けない声を聞いて、花恋姉は顔を上げた。瞼は腫れてるし目は真っ赤だし、せっかくの美人がボロボロだ。


 だけどそんなボロボロの顔に似つかわしくない目力の強さで、花恋姉はじっと俺を見つめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る