うつしみ

惟風

うつしみ

「代わってくれよ、元に戻してくれ!」


「嫌だね」


「ちょっとの間だけだって約束したじゃないか!」


「そんな約束した覚えはないなあ」


「おい、嘘だろ! 話が違う!」


 男はいつまでも叫び続けていた。


 ◇ ◇ ◇


 相澤という名の男がいた。

 彼は何年も過酷な労働にさらされていた。

 日中は上司に怒鳴られ馬鹿にされる。

 終電よりも遅く帰り、始発で出勤する。

 業務は片付く間もなく、新たな案件が増えていく。

 学生時代にはやや肥満気味だった体重は減るばかりで、次第に目の下の隈は消えなくなった。肌も唇も色艶を失っていった。

 休息を取ろうとするも、休みの日にまで職場からの着信がどこまでも追いかけてくる。

 追い詰められた彼は、毎朝、鏡に向かって話しかけるようになった。


「お前は誰だ」


 彼の心の中は、「こんなはずじゃなかった」という思いでいっぱいだった。

 社会に出て多少の忙しさはあっても、人並みの給料をもらい、休日には趣味の旅行に出かけるような、平凡な人生を送るはずだった。

 なのに、朝起きて鏡を見る度に、そこに映る人物は憔悴し、別人のようになっていく。

 学生時代には頻繁に連絡を取っていた友人達とも、自分と違って楽しげな様子をSNSで見るのが辛く、次第に疎遠になっていった。

 遠く離れて暮らす両親には、彼らの期待するような大企業に潜り込むことができなかった時点で、見放されていた。

 今更、どの面下げて帰ることができるだろう。それに、上司相手に辞職したいと言い出す勇気など、心のどこを探しても残っていない。

 彼は、苛烈な状況から逃れたいと思いながらも、周囲から孤立していった。


 これは誰の顔なのか。

 自分は一体、誰の人生を生きているのか。

 彼はそう思うと、鏡に向かって聞かずにはおれなかった。

 洗面所で、独り言にしては大きな声を出す。


「お前は誰だ」


 ――俺はお前だよ。


 唐突に、鏡の中の男が返事をした。

 それがありえない事象であることだと認識できないほどに、相澤は疲弊しきっていた。

 むしろ、自分の問いかけに答えが返ってくることに嬉しさすら感じた。


「お前は……俺なのか」


 相澤は思わず、自分の目の前にあるガラスに触れる。固くヒヤリとした手触りは、いつもと変わらない鏡そのものだった。


 ――ああ、そうだ。

 ――俺はお前だ。


 鏡の中の人物は、相澤の模倣を止めた途端、同じ姿をしているはずなのに見知らぬ他人のようになった。

 現実の相澤よりも瞳にギラついた光をたたえ、口角が上がり、気力に溢れているように見える。


 ――なあ、お前、随分と辛そうじゃないか。

 ――ちょっと休めよ。

 ――その間、俺が代わってやるからよ。


 鏡の中の男は力強く言い、ニコニコと顔を近づけてくる。そのまま鏡から出てくるのではないかと思わせるほどに。

 それは、相澤にとって魅力的な申し出だった。久しぶりにかけてもらえた優しい言葉を、噛みしめる。そして、虚像の男に問いかける。


「その中では、眠れるのか。誰にも邪魔されずに」


 相澤は疲れていた。今、何よりも休息を必要としていた。

 鏡の中から話しかけてくる男が自分だろうが他の何かであろうが、どうでも良いと思った。

 何もかもから逃げ出して、ひたすらに眠れさえすれば。


 ――もちろんだ。

 ――たっぷり休むと良い。

 ――お前の気が済んだら、また交代してやるよ。

 ――決まりだな。


 虚像の男がニタリと笑う。

 相澤が了承の返事をするやいなや、二人は入れ替わった。


 鏡の中は、相澤の想像以上に闇に包まれていた。

 相澤は、上も下もないような、空中を漂っているような不思議な浮遊感を覚えた。

 一点だけ光に切り取られた四角い部分があり、そこが現実世界と繋がっている鏡面のようだった。

 見慣れた自宅の洗面所と、今会話をしていた男がそこから見える。

 男はバスタオルを取り出すと、光を塞いだ。

 鏡の中は、完全な闇に包まれてしまった。

 どこが出口かわからなくなってしまったな、と相澤はぼんやり思ったが、強い疲労のためそれ以上思考は進まなかった。

 とにかく寝たい、との思いで目を閉じる。

 静かだった。

 アラームにも、着信にも怯える必要のない眠りは、彼にとって久しぶりだった。

 相澤は力を抜き、ゆっくりと意識を手放した。


「やっと外に出られたぜ」


 虚像だった男は、感慨深げに両手を見つめた。試しに、何度か手を握りしめたり、腕を振ったりしてみる。


「……ちょっと身体が重いな。やっぱり、こっちじゃ俺も他の人間と変わらんか」


 ひとりごちて、深呼吸をする。


「ま、いいや。。俺なら、あんなしょぼくれた奴より上手くやってやるさ。一生な」


 瞳は、輝きに満ちていた。

 その様子は、今の会社に入社する前の相澤にそっくりだった。


 ◇ ◇ ◇


「おい! 起きろ! 起きてくれ!」


 相澤が暗闇での眠りから目を覚ますと、四角い光の向こうから自分と瓜二つの男がこちらを覗き込んでいた。

 男の頬は痩け、左眼の上に大きな絆創膏を貼っていた。

 唇の端はひび割れて、微かに出血している。


「コレ見ろよ、あいつ……お前の上司だ、あいつにやられたんだ……挨拶が聞こえないとか、そんなことで!」


 男は絆創膏を指して、嗚咽を漏らした。


「周りの、誰も……誰も助けてくれない、無視するんだ。笑ってる奴までいたよ」


 ――またかよ、そんなことで起こしにきたのか……


 相澤はうんざりした気持ちになり、冷ややかに返す。男が泣き言を言いに来るのは、これが初めてではなかった。


「お前の苦しみが、ここまでひどいものだったなんて、思わなかったんだ。見るのと体験するのとじゃ……全然違ってた。今日の怪我だけじゃない、毎日毎日……もう、俺には耐えられない」


 男は肩を震わせる。


 ――毎日顔を合わせていたのに、お前も、俺のこと何も見てなかったんだな。


 誰にも気に留めてもらえず、自分に向けられる笑顔は嘲笑にしか思えない。

 そんな相澤の孤独や辛さを、やっと理解してくれる者が現れたと思ったのに。虚像とはいえ自分であるはずの者すらそうでなかったことが、ひどく虚しく感じられた。


「なあ、頼むよ」


 男が相澤に懇願する。


「代わってくれよ、元に戻してくれ!」


 虚像だった男は、現実世界に出てきたことで既に力を失っていた。

 鏡の中の世界にいる相澤に頼むしかなかった。


 ――嫌だね。


 相澤は吐き捨てるように答えた。

 どうせ孤独なのなら、傷つけられないだけ今の方が相澤にとってマシなのだった。

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うつしみ 惟風 @ifuw

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