第8話 天使の、担任。
「おうちで話すのがいいかな。それとも、ちょっとお散歩でもしたい感じかな」
いずみん先生は玄関口で私にそう訊ねてきた。すみ姉に話を聞かれるのは嫌だな。そう思った私は靴を履いて外に出た。
「近くに公園あるんで、そこ行きませんか」
「うん。分かった」
いずみん先生はにっこり笑うと私の後について来てくれた。学校以外で先生に会う、という妙な高揚感に包まれる。
いずみん先生は社会科の先生だ。私の嫌いな、世界史。だけどいずみん先生のことは好きだった。分からないことがあったら何度でも教えてくれるし、いつでも生徒の味方をしてくれるし、何よりいつも笑顔だ。先生といると安心する。まるで天使みたいなのだ。
年齢は分からない。多分、だけど四〇か五〇くらい。結婚はしているらしい。何でも同じ教師同士で結婚したらしく、旦那さんは違う高校で物理を教えているのだとか。その関係だからだろうか。私が物理の問題で頭を抱えていると「どれどれ」なんて首を突っ込んでくることがある。世界史の先生のくせに、高校物理に詳しい。変な先生である。
家の近くの公園に来た。ちょっと広めの公園で、バスケットコート半面が設置されていて、そこでシュート練習をしている人なんかもいる。ベンチに座ると、いずみん先生が隣に座った。「さて」そんな風に、話を始める。
「単刀直入に、聞きます」
先生は真っ直ぐこっちを見てきた。
「何か悩んでいますか。先生が見たところ、悩んでいるように見受けられるのですが」
迷った。本当のことを話そうか。親友と喧嘩したこと。家族と喧嘩したこと。変な男子に告白されたこと。全部話してしまおうか迷った。多分、半分くらい話そうとしていた。喉元まで言葉が出かかる。しかし肝心なところで臆病風が吹いて、私は黙る。
「話したくないなら、大丈夫」
先生は相変わらずにっこり笑っていた。
「今日は、あなたの顔を見に来ただけだから。ちょっと顔色は悪いけど、でもこうして、お散歩はできているから」
「ごめんなさい」私は謝った。「学校、行かなきゃなのに」
「行きたくない時は行かなくていいんです。学校なんて」
いずみん先生の言葉に、私は思わず顔を上げた。
「学校に行かなくても、勉強は出来ます。進学しなくても、本は読めます。頭があれば考えることができます。考えることができれば、人はもっともっと、進歩できます。まだあなたには早い話かもしれないけど、学問は、どこでもできます。その気さえあれば。それに、最悪、進歩や物事の追求なんてしなくてもいいんです。自分が自分らしくいられれば。先生は、あなたにそれを望みます」
不思議な言葉だった。
いずみん先生の言葉は胸に染みる。それは、傷口に消毒液が染みるような暴力的な染み方じゃなくて、乾いた土に水が浸透していくような、潤いのある染み方なのだ。
私がぼんやり先生の顔を見ていると、先生は不意に、鞄から手帳を取り出すと、ページを一枚破ってさらさらと何かを書き始めた。書き終わったそれを、そっと私に手渡す。
〈伊勢山公園〉
そこにはそう書かれていた。
「あなたは帰宅部だから、多分知らないでしょうけど、学校の近くの山に、そういう名前の公園があります」
運動部がたまに練習に使っている公園です。
先生はさらに続ける。
「その公園に、このくらいの時期だと多分午後三時くらいかな。一人の老人が散歩に来ます。黒い服に黒い帽子、黒いズボンに黒い靴。鞄まで黒い全身真っ黒なおじいさんです。脚が悪いので杖をついています。多分、公園の中のベンチに座っています」
すらすらと先生はしゃべる。
「ぱっと見は少し近づきがたいかもしれません。でもきっと、あなたにいい助言をくれます。もし、あなたが、元気にはなったけど、学校には行きたくないなって思ったら、リハビリも兼ねて、まずはその公園に行ってみてください。それから、次は保健室とか、私に会いたかったら職員室でもいい。図書館や中庭でもいい。教室にいづらいなら教室以外の場所に来てください。先生はそこまで、あなたを迎えに行きます。無理はしなくていいです。あなたのペースで、ゆっくり、回復してください」
「おじいさんが、いるんですか」私がつぶやくと、いずみん先生は再び笑った。
「ちょっと意地悪な人です。でも、いい人ですよ」
すっと、先生は立ち上がる。
「顔を見ることができて安心しました。でも少し、顔色が悪いのが心配です。ご飯はちゃんと食べていますか。食欲がなかったら、ヨーグルトとか、おかゆとか、野菜ジュースでもいいですね。無理のない範囲で口にすることを考えてみてください。栄養を取れば、またちょっと元気が出るかもしれない。そうやってちょっとずつ元気を貯金していって、それから……」
これからについて、一緒に考えましょう。
私も立ち上がる。胸の中が、ちょっとだけ温かった。
「それじゃ」
先生は、去っていった。駅まで送ろうかと思ったが、私がぽかんとしている内に先生はさっさと歩いていってしまった。後に残された私は少しの間、胸の中のぽかぽかした感覚を味わうと、家に帰った。帰るとすみ姉がご飯を作っていた。
「ご飯は」短くそう訊いてくる。私は答える。
「食べる」
すみ姉が意外そうな顔でこちらを見てくる。私はどんな顔をしていいか分からなくて、ちょっと俯くと階段を上って部屋へと向かった。すみ姉の包丁がまな板を叩く音が、背後から聞こえてきた。
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