Mielikki
一条 灯夜
Mielikki
辺り一面が、白銀の世界だった。
多少の凹凸はあるものの平原の視界は広く、遠くにある針葉樹の林は、その目前にある凍った小川の灰色の輝きもあってそれほど目立ってはいなかった。
太陽はもう昇っている時刻だったが、冬の厚い雲に遮られて夜の闇がまだ残っている。
これなら、月夜の方がまだましだ、と、純白のギリースーツに身を包んだマイトは思った。
気温はまだ氷点下十度を下回る。風が吹き抜けると、昨日の昼に降り積もった新しい雪が風に舞った。
マイトが吐く息は白く、睫やフードから覗く前髪には所々小さな氷塊が付着している。特殊な訓練を受けている人間でさえ留まるのに厳しい環境だ。
なにもないだだっ広い雪原で彼は考える。退くか、残るか。退いたとして、味方の前線まで辿り付けるのか否か。他の味方はまだ踏み止まれているのか……。
しかし、マイトが思考をまとめる間も無く、不穏な音が響いた。
およそ1,000m前方の林から、敵が現れたのだ。
偵察用の軽戦車三両、物資輸送の幌付きのトラック二台、兵員輸送用のトラック二台、そして、随伴の歩兵が五十人と少し。
たった一人のマイトと比較して、どちらが優勢か、などとは訊くだけ野暮な話だった。
だがしかし、マイトは戦いを選んだ。それはなにも、自己犠牲の精神とか滅びの美学などといったわけのわからない陶酔ではなく、優秀な兵士であり狩人でもあるマイトの冷静な状況判断によるものである。
もし仮に敵がもう少し有利な状況であったなら――例えば、航空支援があったり、太陽が出ていて位置が特定されやすかったり、戦闘車両や兵士がもうちょっと多かったりしたならば、マイトは迷わず雪壕を掘ってやり過ごしただろう。
雪の上に腹ばいになった姿勢で少しだけ前進し、銃を構え、四倍のスコープを覗き込むマイト。
敵の姿はまだかなり小さく、7.62×54mm弾の最大有効射程の800mの距離には近付いてきてはいない。
今のうちに、と、彼は広く敵全体を見渡した。
敵は車両を一列に軽戦車、物資輸送トラック、兵員輸送トラックの順に並べ、その左右を歩兵が固める行軍陣形をとっている。進路は、マイトから見て二時の方向から接近し、八時の方向へと抜けるように機動しているようだった。
戦車や人が障害物となるが、奥の――車列の右側の兵から倒そうとマイトは思った。射撃地点を偽装できるし、二撃目を車列の左側の兵士へと放てば、包囲されていると思わせられる。
心理的不安を兵卒に与えることが出来れば、指揮官は必ず軽戦車から顔を出す。
それを射殺して敵部隊を後退、もしくは、足止めする。それこそが地帯戦闘を行うマイトの唯一で絶対の任務であった。
銃身の下に背嚢を置いて安定させ、ストックを肩と頬で包み込むようにして伏射姿勢をとり、慎重に狙う相手を選ぶマイト。
車両に先導されているせいか、敵の行軍スピードは決して遅くない。ただ、人の動きには独特の――その人固有のリズムというものがあり、それさえ読めれば、狙う相手を選ぶのは難しくはなかった。
マイトは、軽戦車とトラックの間のひとりの兵士に狙いを定めた。その兵士だけが十秒に一回、大きく車間に身を乗り出していたから。
スコープのレティクルを兵士の未来予測位置に合わせるマイト。彼の銃のゼロインは500mで合わせており、また、風速は北西の風四メートルであったため、彼はレティクルのセンターを目標からやや左上にずらした。
息をゆっくりと吐き、止め、一秒で引き金を引く。
スコープの向こうで、最初の獲物が真っ白な雪の上に深紅の染みとなって広がった。
マイトの胸に、微かな喜びと虚しさが去来した。しかし、感情の変化も狙撃にはマイナスになる。微かに手が震え、銃口が1mmに満たない範囲で動いてしまっても、着弾は大きくずれてしまうからだ。
殺気も歓喜も潜めて、L字型のボルトハンドルを上げて引き、空になった薬莢が排出されたと同時に、再び押して倒す。
今度はさっきよりもかなり前方――先頭付近で、怯えた顔で振り返っている男に照準を合わせ、胸の中心を撃ち抜いた。
頭は狙い難く、かつ、こうした戦場では殺せなかったとしても、デメリットは少ない。負傷兵を後方へと輸送したり、手当てしたりするのに多くの人員を割けるためだ。
そう、狙うなら、可能な限り身体の中心を照準するのがマイトのやり方だった。
二秒に一回、銃声がなる度に雪原に赤い花が咲く。
しかし、敵も馬鹿ではない。
マイトの銃に装弾されていた五発の弾が五つの死体に変わった頃には、おおよその方向を掴まれおり、軽戦車の37mm砲を向けられていた。敵の指揮官は余程用心深いのか、それとも腰抜けなのか、まだ軽戦車から顔を出してはいない。
――ッチ。
舌打ちひとつを残し、マイトは伏せたまま後退する。右手で狙撃銃の銃把を左手で被筒を握り、決して頭を上げないように方向転換した後、肘を交互に前に出し、身体を引き上げるようにして進んでいる。
さっきまでマイトいた狙撃地点で、雪と共に真っ黒な土が吹き飛ばされた。ド、と大きな音の最初だけが響いた後は、音と言うよりも鼓膜の圧迫感でしか空気の振動を感じない。キーンという、耳鳴りが彼の頭には響いている。
パッ、パパッ、と、小銃の弾が着弾した雪煙が彼の近くでも上がっている。
それでも、マイトは慌てることも焦ることもしなかった。
ここで頭を上げたり反撃したりすれば、集中砲火を受けるからだ。着弾地点が広いということは、正確な位置が知られていないことの証左でもある。彼は、一発、二発くらったとしても、声も上げずに逃げ切るつもりだった。
そう……。
少しずつ少しずつではあるが、マイトはなだらかな丘の裏側――敵の視界の外へと抜け出しつつあった。
銃砲撃が左へと逸れている。ようやく戻ってきた聴力でマイトがそう判断した時、敵部隊の方向から、黒煙が見えた。そして、次の瞬間、グワァン……と、今度は大きな音が響いてきた。
一拍後、完全にマイトに向けられる攻撃がなくなったことで、彼は状況を理解し、四つん這いで先ほどの射撃地点へと戻り、戦車砲の空けたクレーターに身を潜め、敵の様子を窺う。
彼の目の前に、真っ黒な煙を上げる軽い戦車と、友軍のスキー部隊の銃撃戦のようすが飛び込んできた。
――ベストなタイミングではない。
そうマイトは判断したものの、上体を僅かに上げ、それだけでは充分な斜線が取れないことに気付き、膝撃ちの姿勢へと変えた。
救援のスキー部隊は小隊規模の二十名の部隊だった。対車両装備として、20mmの対戦車砲がひとつ、火炎瓶、あとは小銃やサブマシンガンで武装している。偵察中隊規模の敵とぶつかるのは利口ではなかったが、奇襲の成功もあってか、両軍は拮抗していた。
偶然ではあったものの、マイトとは逆の方向から攻撃を仕掛けてくれていたおかげで、先ほどは隠れていた敵がマイトの目から良く見えた。
戦車は二両が大破、一両が軽度の損害。指揮官の生死は不明。しかしながら敵は抵抗を止めてはいなかった。
しかし、それもそうなのだ。
敵軍は退却し陣地へと戻ろうとした場合、陣地守備兵による機銃掃射で皆殺しにされる。運が良くても公開処刑だ。進んでも退いても死ぬのなら、最後まで抵抗するしか残されていない。
もっとも、マイト達にはそこまでの事情は知らされてはいなかったが。
彼等が確実に分かっていることは、国土・経済規模その他あらゆるものが十倍以上もある敵国が、理不尽にも侵略を開始してきたという事実だけだった。
クリップで止められた五発の銃弾を再装填し、脅威度の高い順にマイトは照準を合わせていく。機関銃の射手、トラックの運転手、通信兵、手榴弾を投擲しようとしている兵士、……! サッとスコープでなぞった景色に、マイトの背に悪寒が走った。
――なにか、いる。おそらく俺と同じ狙撃兵だ。だがしかし、再リロードのタイミングはない。一発で仕留めなければ逆にこちらが狙撃される。
そう判断したマイトは姿勢を維持したまま、車両の近くに目を凝らす。横転したトラック、風になびく幌、転がったタイヤ……。幌の一部に切れ込みを見つけたマイトは、次の瞬間、狙いを定めてひとつ深い呼吸をした後に撃った。
幌と重なるようになっていた都市迷彩の傘が倒れた。その後ろから転がり出てきたのは、ひとつの死体。そいつの手にしている銃にもスコープが付いている。
ふぅ。
短く溜息を吐いたマイトは、かなりの損害を出してもまだ抵抗を続ける敵軍を見て、眉を顰めた。
――拙いな。
敵戦力をかなり削ったものの、それでも味方よりも敵の数の方が多い。マイトの存在に敵は気付いてはいるのだろうが、それよりもスキー部隊の方を優先して反撃している。折角の救援部隊ではあったが、既に半数が重軽傷を負い戦力の低下が著しい。少なからぬ死者も出ているだろう。
――やるか?
マイトは少し迷ったものの、腰のポーチから観測弾を取り出して銃に装填した。
観測弾は、本来は航空機の機銃用の弾丸で内部に火薬が装填されているため、空戦では発光により敵の航空機のどこに弾が当たっているのかを確認出来る。
しかし、口径の同じ狙撃銃に装填し人に使用した場合には、戦車の榴弾のように着弾と同時に炸裂することで、凄惨な被害をもたらす。
無論、人道的見地からそうした使用は控えるべきとされている。
しかし、敵味方双方の前線の兵士にとっては、そんな話は銃後にいる者の……安全圏に立っている人間の物言いだった。無残な死体は恐怖を助長してくれる。戦闘状況にある敵に、決定的な敗北を印象付けられる手段を棄てられるような人間は、前線になんていやしない。
やる、と、決めた後のマイトの行動は早かった。
敵の広がった陣形に、均等に犠牲者が出るように弾を割り振る。下っ端では効果が薄い。階級ではなく、今、この部隊の指揮を取れている人間を狙う。
レティクルが合った一秒後、大きく口を開けて五名一班を率いてスキー部隊へと突撃を敢行していた男の頭が血煙に変わった。スキー舞台の左側から射撃をしている数名は、一番端の一人の背中が爆ぜた後、血肉が降り注いだ近くの数名が怯えたように立ち上がり……スキー部隊からの射撃で倒れていった。
敵部隊の混乱が広がりだした。恐慌状態になりつつある。
このまま放っておいても、敵は散り散りになって逃げていく。
マイトにもスキー部隊にも、それは理解できていた。
……だが、彼らは戦闘を継続した。
マイトの放った銃弾が、背中を見せて森へと逃げる兵の背中を背嚢ごと突き破って絶命させた。スキー部隊は、小銃からサブマシンガンへと装備を換え突撃しながら乱射している。
今、ひとりの敵を逃がせば、明日の敵がひとり増える。
叩ける時には、徹底的に叩くのがこの戦場の鉄則だった。
それから十分後。
この戦場の敵はすべて排除されていた。
「第三狙撃小隊のマイト・ベルガだ」
被っていたギリースーツを脱ぎ、フードも外して久しぶりに顔をさらしたマイト。灰色の髪、鋼鉄の色をした瞳、そして細身だが筋肉質な身体をしている。彼には、精悍な狼のような印象があった。
「よろしく、こちらは第三十二スキー小隊だ……他の味方は?」
そう言って握手をしてきたのはスキー部隊の部隊長で、マイトとは逆に小さな丸顔をしていて、どちらかと言えば黒猫のようなイメージの男だった。
マイトは無言で首を振った。
「この地では、二十一人で大隊規模の敵を足止めしている。三人ずつのチーム、七つに別れた後は知らない」
「……残りの二人は?」
訊かれてマイトは、胸から二つの認識票を取り出し、彼よりも階級が上であろう小隊長に渡した。
「小銃で後方警戒していたヨゼフは三日前、観測手のブルーノは一昨日だ」
とても上官に対する口の聞き方や態度ではなかったが、それを気にする人間は一人もいなかった。階級の上下は、現在の戦況ではあまり意味がない。
そもそも、独自に敵の足止めをしている前哨狙撃兵は、彼に限らず誰に対しても敬語を使うことはなかった。高い死傷率、そして、補給を敵からの略奪によって賄っている彼らは、敵だけではなく味方からも、ある種独特の距離にある。
ドックタグを少尉に渡した時、マイトは自分の手が濡れていることに気づいた。ブルーノのドックタグには凍った血がついたままだったのだが、それが溶け出したようだった。
血の付いたマイトの手で、二つの視線が集まる。
「……すまない。しかし、こちらも――」
「分かってる。少なくとも俺は生き延びられた。……救援を感謝する」
状況は、全ての軍人が共有していた。
否、国民の全てが知っている。彼等自身が決めたのだ。
侵略してくる巨大な敵国と戦うと。
祖国を、決して明け渡さず、独立を保つと。
戦闘の後、火によって部分的に溶けた雪の下からは、黒く焦げた建物の基礎が現れていた。今回の戦闘による被害ではない。もっと昔、開戦と同時に放たれた火の跡だ。
国境に近いこのノルンエストラッデにおいて、防衛に不向きな村は全てその村民自身の手によって焼き払われていた。敵の拠点とならないために。
決して諦めないとその国民は誓っていた。
だから、身を切ることもいとわなかった。
祖国を守り抜くことが出来たのなら、再びこの地に根付き、青々とした麦の伸びる春を迎えられるのだから――。
Mielikki 一条 灯夜 @touya-itijyou
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