第10話 早朝の、誓い。
おじいさんからもらった論文を読み始めるのに、翌日の朝までかかった。
なかなかやる気が起きなかった、というのが大きい。紙の論文を机の上に置いたまま半日が過ぎた。
夕食はちゃんととった。今晩はさく姉。ミートボールのトマト煮だった。すごく美味しい。手の込んだ料理を作るさく姉に比べて効率主義のすみ姉の料理がまずいという訳ではないが、すみ姉はズボラ飯というか、「簡単な調理工程の割に美味い」を目指しているので栄養という観点では偏りがあるし、豪華さに欠ける。基本レンチンだし、下手すれば包丁も使わない。その点、さく姉は忙しいのに手の込んだ料理をする。シチューとかカレーとか、土日から仕込んでいることもある。
「学校は、行ってるの」
さく姉が心配そうに訊いてくる。お父さんは仕事が忙しいのか、いない。
「行こうと思ってる」
私が短く答えると、すみ姉がすかさずフォローを入れてきた。
「体調、悪いんだって」
「病院は行ってないの」さく姉。
「行ってない。主訴が何か分からない」私。
「『主訴』なんて難しい言葉使って。医者か」すみ姉。
まぁ、でもあんたももう高校生か。すみ姉はそうも続ける。
多分、末っ子あるあるだろう。いつまでも小さい頃のテンションで話される、というのは。下手すれば幼児語で話される。えらいでちゅねー。
小さい頃を知られていて、その頃がとにかくかわいいので、いつまでも三歳児を扱うような感じで接してくる。私はそのことにムカつく。
「うっせぇな」
食事の席なのに。穏やかに過ごしたいのに。私の言葉は、棘を持つ。
「ごちそうさま」
半分以上残す。本当は、全部食べたいのに。さく姉のミートボールはこれ以上ないくらい美味しいのに。
「もういいの」さく姉が心配そうに訊いてくる。私はそれになんて返したらいいか分からなくて、真っ直ぐ部屋に帰る。
部屋に帰ると、ジェームズがいた。俺の飯は。そう訊かれている気がした。
ジェームズ用のお皿にエサを入れて床に置く。待ってました、と言わんばかりにジェームズが皿に頭を突っ込む。
「ジェームズ」話しかける。「私って何でこんななんだろう。私って、最悪だよね」
ジェームズが一瞬顔を持ち上げてこちらを見てくる。そんなこと、ないと思うけどな。そう言われている気になる。
「私、色んな人に棘を刺してる。ハリネズミなんだよね。近づいた人を刺しちゃう」
いや、ハリネズミというよりはヤマアラシだろ。顔を上げたジェームズにそう言われた気がする。
ハリネズミはモグラの仲間。ヤマアラシはネズミの仲間。そんな分類が頭に浮かぶ。
まぁ、そんなことはさておき。
ヤマアラシ。ヤマアラシのジレンマ。これも心理学用語だ。原典は確か哲学者のショーペンハウアー。詳しくは知らないけど名前から察するにドイツ人かオーストリア人。
二匹のヤマアラシがいる。寒い。お互いにくっついて暖をとろうとする。しかしヤマアラシは全身針だらけなので近づくとお互いを傷つける。かといって、相手の針から逃れて距離を取ると寒い。お互いに近づいたり離れたりを繰り返して、結果暖をとることができ、かつ針も刺さらない距離を見つける、という寓話。
これを心理学的に捉えると、相手に近づきたいけど、過剰なコミュニケーションは相手を傷つけてしまい、関係の破綻に繋がるから近づきすぎることはできない。だが距離を取ると寂しい、というものになる。
私は、ヤマアラシ。人より針の長いヤマアラシ。近づく人全員を傷つける。だから、暖をとることを諦める。「私に近づくなっ」と発してしまう。
最悪だ。私はいつまでも一人だ。永遠に、孤独なんだ。
そんなことを思った時、あの声が耳に響いた。あのくそ眼鏡の低い声だ。
君のことが好きなんだ。愛してる。
あの馬鹿。三好拓也。あいつは私の棘に刺さりながら気持ちを伝えてきた。挙句、「刺さってもいい」くらいのことを言ってきた。そんな話あるかよ。刺さってもいいわけないだろ。血が出るんだぞ。いつか出血多量で死ぬんだぞ。
ベッドに飛び込む。枕に顔を埋める。刺さっていいわけあるかよ。その言葉が頭の中で響く。
今まで散々傷つけておいてあれだけど、私は人を傷つけたくないんだと思う。私に近づきすぎると大怪我をするから、事前に私に「近づくな」と発する。それが最近よく口にしている「大嫌い」なんだと思う。
食ったぞ。そう言わんばかりにジェームズが「ねう」と鳴く。ねう。ジェームズの声は独特。にゃあ、ともとれるし、ねう、ともとれる。調べてみたことがあるけど、平安時代は猫は「ねう」と鳴いていたらしい。江戸時代、犬は「びよ」だったらしいしな。動物の鳴き声って面白い。
ベッドから垂れ下がった私の手に、ジェームズがすり寄ってくる。私はジェームズの頭を撫でる。ふさふさの毛。温かい感触。
ジェームズの飼育費はエサ代だけで月にだいたい五〇〇〇円くらい。年に一回予防接種。これも五〇〇〇円くらい。私は月に一五〇〇〇円お小遣いをもらっているから、三分の一をジェームズに使っている。お父さんがジェームズのお金くらい出す、と言ってはくれたが、私が連れてきた猫だし、私が面倒みる、と拾った頃からお金を出している。お小遣いや、お年玉を削って。
ジェームズは、私というヤマアラシの針をかいくぐって私に近づいてきてくれる。私はジェームズの頭を撫で続ける。撫でて撫でて、癒されている内に、眠りについた。ぐったりと死んだように眠った。
朝。
四時くらいに目が覚めた。まだ日も出ていない。けど、昨晩の夕飯を残してしまったので、小腹がすいた。キッチンへ行く。ミートボール、残ってないかな。
必然、リビングを通る。
父がいた。ソファで寝ている。寝息。穏やかだ。けど、寝づらそう。この十五年くらいずっとこれだ。
胸の奥でちくりと何かが痛む。口から暴言が出てきそうになる。父は寝ているのに。起こしてまで文句を言う必要はないのに。頭ではそう分かっていたので、私は父の寝姿に向かってつぶやく。
「嫌い……大嫌い」
多分、仕事をしながら寝たのだろう。
父のお腹の上には書類が置いてあった。おそらく、論文だ。読みながら寝落ちてしまったのだろう。寝る時くらい仕事を忘れたらいいのに、と、思いだす。
手近なものから始めて、また順々に飛び込んでいけばいい。
悪魔のじいさんの言葉だ。
心理学は私の身近な学問だ。父がやっていた、というのもある。すみ姉がやっていた、というのもある。家中に心理学の本が溢れている、というのもある。
しかし私はそれが嫌いだ。でも、この間の悪魔のじいさんの話だと……。
本当は「好き」の裏返しなのかもしれないよ。
私は心理学が好きなのだろうか。でも、私の力じゃ心理学に及ばないと分かっているから、逆を張って嫌いだと言っているのだろうか。
知るかよそんなの。分かる訳ねーだろ。
唇を噛みしめる。好きな学問に一生懸命な父。自分の道を見つけた二人の姉。私だけ取り残されている。
冷蔵庫からヨーグルトを出した。ミートボールはなかった。ヨーグルトを食べる。ちょっとずつ元気を貯金していって。いずみん先生の言葉だ。
甘いものを食べると、不思議と元気が出た。さっきとは違う足取りで部屋へ向かう。
手近なものから始めて。よし、あれからだ。
私は部屋にある高木彬光の本と、じいさんからもらった論文を思い浮かべる。
やってやる。こうなったら、飛び込んでやる。
そう、覚悟を決めた。
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