第14話 涙と、疾走。
「マジで。あり得なくない」
女子の声。保健室に入ってくるのにはふさわしくない、元気な声。
「へへ。それがよ」
続いて聞こえてくる男子の声。聞き覚えがあった。私は思わず身を固くする。望ましい来訪者じゃない。本能的にそう思った。
……しまった。
私はスクールバッグを床に置いていた。上履きの先もカーテンから見える。つまり、来訪者に私の存在が知られるどころか、下手をすれば私であることもバレる。慌てて鞄と爪先を引っ込めた。しかし、遅かったようだ。
「……おい」
男子がつぶやいた。
「お前、帰れよ」
「は」
女子が返す。
「何それ」
「帰れ」男子は冷たく突き放す。「また遊んでやるよ」
「は」女子は納得がいかないようだ。「何でよ」
「……帰れっつってんだろ」男子の声が低くなる。
「俺の言うことが聞けねーのかよ」
女子が黙る。やがて、足音。
「ま、またね」
男子の声が穏やかになる。
「ああ。またな」
ドアの開く音。閉じる音。そして聞こえてくる、重たい……男子特有の……足音。
「よう」
カーテンが開かれる。姿を見せたのは、大介だった。金岡大介。私の……彼氏もどき。
「お前、最近見かけなかったなぁ」
にやにやしながら大介がこっちに近づいてくる。注がれる視線。胸、脚。
「このところ学校来てなかったんだってなぁ。心配したぜ」
嘘だ。本能がそう告げる。連絡一つ寄越さなかったくせに。
「どうしてこんなところにいるんだよ。あ。寂しくなかったか」
肩を抱かれる。ぞくりとした。全身を虫が這っているような感覚に包まれる。
「お前に会いたかったぜ……」
「ちょ……」
私は大介から離れる。
「大丈夫だから。そういうの」
「あ」大介が声を凄ませる。それが少し怖くて、私は彼の方を見る。
「なぁ……なぁ……」
大介は私との距離を詰めてきた。むわっと、香水の匂いがする。大介の匂い。さっきまで、他の女子とじゃれていた匂い。
「俺を困らせるなよ。お前は俺の女なんだぜ」
違う。心の中でそんな叫び声がした。しかし大介は続けた。
「この間の約束、覚えてるか」
約束。大介と約束した覚えなんてない。
「チューしようぜ、って、言ったよな」
にやり。大介が笑う。その笑顔がものすごく怖くて、私は心臓が凍ったような気がした。
「……なぁ、今は、誰もいねぇ」
大介がさらに距離を詰めてくる。私は逃げる。が、もうベッドの端だ。逃げ場がない。
大介が、私の膝に手を置いた。
「いいだろ……いいだろ……」
思わず顔を背ける。が、大介はすっと私の頬に手を伸ばした。
顔を、無理やり大介の方に向けられる。固定される。大介の顔が迫る。
「やめろっ」叫ぶ。だが大介はやめようとしない。
「ちょっとだけだ……目瞑っとけよ……」
咄嗟に、大介の頬をはたく。
息が上がっていた。心臓がバクバクしている。大介は頬を押さえてこちらを睨んでいた。低い声で唸る。
「何だこれは。あ」
立ち上がる大介。続けざまに胸倉を掴まれる。
「お前は俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ」
その言葉が辛くて、屈辱的で、不快で、涙が出る。気づけば私は、大介を思いっきりどついていた。
「うおっ」
そんな悲鳴を上げて大介が隣のベッドに倒れこむ。ばちばちん、とカーテンが外れる。今しかなかった。私は慌てて荷物を掴むとベッドから離れた。
「来ないでっ、来ないでっ」
そう叫びながら保健室を出る。とにかく、あいつから逃げたかった。あいつの手から、あいつの腕から逃れたかった。追いかけられるかもしれない。捕まえられるかもしれない。授業中だから、廊下には誰もいない。誰も私を助けてくれない。誰も……誰も……。
泣きながら廊下を走った。何でこんなに涙が出てくるのか、自分でも分からなかったし、情けなかった。これまでどんなに辛くても泣いたことなんかなかったのに、それなのに、大介にあんな、ひどい扱いをされただけで、こんな……。
音楽室の前を通った。入り口に人が溢れている。どうやら授業が終わった後のようで、おしゃべりをしながら出ている人もいた。チャイムが鳴った。休憩時間だ。私は泣いているところを人に見られたくなくて、女子トイレに真っ直ぐ駆け込もうとする。手を掴まれたのは、その時だった。
「いやっ」
思わずそう叫ぶ。が、振り返った先にいたのは大介じゃなかった。
「大丈夫かい」
そこにいたのは、三好拓也だった。
「はい。これ」
三好拓也は自販機から買ってきたコーヒーを私の手に押し付けてくる。私は遠慮がちにそれを受けとる。
中庭。誰もいない。授業時間だからだ。私は訊ねる。
「授業、いいのかよ」
「いいよ」三好拓也はあっけらかんとしていた。
「前も言ったよね。君をこの世界の何よりも大切にするって」
そういうこと言うの、恥ずかしくないのかよ……。そんなセリフを、ぐっと飲み込む。手の中にはアイスコーヒー。冷たい。
沈黙。三好拓也は何も話さない。私は言葉に困っているので当然何も話さない。ただじっと、足元を見つめている。しかし、不思議と嫌な沈黙じゃなかった。隣にいた三好拓也が、思い出したように缶を開ける。ぷしゅ。いい音。
ちらりと横を見た。眼鏡。新調している。フレームが新しい。そんな様子を見ていると、私は申し訳ない気持ちになってきた。
さっきまで泣いていたからだろうか。鼻の奥がつんとしていた。その痛みが、私の心をそっと、開いた。
「眼鏡、悪かった」
三好拓也がこっちを見てくる。私は再び謝る。
「ごめん。弁償する」
「いいよ。気にしなくて」
それから三好拓也は、真っ直ぐ私のことを見つめてきた。
「僕の方こそ、この間はごめん。いきなり好きとかって言われても、困るよね。不審に思うよね。悪かった。君を大切にするとか言っておきながら、君のことを考えられていなかった。反省している。もう二度としないよ」
「そんなこと、いいよ」
本心だった。思わず、胸から言葉が零れる。
「何かを好きって言うのは、悪いことじゃねーよ」
すると三好拓也は笑った。
「『何か』じゃないよ」
言っている意味が分からなくて、私は彼の方を見た。
「『誰か』だ。僕は君が、好きだ」
「……何でだよ」思わず、唸る。胸が苦しかった。
「何でだよ。私はお前を殴っただろうが。私はお前を踏んだだろうが。私はお前を蹴っただろうが。私はお前を罵倒しただろうが。私はお前のものを壊しただろうが。私はお前の好きな本を馬鹿にしただろうが。私はお前とほとんど話したこともないだろうが。それなのに、どうして、こんな私を、才能もないし美人でもない私を、好きとか……」
「『こんな私』じゃない」
三好は私の目を覗き込んできた。いつの間にか私は、俯いていた。
「僕は君に何をされても許せる。殴られても踏まれても蹴られても罵倒されても物を壊されても好きなものを馬鹿にされても気にしない。僕と君は、実は少しだけ話したことがある。僕は君に、才能があると思う。そして僕は……」
ここで彼は、一瞬言葉を詰まらせた。多分、照れている。今更かよ。そんなことを思う。
「僕は君が、美しいと思う」
「どこがだよ」ほとんど私は叫んでいた。
「化粧っけもないだろうが。かわいい顔でもないだろうが。スタイルもよくないだろうが。愛想も悪いし暴力的だろうが。こんな、こんな私の何が美しいって……」
「自分に真っ直ぐなところだよ」
「それは性格の話であって、外見の話じゃ……」
「内面は外面に滲み出る」
三好の目は力強かった。気づけば私は、眼鏡の奥のその瞳に、見入っていた。
「それに、君はかわいい。化粧をしなくてもかわいい。笑ってもかわいい。むすっとしていても、怒ってもかわいい。スラっとしていてスタイルだっていい。どんな洋服も、何なら和服も似合いそうだ。君は君のことをかわくないと思っているかもしれないけど、僕は君のことをかわいいと思っている。だから誰に何と言われても、君は僕の世界で一番、かわいい」
どう言っていいのか分からなかった。唇を噛みしめる。鼻の奥のつんとした感じが強くなった。
「意味分かんねーんだけど」
ようやくそれだけのことをつぶやく。
「私よりいい女なんてたくさんいるだろうが」
「いや、君しかいないよ」
「何で私なんだよ」
「君は僕に優しくしてくれた」
三好は真っ直ぐに私を見つめたまま続けた。
「英語のスピーチ大会があったよね。あの時、言葉に詰まった僕に君はこっそり『大丈夫だよ』と言ってくれた。体育で縄跳びがあったよね。なかなか技ができずに困っている僕に、君はコツを教えてくれた」
「全部私の力じゃない」私は三好のことを睨んだ。
「私、姉が二人いる。どちらもこの高校。だからコツが分かってた。今あんたが言ったそれらのことは私の力じゃない。私の姉の、さく姉とすみ姉の……」
「力や知識をどう使うかは選べる」三好はたじろがなかった。
「君は、自分が持っている知識や経験を人のために、僕のために使ってくれた。そこなんだ。君のいいところは。君は、僕の知っている、僕から観測した君は……」
優しいんだ。
そう告げられる。
くっそお。
叫びたかった。何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。何で私がこんな気持ちに、こんな、温かい気持ちにならなきゃいけないんだ。
「もう一度言う。迷惑だったら、ごめんね」
三好は手にしていた缶を脇に置いた。私の前に来て、跪く。真っ直ぐに下から、見上げられる。私の手の中の缶コーヒーが温まった気がした。
「君が好きだ。大好きだ。愛している。だけど最悪、僕と付き合わなくてもいい。僕の傍にいてくれなくてもいい。でも、君は君を、大切にしてくれ。僕の大切な人なんだ。僕のために、君を大事に扱ってくれ」
「嘘つけよ」
気づけば私はまた泣いていた。我慢できなかった。
「私のことを、好きになる訳、ないだろうが」
「いや、好きなんだ」
「嘘に決まってる」
「本当だよ。証明する。どんなに困難でも」
「証明なんてしなくていいんだよ。信じていいのかって話だよ」
すると三好は私の手を、そっと、優しく、缶コーヒーごと、握った。
「信じてほしいよ」
泣いていた。顔はとっくにぐじゃぐじゃだった。呼吸困難だった。きっとひどい顔をしていただろう。でも三好の目は、私に向けられた彼の目は、優しかった。
私は彼の手を握り返した。強く、しっかりと。
「私は重いぞ」
「大丈夫。僕の愛も重たかっただろ」
「そんなこと言うなら結婚しろよ。死ぬまで私を幸せにしろ」
「任せて」
「地球のどこにいても私のことだけ考えろ」
「同じ地球にいることができて嬉しいよ。それに、例え火星に行っても月に行っても、宇宙のどこにいたって、君のことを想い続ける」
「私はお前に、私を見ることを要求しない」
この言葉は意味が分からなかったのだろう。三好は少し首を傾げた。しかしその顔に私は告げた。
「私のことは見なくていいから、私と同じ方向を見て。私と一緒に歩いて。あなたが辛かったら私の肩を貸すから、私が辛くなったらあなたの肩を貸して」
三好は笑った。
「もちろん。ずっと寄り添うよ」
「……じゃあ、今、肩貸して」
「分かった」
三好が隣に座る。手を握ったまま。まるで、恋人みたいに。
三好の肩に顔を埋める。泣いた。思いっきり泣いた。涙が付いただろう。鼻水も付けてしまったかもしれない。でも三好は、そっと私の頭に頬を寄せてくれた。嗚咽が漏れた。
授業中。誰もいない中庭。
三好はずっと、私の隣にいてくれた。
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