白身

「Nちゃん、元気そうでよかった」


 そう言うとNはにこっとした。最後に会った時よりも頬が少し丸くなって、幸せそうだった。

 大学からの友人Nに会うのは2年振りだった。最後に会ったのは他の友人の結婚式だ。正直その友人夫婦よりも、二次会で泣きじゃくっていたNの方が記憶に残っている。もう結婚していた彼女は、よりによって夫の浮気で揉めている最中だった。

 「そっちの夫婦仲はどうなの」と誰かが軽く振った話から、Nは一気に喋り出した。蓋を開けたシャンパンみたいだった。


「もうあいつと別れたいの」


 ぐしゃぐしゃになったハンカチを顔に押し当てながらNは言った。貸し切った店内では、新郎の同級生がマイクでお開きの挨拶を喋っている。Nは彼や新郎新婦に顔を背けていたけれど、何人かがちらちらとこちらを見ていた。

 私は黙ってNの背中をさすっていた。

 二次会の店を出てからもNは泣き止まなかったが、「子供を実家に預けてるから」とタクシーを拾って帰っていった。


 あの夜が嘘のように、Nは日当たりのいい部屋で、ソファに座って笑っている。

 あれからたまにLINEでのやり取りは続けていたが、夫と別れたとも、復縁したとも聞かなかった。できる事なら力になると伝えはしたけれど、Nが言い出さない限りこちらからは切り出しにくい。

 新居に移ったから遊びに来て、と誘われて初めて、同じく招待された他の友人――あの結婚式の新婦だ――と「元鞘になったんだね」と言い合ったくらいだ。


「あ、くっそ。うち、子供の健診と重なってるわ。しっかり見て聞いて来てよ。旦那をどう許してやったのかとか、参考にしたいからさ」


 その友人ほど浮気話に興味津々にはなれないのは、間近でNの号泣を見たからだ。話があの披露宴に飛んだら気まずい。少しわざとらしく、広いリビングや、丸いテーブルが置かれたダイニングを見渡す事にした。続いて出た言葉は演技ではなく本音だ。


「家もこんなに立派で、すごいよね。羨ましいな」

「大した事ないって。半分リフォームだよ」


 Nの新居は一戸建てだった。彼女の母方の祖父母の家を改築したという。半分リフォームは謙遜で、ほとんど新築同然だ。このリビングも長女のSちゃんの部屋も、三ヶ月後に産まれてくる子供のための部屋も、どこも清潔で真新しかった。

 三階建てのアパートでひとり暮らしの自分には、生涯こんな家は持てないだろう。大きな窓から入る日差しで、N自体が発光して見えた。


「リビングや子供部屋は新しいけど、向こうの台所とかはほとんど変えてないの。おばあちゃんの頃のまま。神棚とかもあるんだ」

「え、そうなの」


 意外だった。料理好きのNなら一番こだわりそうなスペースだ。うちの実家の母でさえ「水回りだけでも新しくしたい」としょっちゅうぼやいている。それとも昭和レトロの、一周回ってお洒落に見える作りなんだろうか。

 Nはダイニングの方に顔を向けた。言われてみれば最近の流行と違って、ダイニングと台所はしっかりと壁で分けられている。ここからだとどうなっているかよく見えない。しばらく黙ってから、「ここだけの話なんだけど」とNは言い出した。


「おばあちゃんの思い出があるんだよね」




 Nの母方の祖父は豪農の家柄だった。その父の代にあらかたの土地は手離したが、祖父の頃にもまだゆとりある生活ができていた。

 ただ、坊ちゃんとして甘やかされたのが良くなかったのだろう。Nの祖父は贅沢が好きで、わがままだった。祖母と結婚してからも、酒が入ると気が大きくなって、家の金を持ち出しては女遊びに出掛けていた。

 時代が時代だ。止めに入ろうとしたNの祖母は殴られ、黙っているしかなかった。とうとうお金が底を尽きた時は、土地を切り崩してお金にして、知った祖父にまた殴られる有様だったという。子供が産まれると多少は落ち着いたが、それでもNの母は、殴られる祖母を見て育ったらしい。


「だからあんたはまだいい方だ、浮気だけじゃないの、って言われちゃった」


 Nにそう言われると返す言葉もない。そんな事、とぼそぼそ言ってから、黙っていた方がよかったような気がした。Nは何も聞いていないような顔で続けた。


「おばあちゃんはね、ずっとこの家でおじいちゃんに尽くしてきたんだって。おじいちゃんの言う事は何でも聞いて、飲むと荒れるってわかっても晩酌したり、背中を流したり、爪を切ったり…」


 それはNが小学校に入ろうかという頃だった。母の用事でNは祖父母宅に預けられた。元々母はNをあまり祖父母に近付けたがらなかったが、預けるあてが他になかったのだろう。祖父母はどちらもNを可愛がってくれ、孫にとってはよくある「優しいおじいちゃん、おばあちゃん」だった。

 当時のこの家は、豪農の面影を残した大きな平屋である。Nの布団が用意された客間も、畳を十枚以上敷けるような広さだった。

 初めて泊まる家で、広い部屋で、豆電球も消された真っ暗闇。子供ひとりでは寝付けなくて当然だ。目をつぶっても、段々と闇に体が押し潰される気がしてくる。

 やがてNは怖くなり、布団を抜け出した。


 襖を開き、恐る恐る廊下に顔を出すと、意外な事にうっすら明かりが見える。台所の方から漏れてきているらしい。ほっとしてNはそちらに向かった。次第にしょりしょりと小さな音も聞こえてくる。


「ああ、おばあちゃんが明日のお米をといでいるんだ、って思ったんだ。でもね、」


 Nは台所をそっと覗きこんだ。湿気と冷気のたまりやすい、神棚の飾られた昔ながらの台所で、確かに祖母が米をといでいた。洗い場にボウルを置き、身を屈めて手を動かしている。

 だが祖母はNが声をかけるより先に、しゃんと身を起こし、神棚に手を伸ばした。

 「かまどの神様がいるんだよ」とNが教わっていた神棚は、ぱっと見は据え置きの調味料棚のように小さい。そこから祖母は袋を取り出した。よくあるお守りのような、赤い布袋だったという。

 袋を開くと、祖母はぱらぱらと手のひらに中身をこぼし始めた。米のように白く見えたが、ひとつだけ祖母の手のひらから跳ねて、Nの足元に転がってきた。

 それは米粒とは明らかに違う、三日月型をしていた。


「爪だったんだよね。人間のね、切った爪の先」


 多分、薬指だったんじゃないかな、きれいな形してたから。


 …やがて祖母はコンロに火を点けた。手のひらいっぱいの爪をフライパンに乗せて、どうやら焼きにかかっている。換気扇も回していたが、顔をしかめるような臭いをNは感じたという。

 何かをぶつぶつ祖母は呟いていたが、換気扇の音で聞き取れない。Nはただ彼女の少し曲がった背中を見つめながら、「見つかっちゃいけない」とだけ考えていた。

 やがて祖母はフライパンを取り上げて、米の入ったボウルに入れた。フライパンの中身がどんな形をしていたのか、Nはもう記憶にないという。覚えているのは少し焦げ付いたフライパンの底だ。

 その黒い底面を見ていると、悪臭も手伝ってNはとうとう気分が悪くなり、急いで客間へ逃げ帰り、布団に飛び込んで…


「…次の日の朝早くにお母さんが迎えに来て、朝ご飯は食べなかったんだよね」


 Nの祖父はそれから間もなく亡くなった。友達と飲んでいた最中に倒れ、救急隊が駆け付けた頃にはもう息をしていなかった。

 酒のせいだと誰もが言ったが、Nはあれのせいだ、と思ったという。

 

 祖母が米に入れた、焼いた爪。


「子供の頃の悪い夢だと思ってるんだけどね。ほら、爪なんて焼いてもご飯に入れたらわかるじゃない? でもあのおばあちゃんを思い出すと、何となく台所が変えられなくて」


 Nが髪をかき上げる。小さな子供がいる母親らしい、飾り気のない短い爪だ。学生時代の彼女がネイルに凝っていた事、あの二次会の夜もいくつかビジューを付けて「自分でやったんだ」と微笑んでいた事を思い出す。


「あ、帰ってきたみたい」

「ただいまあ。おっ、いらっしゃい」

「ママ、ただいま! おばちゃん、いらっしゃい!」

「ゆっくりしていってよ。ほらSちゃん、手を洗おうな」


 Nの夫と娘のSちゃんがリビングに入ってくる。お邪魔しています、と言いながらNの夫の爪に目が釘づけになってしまう。Sちゃんを洗面所に連れて行く彼の爪も、小さな子供がいる父親らしく短い。とても短い。

 まるで少し伸びた片端から切っているように。


「…最近、ちょっと帰りが遅いんだよね」


 夫が洗面所に入るのを見届けてから、Nが呟く。短い爪を持った手で、目立ち始めたお腹を撫ぜながら。


「休みの日も理由をつけてひとりで出て行くし。まあ、いいんだけど」


 彼女の視線は洗面所から、ゆっくりと横へと動く。この家の洗面所の隣には、台所がある。


「いいんだけどね」


 その日はそれからすぐ帰った。Sちゃんは残念がってくれ、Nの夫も夕飯を一緒に食べようと誘ってくれた。


「知ってるだろ? こいつの料理、うまいんだよ」


 言われなくても知っていたが、彼女の手料理を食べる気には二度とならなかった。




「何でこんな事になったの!」


 それからNの料理を食べる事は二度となかった。亡くなったからだ。

 ふたり目の子供を産んですぐ、家族みんなで乗った車が交通事故に巻き込まれた。子供たちは奇跡的に傷ひとつ負わなかったが、運転していた夫と、助手席にいた彼女は一緒に亡くなった。


「あんなに幸せそうだったのに」

「まだ若すぎるよ!」

「何でこんな…」


 小さな子供たちを残した早すぎる死に、お通夜の席では「なぜこんな事に」という言葉がお悔やみよりも響いていた。結婚式よりも大勢の人間が集まり、なぜこんな、なぜ、と泣き叫ぶ声が響く中、私はひとり呆然と


「Nちゃん、自分の爪まで入れなくてもよかったのに」


と考えながら、嗚咽する友人の背中をさすっていた。


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白身 @tamago-shiromi

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