終章 アンリ・ソレイユ
「いやあ、見破られなくて良かったよ」
それがアンリたちと合流したジョルジュの第一声だった。
皇女ロゼ・ヒルデガルドが講和に応じたのは、ジョルジュが新たな兵を引き連れて戦場に現れたからだ。
「実はクラン・クレイターヴをほっぽってきたからね」
話を聞くとクラン・クレイターヴには一兵も残していないというのだ。せっかくメレンゲル候を出し抜いて、労なく城を奪還できる好機であったにも関わらずだ。
そのうえ、率いてきた八千のうち六千は、クレイターヴの街の衆だというのだ。確かにジョルジュの手元に残っていたのは、ドニエ候をはじめてとしたクレイターヴの城の護りのための老兵だけだ。その数は二千に満たないだろう。それでも鎧兜をかぶったものたちを前面に押し立て、荷馬にも鞍をのせて、とにかく数だけはいるように見せかけた。
「重装騎兵がこちらに押し寄せてきたら終わりだった。冷や冷やしたよ」
完全なはったりではあったが、絶妙の場面で登場したのは間違いなかった。
「まあ、わたしはアンリの策にのっただけだけどね。ところでアンリはどこ?」
「わたくしが、当代のアンリ・ド・セルシーヴです」
アンリはジョルジュの前へ進み出ると、膝を折った。
「そう…」
ジョルジュもまた、年若いアンリの姿を見てすべてを悟ったようだった。あまりに鮮やかな策を打ってきたから、まさかアンリが代替わりしているとは思いもよらなかったようで、その後、しばらく言葉が続かなかった。
「兄君もあなたくらいの年でアンリを継いだのだったね。それで、盟約者はもう決めたの? まだなら、わたしはどうだい?」
「兄上!」
その言葉を聞いて、驚いたのはリュシオンだった。
「だって、リュシィは先代のアンリの盟約者だっただろう。ふたりのアンリが同じ人間に盟約を結ぶなんて聞いたことがないよ」
「ですが…」
「陛下、申し訳ありませんが、わたしはすでに盟約者を決めております」
まわりの目線が一斉にアンリに注がれる。
「へぇ。誰だい?」
「リュシオン卿です」
自分で言葉にすると、頬が上気するのがわかった。
「兄君と同じ盟約者をもってもかまわないのかい?」
「特にいけないという話は聞いていませんが…」
もちろん、そんなことはこれまでなかったはずだ。アンリの盟約者は伴侶でもある。自分の母親を盟約者に選ぶことはできないからだ。
兄がなぜ男であるリュシオンを盟約者に選んだかはわからない。それでも小(プティ)アンリの自分がいたことで、兄は自分の気持ちを偽ることなく盟約者を選び、アンリとして生きることができたのであれば、それで良かったと思える。
リュシオンが自分を見ているのがわかった。見つめられていると思うと、余計に頬が熱くなった。
「アンリ…」
リュシオンの腕が伸びてくる。抱きしめられると思った瞬間、思わず体をそらしてリュシオンの腕を避け、無理やりその手を取って握手した。
不満そうに顔をしかめたリュシオンにアンリはそっと耳打ちした。
「一応、わたしは男ということになっていますから…」
「女の騎士候など珍しくないぞ。皇女をみてみろ」
「女のアンリは珍しいんです。それにまだ心の整理がついてないんです」
「ふん!」
リュシオンは鼻を鳴らすと握ったままだった手を振り払うようにほどいた。
ジョルジュの元に騎士候が次々とあいさつに現れる。その中にはもちろんサラン候の姿もあった。はったりの八千の話を繰り返すと、さすがのサレイ・ド・サランも呆れた顔をしていた。
「あなたって人は…」
「よくいうよ。サレイだって、結構はったりをかますじゃないか」
「わたしが使うのははったりではなくて陽動。ちゃんとした戦術ですよ。一緒にしないでいただきたものです」
「そうそう、話はかわるけど、このログラム街道沿いに宿場町をつくろうと思うのだけれど」
「宿場町?」
確かにリフラン周辺はログラム街道沿いにもかかわらず、大きな宿場町がない。秋から冬にかけて自然が厳しいこともあって、宿場をつくるのをさけているのかもしれない。
「王宮からも少し援助してね。ログラム街道をきっちり抑えておくことは必要だよ」
それは、その通りなのだが、付き合いが長いサラン候などは疑いの目をしている。
「それだけではないでしょう」
「うん。大きな賭場も併設しようかと思うんだ。街道の通行税はとらない代わりに、楽しくお金を落としてもらおうかと。今回の戦いではいろいろ出費がかさんだけど、税は上げたくないからね」
よく、これだけ次々と思いつくものだと呆れるが、ジョルジュのこの采配でクレイターヴはたった十年でローザニアに負けないほど豊かになったのだ。
「賭場って、それはあなたが博打をやりたいだけなんじゃないでしょうね」
「趣味と実益をかねてってやつだよ。大丈夫、クレイターヴの隊商には手加減するから」
ということは、他国の隊商には手加減しないということだ。所詮、宿で博打に手を出す商人というのは、金が余っているものということだろう。税金で巻き上げるより博打で巻き上げるほうが、楽しみがあって良いというのだ。
「陛下も賭博をなさるのですか?」
「兄上は、クラン・クレイターヴの賭場はどこも出入り禁止だ」
「それが残念なんだよね」
ジョルジュは身をやつして、度々クラン・クレイターヴの賭場に出入りしていた。他国の者相手だと手加減なしで勝ち続け、身ぐるみをはいでしまうこともあったらしい。しかも勝ったら勝ったで勝ち逃げを決め込むジョルジュに賭場の主たちが次々と出入り禁止を申し渡したのだ。
これではアンリ・セロンの盟約者であるジョゼフィーネとかわらない。とそう思ったところで、思い当ったことがあった。
「もしかして、セルシーヴの血が流れていらっしゃるとか…?」
「歴代のアンリの中に博打に強い者がいたというのは聞いているよ。わたしの曾祖母は、セルシーヴの姫君だ。騎士候の家は先祖をたどればいろいろと血縁はあるんじゃないかな。クレイターヴの姫がセルシーヴに嫁いでいるようにね」
ジョルジュが言っているのが自分の母のことだとわかった。
「伯母上は、ずっと二人目のアンリのことを気にしていらっしゃった」
「母が、わたしのことを?」
「きみは生まれてすぐクラン・クレイターヴにきたんだよ。もちろん覚えていないだろうけど。伯母上が連れ出したんだ。静寂の塔に閉じ込めるのはかわいそうだと言ってね。でもきみは篤い病になって、結局セルシーヴで療養することになった。それ以来、会わせてもらうことはできなかったと言っていた」
『アンリ』として生まれた子供は、静寂の塔以外で育つことはできない。それでも、手元で育てたいと思ってくれたのだろうか。
「わたしは、母に会ったことがないのです」
「それはおかしいな。独立戦争が激しくなってきたとき、きみに会いにセルシーヴに戻ったよ」
女の人が小さな子どもの手を引いている。
風の匂いと草の匂いでそこが懐かしいセルシーヴの森だとわかる。真夜中を過ぎた森の中は、木々の葉の間からさす月の光が木漏れ日のようにちらちらとしていた。
あれは自分だとなぜか感じた。それならあの女の人は。
「母上」
そう呼んだ声は、声変わりしたばかりの兄の声だった。不思議な感覚だった。幼い頃の自分を兄の目を通してみているのだ。
「小(プティ)アンリ」
母の声はとまどいを隠せてはいなかった。
「テッティをどこにつれていくおつもりですか?」
「クレイターヴへ連れて帰るわ」
「その子は『アンリ』です。ここを離れては生きていけない」
「違う。この子は女の子なのよ。『アンリ』なわけがない」
「ぼくには、なぜテッティが女の子として生を受けたのかはわかりません。でも、『アンリ』であることは間違いありません。ぼくも『アンリ』だからわかるのです」
「やめて。この子をわたしから取り上げるのを」
母の目から一筋こぼれた涙に月明りが反射する。
「取り上げたりしません」
「このままだとこの子はアンリを継ぐまでこの塔にいるのよ。アンリを継ぐということは、あなたが亡くなるということなのよ。わたしにはどちらも耐えられないわ」
母の言葉に兄はなにも言い返せなかった。
これまでひとりの母からふたりのアンリが生まれることも、女のアンリが生まれることもなかった。少しづつ何かが狂い始めているのかもしれなかった。
「ユーグ」
「その名で呼ばないでください。わたしは小(プティ)アンリです」
「それでもあなたは、わたしのユーグだわ。そしておまえは、わたしのソレイユ」
母が小さな自分を抱きしめた。やわらかな頬ずりと口づけ。
アンリはこの後のことを思い出していた。母はこのとき気付くのだ。
「ソレイユ! ソレイユどうしたの! ねえ目をあけて」
「テッティ!」
兄は小さな自分を母から取り上げると、静寂の塔へ向かい走り出した。十五を過ぎていた兄はこの頃もう塔の外へ出ても平気だったのだろうが、五つになるやならずの自分にとっては、生死をさまようほどの状態だった。
母が自分を呼ぶ声が森に響いていた。その声がすすり泣きの声にかわり、やがて聞こえなくなった。
もしかすると、母は自分が独立戦争で亡くなることを予期していたのかもしれない。自分が亡くなるその前に、アンリのことを自由にしたくて塔の外へ連れ出したのかもしれなかった。『アンリ』である自分は外で生きることはできなかったけれど。
『テッティ』
懐かしい兄の声だった。
『兄上』
『そうか、もうテッティじゃないな。アンリ・ソレイユ』
兄から初めてその名で呼ばれた。
『みんなお前を愛していたよ。幸せにおなり』
『兄上…。アンリ・ユーグ。あなたのことは決してわすれません』
兄は優しく微笑むと、アンリを元の時間に送り出してくれた。
「アンリ、ねえ、アンリどうしたの」
ジョルジュが心配そうに自分のことを見ていた。
「悪かったね。悲しいことを思い出させてしまって」
「いえ、大丈夫です」
「なら、楽しい話をしようか」
「楽しい話ですか?」
ジョルジュはまるでいたずらっ子のような顔をして、少しかかがんでアンリの正面で顔を覗き込んだ。
「きみとリュシィの結婚式のこと」
「兄上!」
真っ赤になって怒り出したのはリュシオンのほうだった。
「クレイターヴでするか、セルシーヴでするか。伯母上のときはセルシーヴでひっそりとすませたらしいけど。今回はリュシオンの立場もあるから、わたしはクラン・クレイターヴで盛大に祝いたいのだよね」
アンリは、状況がつかめず、口をぱくぱくと開けたり閉めたりするしかできなかった。
「サレイが気付いて、兄上が気付かないなんてことはないんだ。だめだ、油断してた」
リュシオンは面白がって笑い転げる兄をにらみつけた。
アンリは琥珀色の目を丸く見開いたまま、まだ呆然としていた。
「わたしが、結婚ですか、誰と?」
「俺とだ! ほかに誰がいる!」
リュシオンはアンリの肩を抱き寄せると、アンリに抵抗させる隙を与えず、そのまま口づけた。
「あーあ。わたしとでもかまわなかったのに」
ジョルジュがまたひと騒動起こしそうな発言をして、サラン候に睨まれている。
アンリはリュシオンの顔を見上げた。リュシオンは照れ隠しなのか、少し仏頂面になっている。
「リュシオン卿」
アンリの呼びかけにも仏頂面のまま答えを返した。
「リュシオン、いやリュシィでいい」
「リュシィ」
「なんだ?」
「わたしの盟約者になってくれますか」
「もう、なってるだろう。サランの城で言ったこと、覚えてないのか?」
「覚えていないわけではありません…」
照れて答えをはぐらかすリュシオンに、アンリの顔が曇る。
リュシオンはアンリに向き直ると、その琥珀色の目を見つめて答えた。
「セルシーヴのアンリ。おまえがそう望むのなら、俺はおまえの盟約者となり、おまえを護ろう」
その言葉は、セルシーヴのエゼルが初代アンリから受け取った言葉に少し似ていた。
自分を護ってくれるという言葉が嬉しくて、胸に響いた。
セルシーヴの記憶と継ぐものとして、やらなくてはならないことは幾らでもある。それでもリュシオンとともに生きていたい。
そう心から思えたとき、今度はアンリのほうからリュシオンにそっと口づけた。
アンリ千紀 源宵乃 @piros
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