第13話 久しぶりの、登校。

 いきなり教室に行くのは気まずかった。


 理由の一つに……というか、理由はそれしかないのだが……あいつが教室にいることがあった。


 あいつ。三好拓也。私が眼鏡を粉々にした男子だ。


 どんな顔をしてあいつと同じ空間にいればいいのか分からなかった。あいつにまた声を掛けられたらどうしようと思った。多分、まともじゃいられない。だから、教室には行かなかった。


 廊下で立ち尽くす。もちろん、人気のないところ。登校中の生徒たちの声でがやがやと騒がしい。やがて、それも静かになる頃。始業のチャイムが鳴る。


 私はどうしていいか分からなかった。こんな時、さく姉なら、と考える。


 さく姉は能天気だから、多分三好拓也みたいな男子に告白されてもぽけーっと教室に入っていくに違いない。そして何事もなかったかのように本を読むのだ。多分、やきもきするのは三好拓也の方。何もなかったことにされるのだから。


 じゃあすみ姉は。


 すみ姉はたくましい。多分、三好拓也を最大限利用する方法を考えるだろう。苦手な教科を教えてもらうとか。掃除当番代わってもらうとか。そういうことをしないにしても、「あんた私にコクったからね」と三好拓也をいじって遊ぶだろう。


 私にはどちらも無理だった。三好拓也を無視して生活することも、三好拓也をいいように使うことも、どちらも無理だった。再び、考える。


 いずみんなら。


 担任の白川いずみ先生ならどうするだろう。

 いずみんはかわいい。もうとっくに中年だが、かわいい。多分男子からも人気がある。いつもにこにこしているし、人に優しいし、言うことない。もし、いずみん先生が男子に告白されたら。


「すっごく嬉しい」


 そう言うのだろう。私みたいに殴ったり踏んだり蹴ったりしない。きっと男子の気持ちを、いったん受け止める。


 はぁ。


 ため息が出る。私って駄目だなぁ。そう思った時だった。


「それから、次は保健室とか、私に会いたかったら職員室でもいい。図書館や中庭でもいい。教室にいづらいなら教室以外の場所に来てください。先生はそこまで、あなたを迎えに行きます」


 いずみん先生の言葉だった。先生は、私を迎えに来ると言った。先生が、会いに来てくれたら。

 私はスクールバッグを抱えなおした。


 保健室だな。保健室に、行こう。

 誰もいない廊下を歩いた。ジェームズみたいに、足音を忍ばせて。



「熱はないみたいね。倦怠感とかはないかな」

 保健室の先生、前澤先生は私の様子を見ながらつぶやいた。私は素直に頷く。

「ただちょっと、教室に行きづらくて」

 すると先生は笑った。

「じゃあ、ここでゆっくりしていきなさい。ベッド空いてるよ」

「ありがとうございます」


 ベッドに座る。退屈。私はスクールバッグを開く。

『想い出大事箱』学校にも持ってきていた。それから、『娘から見た父親の魅力』も。悪魔のじいさんからもらった論文だ。


 読もう、と思ったところで保健室のドアが開く。誰か来たな、と思っていると、前澤先生が応じた。

「白川先生」


 どうやらいずみんのようだ。前澤先生が連絡してくれたのかな。私は立ち上がってカーテンから顔を覗かせる。


「先生」声を掛ける。いずみん先生はほっとしたような顔になった。

「来てくれたんだね」

「何とか」

「ベッド、隣、いいかな」


 私は頷いた。カーテンを開ける。

「どうぞ」

 先生と一緒に、ベッドに座った。普段は対面している人と隣り合って座るのは、何だか不思議な気持ちになった……この間、公園で並んで座った関係だというのに。


「話したくなかったら、話さなくていいけどね」

 いずみ先生はのんびりした調子で話し始めた。


「もしよかったら、聞かせて」

 先生は真っ直ぐにこちらを見てきた。

「学校に来づらい理由があるのかな」


 私は押し黙る。いずみ先生は待っていてくれる。

「あのね、先生」

 何とかそれだけを口にする。しかし用心深い私が、こんな言葉を吐かせる。

「誰にも言わないって約束してくれますか」

 いずみ先生はハッキリ頷く。

「誰にも、言わないよ」

「じゃあ」と、深呼吸する。


「人生で初めて、男子に告白されて」

 いずみ先生がぽかんとした顔をする。そんな顔に、私は一生懸命伝える。

「好きだ、愛してるって言われたんです。でも私、その人に、思いっきり暴力振るっちゃった」

「暴力って」

 いずみ先生は穏やかに訊いてくる。

「殴ったり、踏んだり、蹴ったり、物壊したり」


 いずみ先生は笑った。

「それはよくないね」

「でも、そいつ『君には何されてもいい』って」

 あら。いずみ先生は口に手を当てる。

「情熱的だね」


 情熱的、か。確かにそう言うことはできるのかもしれない。


「で、どうなの。あなたはその男子のことどう思っているの」

 そこが大事だよ。いずみ先生は優しい調子だった。


「分からない」それが私の率直な答えだった。

「分からない。私、自分のことも嫌いだから……」


 誰かに愛してるって言われても、現実感がない。


 そう告げると、いずみ先生は再び笑った。

「じゃあ、その男子次第だな」

 私はいずみ先生の方を見た。


「その男子が、あなたに自分のことを好きになるきっかけを与えてくれる人だったら、大事にしなさい。付き合えとは言いません。男女の形は色々あります。友達でもいい。ただ、このくらいの年頃にできた関係は、もしかしたら一生続きます。大事にしなさい。友達でも、恋人でも、一生の宝物です」


「はい……」思わず頷いていた。人の忠言にこんなに素直に従ったのは初めてかもしれない。


「今日は学校に来てくれてありがとう。しんどくないかな。無理はしないでね」

 いずみ先生は立ち上がった。

「明日も、来てくれたら、先生は嬉しいけど、無理はしないでね。自分のペースで、自分らしい生活を取り戻して」

「はい」私は俯く。先生に心配をかけている私は、駄目な生徒だ。そう思う。


「自分のこと、駄目だとか思わないでね」

 いずみ先生の声が頭上からした。思わず先生の方を見る。

「どうして私の考えていることが分かったの」

 そう訊くと、先生は笑った。

「これでも一応大学時代、心理学をやっていたんだよ」

 人の気持ちには、敏感なんだから。そう、笑う。


「今日はゆっくりしてね。帰る時は気を付けて。前澤先生に伝えておくね」

「はい」私はか細い声で応える。「ありがとうございます」

「じゃあね」

 いずみ先生は手を振って去る。私はその姿を、ぼんやりと見つめていた。


 やっぱり天使みたいな人だなぁ。そう思う。すると、頭の中にあの老人が浮かんだ。じいさん。悪魔のじいさん。


 失ったらまた、得ればいい。


 私は、円は取り返した。さく姉とすみ姉も取り返した。父も……多分、もう少しで……取り返せる。

 後は……。そう思っていた時だった。


「ちょっと見回りに行ってくるね」

 前澤先生だった。カーテン越し。私は応える。

「はい」

「しんどくなったら寝るんだよ。一時間くらいで帰ってくる」

「はい」

「帰りたかったら、こっそり帰っていいからね」

「はい」


 すごく気を回してもらっている。そのことがありがたかったし、申し訳なかった。


 後、取り返すべきは。


 色々考えた。いや、考えてなかったかもしれない。胸の中から浮かんでは消えていく感情に身を任せていた。

 

 どれくらい、時間が経っただろう。


 ふう、と一息ついた。何だか疲れた。横になろうか。そう思っていた時だった。


「ええー、マジそれぇ」

 女子の声がした。保健室のドアが開けられる。私は身構えた。


 誰か、来た。

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