Ⅱ.漆黒の山間をゆく

 新宿を出て40分。

「吞まなきゃやってらんないわ~!」

 列車は相模湖を通過する。車窓はマンション群から一転、漆黒の闇を映していた。あずさ号はスピードを上げ、山間部の曲線、勾配、トンネルに勇ましく立ち向かっていく。その加速に比例するかのように、乗客の酔いは回っていった。


「まったくもう、電車に置き去りだなんて。あのままじゃ冗談抜きにゴミだったわよ。特急可燃物、処分場行きよ、ねえ」

 確かにそれはたまらない。折り返しの際見つからなかったのも不思議だ。

「折角のお休みよ?のんびりできると思ったのに。一緒に行こう~、とか言って旅行に連れ出されて、挙句旅疲れで寝落ちして、慌てて下車した拍子に置き去りにされて、東京に流されるの。ったく、蛙の休日犠牲にしてくれて!

 ……ねえちょっと楓太。聞いてるの」

 止まらない愚痴に「はいはい、聞いてますよ~」と相槌を打ち続ける楓太。貴重な初体験をぬいぐるみ相手にするとは思わなかったが、ビールおかわり、という要求に従い、再び小さな体を持ち上げてやった。どれだけ酔おうとも彼女は暴れないし、酒は減らない。こんなに質の良い酔っ払いも、そうはいまい。

「大変だったんですね。どちらまでお出かけに?」

「長野よ。特急二本乗り継いでね。はあ……私がいなくて寂しいなら、家から出なきゃいいじゃない。隣県だからって、甲府から長野って結構遠いのよ」

 冗談じゃないわよ、を何度も繰り返すヒメ。二つの都市のことは楓太もそれなりに知っている。あずさ号は山梨・甲府を出ると諏訪、塩尻と経由し、終点・松本を目指す。松本から長野までは普通列車に乗り換えて更に1時間を要するが、名古屋からやってくる特急しなの号に乗り換えれば速く到着できる。二つの特急を乗り継いで甲府~長野を移動する場合の所要時間は、概ね二時間と数十分。

 日帰りもできないことはない。だが彼女には堪えたのであろう。「何が、たのしいね~、よ。旅行ならせめて酒蔵にしなさいっての」となおもヒメは捲し立てた。


「大体ねえ、ぬいぐるみだからって永遠の幼稚園児扱いよ。あの子ったらいくらおやつ食べさせてくれるからって、ショートケーキ食べた後に果汁100%のオレンジジュースよ?見た目からして甘ったるいものをこれまた無理矢理飲み食いさせて、おいしいね~、よ?私ミオより20年以上も上なのよ」

 想像通り、ぬいぐるみの持ち主は幼い子どものようだ。なおもビールをねだるヒメに同情はしつつも、楓太はどこか懐かしく思った。何も知らなさそうな、おいしいね、という幼い笑顔が、ケーキの味と共に感覚を支配する。

「それは甘すぎますね。でもミオちゃん、きっとヒメさんが大好きなんですね。おやつもあげて、旅行でも一緒で」

「大好きなら置き去りにするんじゃないわよ馬鹿!」

 なだめるつもりが、火に油だったようだ。しかし怒られても楓太にはどうしようもない。


 大月を発車したところで車内販売がやってきて、何も聞こえないかのように通り過ぎていった。寂しい、悔しい、帰りたい、大好き―なおも捲し立てる彼女の感情を、楓太だけが受け止めようとしている。

「あ~もう、全部マオが悪いのよ。ヒメちゃん大好きよ、いつか大人になってもお酒で乾杯しようねって言ってたくせに!抱いてないと寝られなかったくせに!ずっと一緒だよって、大事にしてくれたのに!

 勝手に結婚したと思ったら、あっさり子供にあげちゃうんだもの。お酒で乾杯どころか子供に逆戻りよ?……あああ、もう!マオの馬鹿!」


 止まらない愚痴を聞きながら、楓太は缶ビールを傾ける。少しずつ350ml缶は軽くなっていた。車窓は甲州へ近づいていく。行き違う普通列車は、東京のそれとは違う色をした、短い編成だった。

 背もたれを倒して足を伸ばし、車輪とレールの共鳴に耳を傾ける。コトッ、ゴトッ……という音はしかし大変静かで、とても切なく悲しげな音色を奏でていた。

 ―マオ。

 自分も酔ってしまったようだ。持ち主の家族であろう、知らない誰かの名前を思い浮かべながら、楓太はシートに身を委ねた。

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