第11話 嫉妬と、反省。
『想い出大事箱』を読んだ。
高木彬光の娘、高木晶子の目線から見た高木家が語られている。
高木彬光は相当、というか、変人を極めた人間だったようだ。
今ほど通信が発達していなかった時代。やり取りは基本的に手紙。それも、原稿用紙や便箋も高級品だった時代のようだから、わら半紙に小説を書いたり、手紙を書いたりしていたらしい。
高木彬光は達筆だったのだとか。字ってその人の性格出るよなぁ、と読んでいて思ったり。実際のノートの写真も出てきたりして、すごいなぁ、と思った。私の字は汚い。……皮肉屋のすみ姉曰く、「こういうヒエログリフありそう」。
女の子で字が汚いのはがっかりされる……らしい。何というか、女子は字が綺麗だろバイアスがかかっているようだ。
「バイアス」なんて心理学用語を使ってしまった自分に嫌気がさす。けっ。何だよ。ちょっとくさくさした気持ちになりながら本を読む。ジェームズがやってきて、足元にじゃれつく。
「よしよし」
本を読みながらジェームズを撫でる。何だそれ、俺よりいいのか。そんなことを訊かれているような気分になる。
「膝、乗りたいの」
訊ねる。ジェームズは、ぷい、とそっぽを向く。
何だそれ。興味ねーのかよ。揺れるしっぽを視界の隅に捉えながら私は本に戻る。
「でも、小説家の家族で居続けることも本当に大変なのだ」
そんな一節がある。小説家になれる人間なんて一握りだろう。むしろ、一握りもいればいい方かもしれない。二分の一握りくらいだったりして。その中でさらに「書き続けられる人」が選ばれる。これも二分の一握りくらい。そしてその「選ばれた人」の家族になる。
単純に、一組の男女が出会う確率ってどれくらいなのだろう。そこに子供が生まれる確率はどのくらいだろう。男女の内どちらかが「選ばれた人間」である確率はどんなものだろう。生まれた子供が「選ばれた人間」である確率はどれくらいだろう。
小説家の家族でいることは、きっと難しい。どれだけ難しいのか、は、ちょっと想像はつかないけれど、天文学的な確率だろうし、それを維持するのも難しい。そう、それは、多分……。
学者の家族でいることと同じか、それ以上に難しい。
学者も選ばれた人間だ。自分の好きなことを考え続ける仕事。きっと、多くの人間が篩にかけられる。父は……そしてさく姉も……そんな選別に生き残った人間だ。私はその家族。
もしかしたら私は、知らない内に相当難しいことをこなしていたのかもしれない。
『想い出大事箱』が気取らない文章だからだろうか。私はリラックスして文章を読んでいた。再び著者近影を見る。
やっぱり素敵な女性だ。綺麗。笑顔がとても素敵だ。私もこんな女性になりたい。そう思った。書く文章からもその人のよさが滲んでいるような気がする。ちょっとメランコリックなところはあるかもしれないけど……それが、さく姉の作るミートローフのオレガノみたいな風味を出していて、いい。
高木彬光は引っ越し魔だったらしい。「兵隊の幽霊を見たから」そんな理由で家族総出の引っ越しをしたこともあったらしい……まぁ、これに関しては投資で損をしたので家を売り払ったのではないかと著者の高木晶子さんは言っているけど……。
高木彬光には親しい人間がいたようだ。山田風太郎。通称風さん。何だか江戸っ子みたいで……この「江戸っ子」の概念は本当に適当だけど……かっこいい。
境遇が似ていたから、本名が似ていたから、二人の仲を示すのに色々な例を引っ張ってきているけど、人が人と仲良くするのは多分、フィーリングが大きい。
私だって……。
と、窓を見る。薄いブルーのカーテン。この間これを閉めたのは……と考えて、胸の奥に酸っぱい感情が広がる。
円に嫌いと言った日だ。『想い出大事箱』を閉じる。ため息。
ねう。
背後でジェームズが鳴いた。私は再び、鼻からため息をつく。それからつぶやく。
「そうだ……そうだよね」
ねう。
ジェームズが鳴く。肯定された気分になった。私はすっと立ち上がると、『想い出大事箱』を机に置き、カラーボックスの中に置いてあった懐中電灯を手に取った。それから、窓に近寄るとカーテンを開け、懐中電灯のスイッチを入れた。
灯を振る。応えてくれないだろうか。そんな不安でいっぱいになる。
私が合図を送ったところで、応えてくれないかもしれない。そもそも部屋にいないかもしれない。私の顔なんて見たくないと思っているかもしれない。朝だから、まだ眠っているかもしれない。迷惑かもしれない。大好きな読書の邪魔かもしれない。色々な不安が頭を胸を駆け巡った。しかしその時だった。
「おはよう」
窓が開いた。円だった。パジャマ姿。薄いピンク。かわいい。朝だからだろう。髪は結んでなくて、下ろしている。ちょっと色気がある気がした。羨ましい。私にはそんなのない。と、色々なことを考えながら私は口を開いた。
「お、おはよ」
円は笑った。
「うん」
うん。円は、うんと言ってくれた。こんな私に。大嫌いだと言った私に。たまらなくて、唇を噛みしめた。この気持ちが消えない内に、と思って言葉を紡いだ。
「この間はごめん」
「ううん」
円はすぐに首を横に振ってくれた。それから口を開く。
「私も、要領を得ない話をしちゃったから」
あなたは嫌いだよね、そういうの。円はさらに続ける。
「分かってた。私も。でも、私、恋って初めての経験だったから、ついつい話したくなっちゃって。自分の中で気持ちもまとまっていないのに、話しちゃった。それは本当に、ごめんなさい」
「円が謝ることなんてないよ」
私はハッキリ告げた。
「私が悪いんだよ。円の話、ちゃんと聞けなくて」
「ううん。私も悪い」
「悪くない。私が悪い」
「でも……」
「私が悪い」
「うふふ」円が笑った。「何だか昔みたいだね」
そういえば。私は思い出した。私と円は最初から仲が良かったわけではない。引っ込み思案な円に対してせかせかした私だ。小学生の頃はしょっちゅうぶつかっていた……というより、私が怒りを爆発させていた。
「そんなんじゃナメられるだけでしょっ」
よく、そう怒鳴っていた気がする。そしてその後、私が言い過ぎたと思って、「ごめん」と伝える。円は寛容だから、「いいよ」と笑う。
うふふ。
円の笑い方は上品だ。私じゃ、真似できない。多分男子からの覚えもいいんじゃないかな。癒されるのだ。何だか心の中の澱を流してくれるような力がある。天使のようなのだ。
円には、笑っていてほしい。
いつだか、そう思ったのを覚えている。彼女の笑顔を守るために、彼女に笑顔でいてもらうために、私は頑張っていた気がする。
そんな円に好きな人ができたから。
多分、私は嫉妬していたんだと思う。その、図書委員の先輩とやらに。私の円を持っていった男子に。
その男子は、もしかしたら円のことを好きになるかもしれない。もしかしたら、健やかなる時も病める時も、ずっと円と一緒にいる存在になるのかもしれない。でもそんな彼よりも遥か昔から、私は円と、健やかなる時も病める時も一緒にいたのだ。ヤキモチを妬く権利くらい、あると思う。
そんなとりとめもない思いを円に話した。まとまっていない、意味も分からない、半分頭のおかしい、下手すればメンヘラチックな、そんな話だったと思う。でも円は黙って、頷きながら聞いてくれた。そして私が話し終わると、にっこりと……あの、天使のような笑顔で……告げてくれた。
「ありがとう。そんな風に思ってくれて、私はすっごく嬉しい」
それから、円がそっと手を伸ばしてきた。円の部屋の窓は少し出っ張っている。だから、手を伸ばせば私のもとへ届く。差し伸べられた彼女の手を、私は握り返した。
「これからもよろしくね」
「……うん」
「結婚式とか開いたら、必ず呼ぶからね」
「うん、ご祝儀はずむ」
「だからあなたの結婚式にも呼んでね。絶対だよ」
「呼ぶ」
ごめん。再びそう告げる。しかし今度の円は、じっとこちらを見つめてきた。ハッキリと、綺麗な唇を動かす。
「駄目。許さない。だから、罰としてずっと、私の友達でいて」
円は変わった。そう思った。昔の円なら、きっとおどおどしながら「いいよ」と言っていただろう。でも円は少し、意地悪になった。私に意地悪を言ってくれる。私を困らせてくれる。嬉しかった。それは、私の中の何かを刺激する変化だった。
恋って、こんなに人を変えるんだ。
そう実感した。朝日がゆっくり昇ってきて、円の明るい表情を……いや、陰影のある複雑な顔を……、照らした。
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