第9話 悪魔の、じいさん。
翌日。
私は、特に意味はないのだけれど制服を着て、いずみん先生が言っていた伊勢山公園に行くことにした。
午後三時。公園があるという山の前に着く。
本当に山だな。っていうか、このサイズだとまだ丘になるのかな。急な段差を上りながら公園を目指す。特に意味はないのだがスクールバッグも持ってきていた。こんな時間にふらついている私は、立派な不良女子高生だろうか。そんなことを思う。
公園に着く。誰もいない……かと思ったら、ステージのような台の近くのベンチに、背中を丸めて座っているおじいさんがいた。
黒い帽子。黒い服。黒いズボン。黒い靴。黒い鞄。杖。
全部いずみん先生が言っていた特徴だった。
そっと、近づく。
距離にして五メートルくらいに近づいた時だろうか。おじいさんが顔を上げた。
「……君が、あれかね」
おじいさんは口を開くなりそうつぶやいた。にっこり笑ってはいるが、何だか悪そうな笑顔だった。道ですれ違ったらすぐさま目を逸らすだろう。そんなじいさんだった。
「よかったら隣にどうぞ。立ち話もなんだろう」
「は、はあ」
言われるままに、おじいさんの隣に座る。ちょっと、距離を取る。何だろう、このじいさんは。
「いい天気だね」
言う通りだった。空は真っ青。雲一つない。残暑が厳しいのが難点だったが、じっとしていられないほどではない。
「白川さんから、連絡があったよ。僕のところに生徒が一人、行くかもしれないって」
何だ、前以て連絡済みか。じゃあいきなり相談事持ちかけてもいいんだ。私は少し、安心した。ぽつりと悩みをつぶやく。
「学校、行く気が起こらなくて」
「ほう」
おじいさんはふくろうのような返事をした。
「駄目なんです。気持ちが萎んで」
「でも今日はここまで来た。学校、この近くなんだろう」
じいさんは笑う。
「偉いじゃないか」
私は首を横に振る。
「それだけじゃないんです。私の学校すごい人が多くて」
「すごい人」おじいさんは聞き返してくる。「どんな人かね」
「広辞苑を丸暗記したり、世界が数式に見えたり、五か国語話せたり」
「ほう、高校生でそれはすごい」
おじいさんは愉快そうな声を上げた。
「それですっかり自信を失くしたというわけか」
「はい。何も頑張る気になれなくて」
「ふむ」じいさんは空を見た。「スチューデント・アパシーというやつかもな」
「何それ」
本当は聞き覚えがあった。でも靄がかかった私の頭では思い出すことができなかった。仕方なく私が訊くと、おじいさんはまた意地悪そうに笑った。
「一言で表せば『学生の無気力症候群』だよ。君は無気力に苛まれているんだね」
それからじいさんはまた空を見上げた。
「君、今の言葉を初めて聞いた訳ではないな」
びっくりした。心を読まれた。そう思った。
「心理学に興味があるのかな」
そうだ。道理で親しみのある言葉のはずだ。父や、すみ姉の本棚にあるはずの言葉だから。
しかしじいさんの問いに、私は首を横に振った。
「心理学は、信用できません」
するとじいさんが笑った。
「どうしてかな」
「人間が人間を科学するなんて、矛盾です。自と他はどこで区別するんですか」
「ほお」じいさんは嬉しそうに笑った。「賢いんだね。君は」
「賢くなんて、ないです」
さく姉とすみ姉を思い出す。私より出来のいい姉たち。それから、学校の連中を思い出す。何かに秀でた人たち。私には、何もない。
「そこ、だね。心理学がアプローチする場所のひとつは」
またもじいさんが胸の内を見透かすようなことを告げた。
「君は自分に自信がない。君は自分で自分をいじめている。君は自分の可能性を自分で潰している。臨床心理学、という分野があるのは知っているね。君は病理を抱えているんだ。その病理を、何とかしようというのが臨床心理だ。言わば医学に近いものがあるね」
「一番胡散臭い学問です。臨床心理学なんて」
私が棘のある言葉を吐いてもじいさんは笑っていた。
「君は、色々なものを嫌っているようだね」
またも自分を見透かされる。何なんだこのじいさん。
「好き嫌いがハッキリしているのは、とてもいいことだ。世の中、嫌なものにノーと言えずに苦労している人は多い。でもね、嫌うのにはエネルギーがいるよ」
嫌うのにはエネルギーがいる。身に覚えがあった。
私はお父さんや、円や、さく姉や、すみ姉や……あのくそ眼鏡にも……大っ嫌いと言った。そしてその思考に囚われている。
「僕が勧めるのは、だね」
じいさんは杖をぎゅっと握りしめた。
「飛び込んでみなさい。自分が『嫌いだ』と言ったものの懐に。それはもしかしたら、本当は『好き』の裏返しなのかもしれないよ」
「……何に飛び込めばいいって言うんですか」
私は唇を噛みしめた。
「私は、父に大嫌いと言いました。幼馴染の親友にも大嫌いと言いました。二人いる姉にも大嫌いと言いました。それから、それから……」
「それから、何だね」じいさんが言葉を継いだ。私は意を決して口を開いた。どうせ知らないじいさんだ。好きなことを言っていい。
「私に好きだって言ってくれた男子にも、大嫌いだと言いました」
「君はもしかして、『嫌いなものに飛び込めばいいと言うのなら、飛び込む対象が多すぎて困る』というようなことが言いたいのかな」
「……はい」私が小さく頷くと、じいさんは再び笑って、近くに置いていた鞄に手を突っ込んだ。
「僕はね、心理学論文をよく持ち歩いているのだよ。電子版じゃない。紙のやつをね。紙のさらさらした感触が好きなんだ」
それから私に、ひとまとまりの書類を手渡して来た。
論文だった。『娘から見た父親の魅力』。東京都立大学、小野寺敦子。
「何に飛び込んでいいか分からなかったら、手近なものから始めて、また順々に飛び込んでいけばいい。君はまず、『心理学は嫌いだ』という話をした。きっと君の念頭にある問題はそれだろう。そこから飛び込んでみてはいかがかな」
「これ、どうしろって言うんですか」
私が論文を片手に訊ねると、老人は空を見上げた。
「読めばいいんじゃないかね。難しい言葉や分からないものがあったら、調べればいい。調べ方が分からなかったら、またここにおいで。教えてあげよう」
『娘から見た父親の魅力』正直、反吐が出そうな内容だった。父親の魅力って。そんなのある訳ないじゃん。
「お父さんも嫌いなんだっけね」
また、心を見透かされた。このじいさん遠慮なく人の心に踏み込んでくるな。
「おじいさん、何者」
まず何歳よ。私が訊ねるとおじいさんは答える。
「六〇」
「……うちのお父さんと同じか」
とてもそうは見えない。杖のせいもあるが、八〇くらいに見える。
「で、おじいさん何者」
さらに私は訊ねる。すると老人はくしゃりと顔を歪め、笑った。
「悪魔だよ」
「アクマ。佐久間じゃなくて」
「悪魔だ」
それから老人は、杖をぎゅっと地面に押し付け、立ち上がった。
「君はね、もしかしたら、周りの人に『大嫌い』と言うことで、色々なものを失った気でいるかもしれないが……」
失ったらまた、得ればいい。
老人はそんな言葉を残して立ち去っていった。もうそろそろ寿命を迎えそうな油蝉が、大きな声で叫んでいた。
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