第12話 父と、娘。
「さく姉、すみ姉」
昼。
たまたま二人がいた。さく姉は料理の仕込みを……鶏むね肉をカットするという作業を……やっていた。すみ姉は音楽を聴いていた。二人はちらりとこちらを見る。
「どうしたの」まずさく姉。料理の手を止めて、手を洗い、エプロン姿のままこっちに寄ってくる。
「ん」興味なさそうなすみ姉。でも一応、こっちを見てくれてはいる。
「話がある」
私がハッキリそう告げると、さく姉は穏やかな表情でテーブルに着き、すみ姉もかったるそうだが速やかにテーブルに着いてくれた。私は、二人の正面に座る。
「言いたいことは簡単なんだ」
私の言葉を、二人は待つ。
「この間は大っ嫌いって言ってごめん」
するとすぐにすみ姉が口を開いた。
「何だ、そんなことか」
「こらこら」さく姉がすみ姉を嗜める。
「一生懸命気持ちを告白してくれたんだよ。ちゃんと聞いてあげようよ」
「聞いてるよ」すみ姉。ちょっとむっとしながら彼女は続ける。
「そんなこと言われなくても、私はあんたのこと大好きだよって意味」
基本的に遠回しな嫌味しか言わないすみ姉は、時々真っ直ぐな言葉を吐く。そのギャップが、時に姉妹を、父を、困惑させる。戦略だとしたらすごい。
「ありがと」私は俯く。するとすぐにさく姉が続いた。
「私も、あなたのことが大好きだからね」
さく姉の言葉は温かい。ほっとするし、包まれるような安心感がある。
「まぁさ。かわいい末っ子なんだよ。あんたは」すみ姉。「もっとワガママ言っていいよ。私が聞いてあげる。私が聞けなかったら、多分さく姉が聞いてくれる」
「……さく姉が聞けなかったら」
そう私が訊くと、すみ姉は意地悪そうに笑った。
「お父さんだね」にやにや。そんな感じの笑い方。「ま、絶賛女子高生のあんたにはお父さんを転がすなんてことは無理か」
「お父さんもあなたのこと心配してたよ」さく姉が頬に手を当てる。「お父さん、あなたへの接し方に困ってるみたいだから直接は言わなかったみたいだけど、私に相談があって」
「え」私は言葉に詰まる。一生懸命、口を動かす。「何て聞かれたの」
「あの子は学校行ってないのか。体調が悪いのか、って」
俯く。父に心配をかけた。申し訳なさと、嬉しさと、形容し難い苦い感情が、ない交ぜになった。
「あ、後ね」さく姉が思い出したように手を打つ。
「よく意味は分からないけど、『借りた本があるなら返しておけ』って伝えろって言われたよ」
「え」私は驚く。「どうして……」
「あんたどこかから本借りてたの」
珍しい。すみ姉がつぶやく。
「あんた本なんて読んだっけ」
「最近、読むの」
私はつぶやく。それから一生懸命、頭を働かせる。母の部屋から『想い出大事箱』と『刺青殺人事件』を持っていったこと、どこでバレたのだろう。
……まぁ、単純に母の部屋に行って気づいたのか。本棚から本がなくなれば分かるよな。そう、納得する。
ただ、そんな納得だけでは済まされない気持ちが私の中で芽生えていた。
お父さん、私のこと見てくれている。私のことを気にかけて、心配してくれている。
不思議な感情が芽生えた。今まで抱いたことのない感情だ。嬉しいような、嫌なような。温かみを感じる一方で、もう子供じゃない、という反発も混ざった、変な気持ち。それに加えて、申し訳なさもゆっくりと浸透していった。
父はこのところずっと不健康だ。総白髪になっていることからも分かる。たまった疲労を処理しきれていない。心なしか、背筋も曲がっている気がする。いつ見ても悲しそうな顔をしている。元気がないのだろうか。私は元気がない人に余計な心配をかけていたのだろうか。そんな気持ちが、胸を支配する。
「私」
と、口にしてから言葉に詰まった。でも何とか、続きを話す。
「お父さんと話してみる」
「おー」すみ姉。
「いいと思う。お父さん、きっと話を聞いてくれるよ」さく姉。
「……あのさ、純粋に疑問なんだけど」私。
「さく姉とすみ姉はお父さん大嫌いってならなかったの」
「うーん」さく姉。「そりゃ、『もう一緒にお風呂には入りたくないな』って時期はあったよ」
その程度かよ。そんなのどんな女も思うわ。
「まぁ、私もさく姉と一緒かな。お父さんのこと嫌いだった時期あんまりない」すみ姉。
「何で」私が訊くと、さく姉もすみ姉も顔を見合わせた。
「あんたは多分、記憶がないんだろうけど……」と、すみ姉が話した。
「お父さん、お母さんのことすごく大切にしていたんだよね。で、お母さんもお父さんに感謝してたし、愛してた。大好きだった。お母さんが死んだ時ってさ、私が一一歳で、さく姉が一五歳でしょ。ちょうど思春期入る頃か、真っ只中かってくらいなんだよね。そのくらいの年頃って、お母さんに感情移入しやすいからさ」
「そうねぇ」さく姉が首を傾げる。「お父さんにあんなに愛されるお母さんは幸せだろうなぁ、って思ったことはたくさんあるね。私もあんな風に愛されたい、って思う」
「そうなんだ……」
私には分からない。私の記憶の中には、父に愛される母の姿はほとんどない。そのことに私がしょげていると、すみ姉がにやりと笑った。
「ま、あんたもいずれ分かる。お父さんがどれだけお母さんを大切にしていたか」
「……それなんだよ」私はつぶやく。つぶやいてから分かる。私の中の、わだかまり。
思い出したのは、母の部屋で立ち尽くす父だ。「会いたいんだ、忘れられない」そうつぶやいていた父だ。胸の奥が圧縮されたように狭くなる。さく姉とすみ姉が、再び顔を見合わせてからこちらを見てくる。
「……何でもない」私は首を横に振る。「お父さん、何時くらいに帰ってくるの」
「訊いてみるね」さく姉。「でも多分、いつもと同じ七時くらいなんじゃないかな」
「言いにくいことあったら同席してあげるよ」すみ姉。「一時間一〇〇〇円で」
「金とるのかよ」私はすみ姉を睨む。すみ姉はにやっと笑う。
「冗談通じないところもかわいい」
「七時まで、気持ちを落ち着けておいたら」さく姉。
「この頃あなた、ちょっと頭の中がごちゃごちゃしているんでしょ。整理する時間、作ったら」
一理あった。私は立ち上がる。
「うん。そうだね」
それから、少し勇気を出して、こう残した。
「さく姉、すみ姉、ありがとう」
二人はにっこり笑ってくれた。
父が帰ってきたのは、七時過ぎのことだった。
多分、病院に行っていた。父は大脳生理学の権威だ。脳外科手術に同席して脳の機能がどう変化するか見守る役を務めることが多い。そしてそんな日は決まって、消毒薬の匂いを充満させて帰ってくる。この日もそうだった。
階段から、そっと父の様子を見た。疲れた顔。刻まれた皺が深い。ため息をついている。しんどいのだろう。そんな父に、話をするのは少し躊躇われた。父を余計に疲れさせないか。父に余計な負担をかけないか。そんなことばかり気になった。
「お父さん」
それでも、勇気を出して声を掛ける。玄関を通り過ぎた父は廊下で、はたと立ち止まった。鞄もまだ置いてない。
「あの、話が……」と、言いかけたところで父に連絡が入った。父は応える。
「はい……はい……容体が……分かりました。すぐ行きます」
父がこちらを見てくる。
「悪い。急に行かなければいけなくなった」
「えっ」私は言葉に詰まる。「帰ってきたばかりなのに」
「患者の容体が急変した。高次脳機能障害が起きているらしい」
難しい。きっと専門用語だ。父はあたふたと靴を履く。
「さくらに伝えておいてくれ。飯は外で食べてくる、と」
「わ、分かった」胸の中の気持ちが萎んでいく。「気を付けてね」そんな言葉が出てくる。
多分、その発言が意外だったのだろう。父は一瞬、びっくりしたような顔をしてこちらを見てきた。
「行ってくる」
玄関のドアを開ける。去り際、父が口を開いた。
「帰ってきたら、話を聞く。約束する」
真っ直ぐな目をこちらに向けてくる。あ、私の話、聞いてくれていたんだ。そんな嬉しさに、萎みかけていた胸が膨らむ。
「……ううん。大丈夫」私は首を横に振っていた。「帰ってきたら休んで。私も、休む。話は今度しよう」
父は笑った。
「いつでもいいから、話してくれよ」
父は去っていった。その背中がとても大きく、頼りがいがあるように、見えた。
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