第7話 あいつに、頼るか。
あいつに、頼るか。
それが問題だった。あのくそ眼鏡。私が顔面を蹴りとばした男子。
あいつの方が高木彬光に詳しいのは確かだった。いや、正確に言うと「高木彬光の『刺青殺人事件』に詳しい」だけのことか。
私の手元には、母の残した『想い出大事箱』がある。
読み込んでみよう。そう思って本を開いた。まず、著者近影を見る。
笑顔の素敵な女性だった。綺麗。私とは、多分対極。表紙を見た感じ、父と家族の生活について綴ったエッセイのようだし、きっと家族が大好きなのだろう。私は……と考えて嫌気がさす。私は、家族に好かれていない。私は、家族を大切にできない。私は、すぐ「大嫌い」と言ってしまう。私は……。
きつねおにいちゃんってやさしいね。
母の声がした気がした。思わず本から目線を上げて部屋を見渡す。時々、こういうことはある。幼い頃の記憶のフラッシュバック。フラッシュバックという現象についてよく聞くのは、ストレス場面の脳内再現だが、私の場合些細な日常の音声記憶が蘇る。耳が良かったのだろうか。母の笑顔や、母の困り顔や、母の悲しんだ顔は一切思い出せないが、母の声は思い出せる。
真っ直ぐな声なのだ。優しい、と言えなくはないが、それよりもまずあるのは心に直接響くような張りのある声。当時、健康状態が悪かった母。でも声だけはしっかりしていた。そんな記憶がある。
多分、嫌なことは嫌、好きなものは好き、と言えるタイプだったのではないだろうか。そんな分析をする。あけすけなタイプ。感情が隠せないタイプ。
『想い出大事箱』
タイトルを再び読む。想い出。
私は母との想い出が極端に少ない。さく姉やすみ姉は多分、たくさんあるのだろう。母が死んだ時、さく姉は一五歳。すみ姉は一一歳。きっと、学校の運動会や授業参観にも来てもらった経験があるに違いない。遠足のお弁当を作ってもらった経験や、一生懸命描いた絵を褒めてもらった経験もあるのだろう。
そのどれも、私にはない。
父が不愛想だった訳ではない。父は父なりに私を褒めてくれた。「よくやったな」とか、「頑張ったな」とか。運動会にも授業参観にも来てくれた。父は器用だから、美味しそうなお弁当も作ってくれた。でも、違うのだ。いや、「違う」というのも違うのかもしれない。ただ、とにかく、父では埋められなかった穴が、確かにあるのだ。この胸にぽっかり。その風通しが良すぎて、私は、凍える。
本を読む気が失せた。
『想い出大事箱』を閉じるとベッドから立ち上がり、机の上に置く。『刺青殺人事件』も一緒に。ぼんやりしていると、部屋のドアをカリカリと引っかく音がした。
ジェームズだ。私はドアを開ける。
ジェームズは優雅に私の部屋に入ってきた。しっぽがピンと立っている。ご機嫌なようだ。私がベッドに腰かけると、ジェームズは座卓の近くに置いてあったクッションの上に丸くなって座った。一瞬、目が合う。
よう。しけた面してるなぁ。
そんなことを言われた気分になる。私は彼の名前を呼ぶ。
「ジェームズ」
声に反応してくれたのだろうか。ジェームズが再びこちらを見る。
「私、何で色んな人に大っ嫌いって言っちゃうんだろう」
興味を失くしたのだろう。ジェームズはそっぽを向く。そんなもん、知るか。そう言われたような気分になる。
「そうだよね。自分で考えなくっちゃ」
するとジェームズが欠伸をした。どうでもよかろう。そんな感じ。
まぁ、確かにどうでもいいのかもしれない。
多分、この宇宙で私の抱えている悩みなんて些細なことで、考慮するに値しなくて、そんなことを考えている余裕があったら、私が夕飯を作る番の時に何を作るべきかを考えた方が、建設的なのかもしれない。
ため息が漏れる。
「君のこと、好きなんだ。愛してる」
愛してる。
そんなこと人生で初めて言われた。いや、父やさく姉すみ姉の愛情を感じずに生きてきた訳ではない。でも、あんなに真っ直ぐ愛を告白されたのは初めてだった。何だかむず痒い感情に襲われて、手近にあった枕を抱く。
明日、どんな顔をして学校に行けばいいのだろう。
分からなかった。胸が苦しい。頭がふらふらする。私の危機を察したのだろうか。ジェームズが喉をゴロゴロ鳴らす。
大丈夫。ジェームズがそう言っているような気になる。
それでも私は翌日、学校を休んだ。体調不良ということにして。朝起きても胸の苦しさが取れなかったのだ。頭もぼーっとしていた。何もやる気が起きない。
それは高校に入学してから毎日のことだったが、この日はレベルが違った。普段が七だとしたら、今日は一気に一〇くらい。それくらいしんどかった。
部屋に引き籠った。何をするでもなく、ボーっとする。いっぱい寝た。この頃寝不足だったのだろうか。よく眠ると頭がすっきりした。それでもやる気は起きなかった。
さらにその翌日。学校を休んだ。理由はまた、体調不良。頭はすっきりしたが胸の中の空虚な気持ちが消えない。空気が抜けた風船のように、心が萎んでいる。
食事もほとんどとらなかった。食べる気力が湧かないのだ。心配したのだろう。まず朝、出勤する前にさく姉が来た。
「大丈夫なの。しんどいの」
「平気」短く答える。ドア越し。さく姉は無理に私の部屋に入ってきたりしない。
「平気ならいいけど、ご飯は食べなさいね」
そう言い残してさく姉は出勤した。
昼。仕事は休みだったのだろうか。すみ姉が来た。すみ姉は遠慮なく私の部屋のドアを開ける。鍵つけたい。常々そう思っている。
「あんた、しんどいの」
不愛想。でも、心配はしてくれているみたい。
「学校から電話来たよ」
「電話」私は顔を上げる。
「担任の先生から。『今日の夕方伺いたい』とか言ってたから、オーケーしといた」
「ふざけんなよ」
私がそう大声を上げると、すみ姉は、「元気そうじゃん。あんたが対応しなよ」と言い残して去っていった。
最後に私の部屋にやってきたのはジェームズだった。彼も私のことを心配してくれているのだろうか。してないだろうな。ジェームズは定位置のクッションの上に丸くなると欠伸をした。まるで、私の体調不良などどうてもいい、と言いたげに。
夕方。午後五時。
すみ姉の言っていた通り、先生が来た。チャイムが鳴る。すみ姉は家にいるようだが、出る気配がない。仕方なく私が、インターホンに出る。
「先生」
私はドアを開ける。門の前には先生が立っていた。私の名を、小さな声で呼ぶ。それからこう告げる。
「先生、心配しちゃった」
「……ごめんなさい」
いつぶりだろう。人に素直に謝罪したのは。
そんなことを思っている私の前で、先生はにっこり笑っていた。
私の担任。
白川いずみ先生。通称、いずみん。
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