第14話 千年のアンリ

「カフラム街道で開戦です!」

 その情報をジョルジュはクレイターヴ城の屋根裏で聞いた。

(おや、戦場はログラム街道じゃなかったのか)

 不審に思いながら、後を聴いていると、どうやら援軍の準備をしておくようにとの伝令だったようだ。

 カフラム街道はログラム街道よりひとつ北側の道で、こちらもクラン・クレイターヴと帝都ローザブルグを結ぶ主要な街道のひとつだ。ほぼ直線でローザブルグを結ぶログラム街道に対して、こちらは、北に弧を描くような道筋で遠回りになる。近頃はノルドの山賊が隊商を襲う被害が多いため、街道沿いの街々で商売するもの以外はほとんど通らず、すっかりさびれている。

 確かに、戦場に選ぶには良いのかもしれないが、どうにも釈然としなかった。

 占拠したクレイターヴ城を任されたのは、メレンゲル候という初老の騎士候だった。何事にも慎重派という、駐屯軍などの仕事にはうってつけの人物だった。

「援軍というが、皇女殿下はどの程度の兵をお考えなのだ」

「当座は二千というお話でした。軽騎兵でも駿馬のものを選べと。ただし、全軍を呼び寄せることもあるため、準備は怠るなと」

「全軍? それはおかしい。殿下はクレイターヴ城を死守せよとの命を遺して出陣された。せっかく落とした城を明け渡すなど…」

 メレンゲル候が不審に思うのも無理はない。ジョルジュにはこの伝令兵がローザニア軍から放たれた正規のものではないと見破っていた。

(アンリだね。これは)

「ですから、二千とのお話です。当初、クレイターヴ城にお残しになるのは三千だったはずですから、妥当なご判断なのでは?」

「うむ…」

 そう言いながらも、釈然としない様子で伝令兵の言葉を聞いている。ややあって、数人の部下を呼び寄せ、二千の兵の準備を命じると、伝令兵を下がらせた。


 城を落ち延びた痕の寝床にしている宿屋に戻る道すがら、またけたたましく、早馬の蹄の音を鳴らしながら、伝令兵が走っていくのが見えた。

 ジョルジュは伝令兵の話を聞かなくても内容がわかった。苦戦しているから二千を三千に、三千を四千にというのだろう。

 いきなり全軍を出せというよりは、賢いやり方だが、メレンゲル候は用心深い男だから、すぐには出陣しないだろう。誰かが後押しをする必要がある。

 ジョルジュは宿に戻ると、街の衆にありったけの荷車を用意するように頼んだ。

 そして荷を山積みした荷車をできるだけ目立つように、クラン・クレイターヴの街中を練り歩くようにして城の裏口へ回った。

「おう、そのほうは宿屋の倅か、いつもご苦労だな。それにしてもどうしたその荷物は?」

「あれ、お聞きになっていないのですか? クラン・クレイターヴ中の物資をかき集めて城にもってこいとのお話だったのですが」

「誰がそんなことを言った」

「誰がって、リヒテンベルグ候ですよ」

「リヒテンベルグ候? リヒテンベルグ候は出陣なさっている。嘘を申すな」

「あなたは見なかったのですか? カフラム街道から早馬が来ていたでしょう」

 ジョルジュの言葉に門衛はぐっと詰まった。

「うちにも来たんです。リヒテンベルグ候には懇意にしていただいてますからね。あるだけの食料をすぐに納めろとのことでしたよ。それにしてものんびりしていますね。早馬に乗っていた伝令のお方の話では、すぐにでも出陣するから、どんなことがあっても間に合わせろとのことでしたよ」

 手元にあるリヒテンベルグ候直筆の鑑札をひらひらさせると、数人集まって話をし始めた。そのうちの一人が慌てて奥へ駆け込む。

「わかった。荷物を中に入れろ」

「かしこまりました」

 ジョルジュはにこっと笑うと、いつも通り荷を食料庫の前まで運んだ。世間話のふりをして、カフラム街道での戦の話を広めた。これに勘付いたクレイターヴの使用人たちは、大いに尾ひれをつけて噂を広めてまわった。

「カフラム街道で戦がはじまったらしい。なんでもクレイターヴ軍が優勢だと」

 ひとつの口より、十の口、千の口。あっという間に話が広まる。

 その間にも、カフラム街道からだという早馬が矢継早に到着する。なかなか手の込んだやり方だが、これこそが『アンリ』だとジョルジュは思った。

 ジョルジュもこれに負けじと一計を案じることにした。ひそかに街の外に伝令を飛ばすのと同時に、街の衆を集めて話をした。

 次の日、王都クラン・クレイターヴはひっそりと静まりかえっていた。

 夜明けと同時に、メレンゲル候はすべての兵を率いて、カフラム街道へ出陣していった。

 その姿を見送った後、クラン・クレイターヴの街からは男たちの姿が消えていた。


 百二十カルネ。

 アンリ・シリンドゥルが遺してくれた紙片には、走り書きのような文字で、そう書かれていた。あの時代からこちらに持ち帰ることはできなかったが、その紙片に書かれていた文字は脳裏に焼き付いていた。

 カルネとは重さの単位で、一カルネは人が一日に飲む水の重さを表す。十カルネで水汲み桶一杯ぶんだ。百二十カルネというと、水汲み桶で十二杯。相当な重さである。馬で運んででも一苦労しそうだと思ったとき、アンリ・シリンドゥルが言わんとしていたことがわかった。

 百二十カルネは、重装騎兵の重量だ。屈強な男たちが甲冑をつけ鋼の剣と盾をもつ。ローザニアの重装騎兵は馬にも甲冑をつけさせるから、相当な重さになるはずだ。百二十カルネでも軽いくらいに思える。おそらくあの甲冑は見た目よりも軽く動きやすいしつらえになっているのだろう。

 いくら頑健な馬を選んだとしても、それだけの重さを載せて走り続けることは難しいはずだ。

 そう考えると、朝から皇女の本陣は一歩も動かず、騎乗もせずに様子見に徹していた。最期の撤退戦でも、深追いは避けこちらの退却に合わせるように兵を退いていた。重装騎兵の破壊力は凄まじいが、長い間、戦い続けることはできない。機を見て戦場に投入するその采配がすべてということだ。

 重装騎兵はローザニアにとって切り札ではあるが、弱点もある。それがわかっただけでも大きな収穫といえた。


「また、しくじったというのか」

 軍議の席で皇女ロゼ・ヒルデガルドの叱責の声が鋭く響いた。クレイターヴ軍に忍ばせあった刺客は、リュシオン自身の手で斬り捨てられていた。

 ロゼ・ヒルデガルドは、合理的な考えをもっていて、戦場で正面をきって戦うことだけが戦とは考えていなかった。できるだけ自分の将兵を傷つけずに勝つかを常に考えていた。

 クレイターヴ王ジョルジュの行方が知れぬ今、王弟リュシオンさえ討ち取ってしまえば、この戦は終わる。

 クレイターヴ領をローザニア帝国の直轄地として召し上げ、その一部をこの戦いの功労者に分け与える。そしてこれまでクレイターヴに付き従ってきた騎士候たちには、多額の賠償金を課したうえで、ローザニア帝国に恭順するのであれば、許しを与える。

 しかし、なにもかも、ジョルジュとリュシオンの二人を片付けないことには始まらないのだ。

 クラン・クレイターヴとその周辺には、ジョルジュのための捜索隊を配し、草の根を分けて出でも探し出す気概で臨んでいたが、いまだ姿は見えないままだった。

「リヒテンベルグ候!」

 一番側近くに控えていた、リヒテンベルグ候が立ち上がって一歩進み出た。

「重装騎兵を預ける」

「は。しかしながら、殿下はどうなさるおつもりですか?」

「クレイターヴは必ず、重装騎兵を狙ってくる」

「それは、重装騎兵を狙っているのではなく、殿下を狙っているのです」

「わかっているさ。だからこそ、わたしは別行動を取る。今から軍の再編成に取り掛かる。よいな」


 夜明けまでの時間が勝負だった。それはクレイターヴもローザニアも与えられた時間は同じだった。

 クレイターヴ軍が本陣をおいていた東の丘にはローザニアの旗が翻っていた。

 ローザニアの遊撃隊と衝突した後、地の利を捨ててサラン候の援軍に回ったからだ。その判断は間違っていない。あのまま本陣にとどまっていれば、サラン候の軍はローザニアの重装騎兵に踏み潰されていたに違いない。

 退却後、サラン候は傷の手当をしているアンリの天幕へやってきた。軍の再編についての話し合いのためだ。

「舐めていたつもりはないのですがね」

 サラン候らしくない物言いで話を切り出した。ローザニアの重装騎兵に遅れをとったのが、口惜しかったのだろうが、逆の見方をすれば、重装騎兵相手にあそこまで持ち堪えたことがサラン候の実力とも言える。

「まだ、負けてはいませんよ」

「重装騎兵相手に、勝てる見込みがあるとでも?」

「ないわけではありません」

「あなたは、『アンリ』だというわけですか。はっきり言って驚きました。初陣のあなたがここまで兵を率いることができるというのが。いくら父君や兄君に薫陶を受けていたとしても実戦とは違う」

 アンリは自分の力だけで戦っているわけではなかった。それは、兄の、歴代のアンリの記憶の力だ。その中には、もちろん、軍師シリンドゥルの記憶もある。すべての細かな記憶があるわけではないが、このような場合にどうすればよいのか自然にその判断ができてしまう。実戦の経験という意味では、この戦場で息をしている誰よりも豊富ということになる。

 アンリはリュシオンの許可を得て、作戦を立案しその概要をサラン候と配下の将に伝えた。その詳細を聴いて、サラン候だけでなくリュシオンですら呆れ半分で溜息をついた。

「ここまでくれば、『アンリ』としてのお前の力を信じるしかないか」

 リュシオンはそう言って、アンリの策を受け入れてくれたのだ。

 やらねばならぬことは山積みだったが、兵も将自身も体を休めねばならない。そんな中アンリはできる限りのことをやり通してから眠りについた。

 浅かったとはいえ斬られた傷がもとで少し発熱していた。薬が用意されていたが、それには口をつけなかった。強い痛み止めは、頭がぼんやりすることが多い。残兵をまとめて、戦える軍隊に再編成する作業をするためには、薬を飲むよりも、痛みに耐えていたほうが、まだ頭が冴えるからだ。

 いつ、眠りに落ちたのかはわからない。気が付くと天幕の中で毛布にくるまれていた。おそらくリュシオンがここまで運んでくれたのだろう。

 朝のひんやりとした空気が頬をかすめ、うっすらと目を開けると、耳元で声がした。

「まだ、夜は明けきってない。起こしてやるからもう少し寝ていろ」

 返事をするかわりに、毛布を引き上げると、軽く頭を叩かれた。

 きっと激しい戦いになる。それがわかっていたから、少しでも休ませくれようとしている。その心つかいが嬉しかった。


 リフランの野に立って、アンリは丘を見上げた。旗の元に銀色の姿が見える。あれが重装騎兵だ。

 クレイターヴ軍も兵を整え、迎えうつ準備をしていた。双方の陣は昨日の裏返しのように逆転していた。丘に本陣を構えたローザニア軍のほうが有利と言える。

 高い位置に陣を構えた敵がどう出るか、アンリにはそれがわかっていた。

「来る!」

 アンリの声には自分の予測があったことによる安堵の響きが籠っていた。

 ローザニア軍の軽騎兵たちが土埃を巻き上げながら丘を下りてくる。斜面を駆け下りる勢いを借りて、突進してきたのだ。

 クレイターヴ軍はそれを迎え撃つように全軍が一団となってぶつかった。ぶつかったように見えた。しかしその一団は薄い布を切り裂くようにいとも簡単にふたつに割れた。

 最初から、ぎりぎりまでぶつかると見せかけて、直前にクレイターヴ軍のほうから左右に分かれたのである。

 丘の上から駆け下りた勢いで、背後から押し寄せる自軍の兵のこともあり、相手が避けたからと言って、立ち止まるわけにはいかない。いったん駆け抜けるしかないのだ。

 クレイターヴ軍は、二つに分かれてローザニアの軽騎兵をやり過ごすと丘の上へ突進した。

 虚を突かれたのは丘の上で様子見に徹していた、本隊の重装騎兵だ。まずは軽騎兵とクレイターヴ軍がぶつかると思っていたにもかかわらず、いきなり本陣へ切り込まれた。

 しかし、切り込んだクレイターヴ軍にも余裕がなかった。やり過ごしたはずの軽騎兵はすでに方向転換して背後に迫ってくるはずだ。うかうかしていると、挟撃されるのは目に見えている。

 このときのクレイターヴ軍の動きは整然とした動きで一糸乱れぬものだった。一騎の重装騎兵に対して、同時に五人の騎士が対する。五人が一撃づつ相対したら、どんな状況であっても離脱する。クレイターヴの騎士たちは、一対一の戦いにこだわったが、

「負けたら、騎士の誇りも何もあったもんじゃない」

 というリュシオンの言葉で説得に応じてくれた。当のリュシオン自身もこの五対一の戦い方をしているが、他の騎士と違うことは、重装騎兵と互角に渡り合い、つぎつぎと首級を挙げていることだった。正確に兜や鎧の継ぎ目を狙い、銀色の鎧を紅色に染め上げている。アンリを含めて残りの四人に剣を振るう暇も与えなかった。

 重装騎兵との戦いは決して長いものではなかった。一撃離脱をこの作戦の肝だと考えていたアンリの言葉をたがえることなく、クレイターヴ軍は丘を北側に下りた。背をさらし無防備な状態で小さな丘が波打つような場所へ駆け下りたのである。


「追うな!」

 ローザニア軍ではリヒテンベルグ候の声が響いていた。クレイターヴ軍の襲撃は、確かに重装騎兵の虚をついた。大した被害もなくやり過ごしたはずだった。しかし、やはり命令系統は混乱していたのだ。

 軍を預かっていたリヒテンベルグ候がそのことに気が付いたのは、自分の命令を無視して、クレイターヴ軍を負った数百騎だった。確かに小隊長レベルであれば、背を向けて遁走する敵軍を見れば、勝機とみて追撃するだろう。しかし彼らにはその先にあるものが見えていなかった。

 追ってきた重装騎兵の姿ににやりと笑みを浮かべたのは、リュシオンだった。

「本当に追ってきたな」

「さすがに、親衛隊は動きませんね。こちらの考えを読まれましたか」

「全軍は無理だろうさ。だから一部でもこうやって削るんだろう」

「そうですね」

 丘を下った頃に、追撃してきた重装騎兵は気が付いた。足元にごつごつとした岩場が広がり、どうしても騎馬の重心がとりにくい。馬たちは必至にバランスを取ろうとしているが、自分の背には百二十カルネもの荷物がどっしりと載っている。一歩踏み出すたびに、よろけまいと踏ん張っているのがわかる。

 こうなると、重装がたただの重荷になっていた。

 丘を下りてきた重装騎兵たちは、クレイターヴ軍の格好の餌食となった。助け出そうにも丘の上に残った重装騎兵がこの岩場に降りれば同じ憂き目にあうとわかっているため、援軍もままならない。

 徹底して、馬の脚を狙うようにと、事前にアンリから全軍へ伝えてあった。これだけの重さを支えているのだ。脚に怪我を負うと一歩も進めなくなる。

 一騎また一騎とクレイターヴ軍の手にかかり、重装騎兵が倒れていく。丘の上から援軍はこない。

「リュシオン卿! 兵を退きます!」

「何だと?」

「左側面! 土煙が上がっています」

 すぐに伝令兵を飛ばしたが、重装騎兵との戦いに無我夢中になっていたクレイターヴ軍を戦いの場から引きはがすのに、手間取った。

 相手はその隙を見逃してはくれなかった。援軍は迂回してクレイターヴ軍の横っ腹に激突した。それは初手でクレイターヴ軍に肩すかしを食らわされた軽騎兵だった。

 丘が死角となってこちらの情勢が見えなかったはずだ。反転して丘を登ってくると思われたその兵たちは、反転はせずそのまま直進したのだ。ぐるっと半円を描くように丘を迂回し、こちらが重装騎兵の殲滅に専念しているのを見計らって、側面をついたのだ。

 クレイターヴ軍は混戦を恐れて兵を退いた。しかし、このローザニアの軽騎兵の動きは、昨日の動きとは雲泥の差だった。攻めるも退くも自在の動きを見せる。細かな小隊の動きまで、統制がとれている。

 このままでは数の勝負で押し切られる。元々、兵力ではクレイターヴ軍が劣っているのだ。

 アンリが唇をかんで、必死に次の策を巡らせているとき、動きがあったのは、サラン候だった。

「あの軍を指揮しているのは、おそらく皇女ロゼ・ヒルデガルド」

「皇女は本陣じゃないのか? どうしてこんなところにいる」

 左右に敵を斬り捨てながらリュシオンが問いかけると、サラン候は、自身も正面の敵を斬り捨てながら答えた。

「勘でしょうかね。わたしは前にも皇女の軍と戦ったことがあります。まるで兵法書を読んでいるように、理路整然と兵が動く。こんな風に用兵できる将は、皇女を除いていないでしょう」

 それは皇女の用兵の力だけではない。ローザニア騎士にどれだけ信頼されているかの証でもあるのだろう。この人について戦うという強い意思が、ローザニア軍を強くしている。

「それでも負けるわけにはいきません」

 アンリが力をこめてそういうと、サラン候はふっと笑ってこちらを見た。

「サラン候、兵をまとめて紡錘陣を!」

「中央突破するつもりか」

 こくりとアンリがうなづいた。サラン候はそうではないことに気が付いているはずだ。それでも、混戦のなかから少しづつ兵を退き、素早く紡錘陣に兵をまとめると、今度は一息に、ローザニア軍の中央へ突っ込んだ。

 リュシオンとアンリは、もっとも兵の膨らんだ中央部で馬を並べて走っていた。ローザニア軍の中央あたりまで切り込んできたとき、兜に青と金の房飾りをつけた一騎が目に入った。

「リュシオン卿、いままでありがとうございました」

 アンリは、馬首を左に切ると、ただ一騎、群を離れた。

 皇女ロゼ・ヒルデガルド。彼女を討ち取れば、この戦いは終わる。アンリ・アルベールにしごかれただけあって、左右の敵を蹴散らしながら前へ進む。剣の血を払い、皇女に斬りかかった。皇女は濃紺の瞳を大きく見開いていた。


「なあ、ロゼ・マリア」

「なんだ、急にあらたまって」

 アンリ・アルベールの瞳から見た、ロゼ・マリアの瞳はまるで濃紺の夜空に星が瞬いているように見えた。

「おまえに黙っていたことがあってな」

「わたしも黙っていたことがあるからお互いさまだ」

「なんだ、それ」

「おまえから、言え」

 アンリ・アルベールは、腹を決めたように自分がセルシーヴのアンリであること。もし、自分の間に子が生まれれば、その子が『アンリ』の宿命を背負うことを包み隠さずに話した。その上でのことだと、断りをいれたうえで、ロゼ・マリアに告げた。

「盟約者になって欲しい」

「この国を放り出してか」

「そうだよな。ローザニアはまだ建国したばかりだ。お前が国を離れるわけにはいかない。わかってるんだ。忘れてくれ」

「一年だ。一年だけ付き合ってやる」

「は?」

「わたしも黙っていたことがあるといっただろう」

「ああ」

「子ができた。春には生まれる。それまでの間だけなら盟約者でいてやる」

 アンリ・アルベールは顎が外れるくらい大きな口をあげて、ロゼ・マリアを見つめた。

「たぶん、双子だ。心臓の音がふたつ聞こえる」

 そう言って、アンリ・アルベールのしゃがませると、自分の腹に耳をつけさせた。まだ腹の膨らみも目立たない頃だ。赤子の心臓の音が聞こえるわけがない。それでも、身ごもった母親にはそれがわかるのかもしれなかった。

「セルシーヴの静寂の塔でなければ、『アンリ』は産めないのだろう」

「ああ」

 まだ、自分の子供ができたことに驚きが隠せない、アンリ・アルベールはしどろもどろになりながら、そう答えた。

「すまない」

 喉から絞り出すような声でロゼ・マリアの口からその言葉が漏れると、一瞬おくれて濃紺の瞳から一粒涙がこぼれた。

「ローザニアはおまえと一緒につくった国なのに。わたしはおまえと一緒に生きられない」

「おまえがこの国を大事にしているのは知っていたさ。どっちかと言えばおれの事情だろ。一緒にいられないのは」

 また一筋涙が流れる。

「泣くなって、俺はすっげえ幸せなんだぜ」

 そう言って、ロゼ・マリアを抱きしめた。


 それは、一瞬とも思えない時間だったはずだ。ロゼ・ヒルデガルドの剣がアンリを捉え振り下ろされた。

 しかしその剣は、脇から割って入ったもう一本の剣に跳ね返された。

「馬鹿野郎! 前に出るなと言ったが、勝手に敵に突っ込んでいくなんざ、言語道断だ!」

 リュシオンは皇女の剣を弾き飛ばすと、アンリを背にかばいながら次々と剣を繰り出す。皇女の剣も並の腕ではない。リュシオンの重い剣に苦戦はしているものの、退く気配はない。ロゼ・ヒルデガルドも相手が王弟リュシオンだとわかっているのだ。

 アンリの目に、ロゼ・ヒルデガルドの姿がロゼ・マリアの姿と重なる。あれは、建国の女王ロゼ・マリア。建国当初はまだ数人の騎士候がまとまっただけの小さな王国だったはずだ。きっと双子のひとりが『アンリ』を継ぎ、ひとりがローザニアを継いだのだ。

 それからたくさんの『アンリ』が生まれた。ローザニアでもロゼ・マリアの子孫たちが、綿々と国の礎を積み上げてきたはずだ。

 アンリには、皇女ロゼ・ヒルデガルドを討つことはできない。たとえそれが戦いを終わらすためのたった一つの手段であってもだ。

 そして、リュシオンもまた失うことはできない。

 まだ、自分は彼を失えない。次代の『アンリ』のために。

 そう思ったときアンリは自分の体に震えが走ったのがわかった。

 リュシオンとロゼ・ヒルデガルドの剣戟は、激しさを増している。一瞬、リュシオンの馬が足元の小石を踏み、わずかにバランスを崩した。

 その隙を見逃す皇女ではなかった。渾身の突きをリュシオンに繰り出した。

 アンリは自然に自分の体が動くのを止められなかった。いくらリュシオンに言われたからと言って、自分の意識でどうこうできるものではなかった。

 アンリはリュシオンの前に割って入ると、自分の剣を横にして下から救い上げるように突きをそらした。そして剣を斜めにし、刃にかかる力を逃していく。

 初めてアンリ・アルベールに教えてもらった、あのやり方だった。

 剣先まで相手の刃を滑らせると、今度は一気に相手の懐まで突き返し、大きな円を描くように相手の腕をひねって剣をはじきあげた。

 アンリは、ロゼ・ヒルデガルドの首筋に剣をあてて言った。

「軍を退いてもらえませんか」

「断る」

「いま、あなたの命はわたしの剣にかかっています」

「まだ、ローザニア軍は負けていない」

「しかし、あなたを失えば、遠征しているローザニア軍だけではなく、帝国そのものが危ういのではないですか」

「わたしは、クレイターヴを取り戻さねばならないのだ」

「ローザニアは元々小さな王国だったはずです。いえ、騎士領のひとつだった。どうしてそんなにも多くの領地が必要なのですか?」

「帝国の安定のために。クレイターヴには富がある。ローザニアから奪い取った富が」

「奪い取ったのではありません。つくりあげたのです。クレイターヴの民と王が力を合わせて作っていったのです。建国とはそういうものです」

 そう、ロゼ・マリアとアンリ・アルベールが小さなローザニア国を作り上げたように、クレイターヴも、ジョルジュ王とリュシオン、そして兄やサラン候を初めとした多くの騎士と民が力を合わせてここまでにしてきたのだ。

「帝国は疲弊している。力を取り戻すためには、クレイターヴの富が必要なのだ」

 まわりを取り囲んでいるローザニア軍もクレイターヴ軍も一歩も身動きが取れない状態だった。

 この頃には重装騎兵も南斜面から丘を下り、迂回して合流してきていたが、皇女に刃が付きつけられていた状態では、何もできない。

「わたしが、一声命じれば、そなたたちは重装騎兵の餌食だぞ」

「そうでしょうか。わたしが一声あげれば、ローザニア全軍が火の海にのまれますよ」

 その言葉にはっとした。クレイターヴ軍は知らぬ間に、北側の斜面の一団高い岩場に集まっている。それに対して、ローザニア軍は軽騎兵も重装騎兵も南側から攻め込んできた。

 そして、いま頬をなぶる風は北から吹いている。

「この季節、リフランには北風が吹きます。」

 ログラム街道を使うクレイターヴのものならば皆知っていることだ。秋口に吹くこの風にはみな悩まされたことがあるからだ。

 そして、足元には枯れた草地が広がっている。蹄で踏んだときさくりと音がするほど、乾ききっている。

 岩場にいるクレイターヴ軍の手元には火矢がつがえられていた。これを見たローザニア軍から思わず息をのむ声があがる。この状態で火矢が放たれれば、一気に燃え広がることは間違いない。

 そのとき、ログラム街道の西側から土煙があがるのがみえた。

「クラン・クレイターヴにはまだ五千の兵がいる」

 皇女がきっと頭をあげそういうと、アンリは軽く頭を左右にふった。

「そうでしょうか。よくご覧になってください」

 ログラム街道を行軍してくる旗印をみて、ロゼ・ヒルデガルドが目を見開いた。それは剣に蔓薔薇のローザニアの紋章ではなく。金獅子の紋、クレイターヴの旗印だったからだ。

 その数、およそ八千。兵を率いているのはジョルジュ王その人だ。ジョルジョ王とともに落ち延びた騎士候たちの兵を再編しての軍である。

 戦いに疲れ果てたローザニア軍が対抗できる兵力ではなかった。


 そして、ローザニア軍は兵を退いた。

 

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