甲斐路の忘れ物
白幸虎仁朗
Ⅰ.新宿9番線と夜の異空間
「あら、どうしたの?」
黒く大きな瞳と邂逅する。思わず口を出た「えっ」という音と共に困惑し、
(……どういう状況、これ?)
信じられない、奇天烈、摩訶不思議―乗り込んだ特急列車の客室、その僅かな空間だけが、異空間のようだった。
全席指定の列車だ。ホームから「切符をご確認の上、指定された座席をご利用ください」と注意を繰り返す放送が聞こえる。楓太は何度も携帯の画面を見返して、合ってるよな、と確認しては立ち尽くす。
【21:00発 あずさ55号 12号車 7番D席】
チケットレスサービスで、一時間前に予約したばかりだった。ネット上で列車の指定席を買える仕組みで、決済完了の画面がそのまま切符の代わりになる。
ふと周りを振り返ってみた。座席列の上に、赤い色のランプが整然と並べられている。
「……この号車、俺しかいない、よね」
列車の予約状況は、座席上のランプの色で分かるようになっている。この12号車では、中央の7-Dと書かれた座席上に、車内では唯一緑色が光っていた。
楓太が購入し、確かに予約された座席。だがそこには、先客が鎮座している。
「何よ」
(えっ)
再び楓太は困ってしまった。
というのも問題は「指定を受けた座席に座れない」ということだけではないのだ。
(やっぱり、喋ったよね)
発車3分前になっても、乗客は変わらず自分しかいない。先客が座席未指定券で乗っている場合は、他の空席に移動してもらう必要がある。だが先客は微動だにしてくれない。……というか、できないだろう。
(そうだよね、喋るわけないもんね)
きっと寝惚けている。そんな楓太の思考を嘲笑うかのように、
「何なのよもう。ヒメがかわいいからって、ガン見なんて失礼じゃない」
丸く見開いた瞳に、にっこりと笑って閉じた口元とは、どう考えても釣り合わない剣幕だった。思わず「すみません」と後退りしながらも、楓太は疑いを拭えない。
―ヒメ。
そう名乗る彼女は、小さい。ソフトボールくらいの大きさには、座面どころか窓枠で十分足りそうだ。暖かさを醸し出す若苗色の肌には、呼吸をしているような動きは無い。
(夢じゃないのか、これ)
やはり信じられない、あり得ない―そんな心を読むように、
「失礼ね。カエルのぬいぐるみが一匹で電車に乗ってたらおかしいかしら」
「おかしいでしょそりゃ」
言いながら自分の頬を楓太はつねってみる。痛覚と共に、これが現実よ、という声が耳を打つ。
「もしかして、ここの指定かしら?邪魔してごめんなさい」
ヒメ、と名乗る先客は、幸い指定席のルールを理解してくれたようだ。「あっ、いえいえ、恐れ入ります」とたどたどしく返しながらも、善良な市民で助かった―と、一瞬でも思ったことを楓太は反省した。
「私こう見えて飛んだり跳ねたりもできないの。申し訳ないついでに、持ち上げて動かしてくれるかしら?」
何が「こう見えて」だよ。今更突っ込む必要性も感じられなくて、楓太はあまりに軽い身体を、ひょい、と持ち上げてやった。
(いかにも子供向けのぬいぐるみ、だな)
両生類特有の湿り気……などあるはずはない、若苗色のやわらかな肌。ひっくり返してみれば、白い腹の外側に、四本の短すぎる足が隠れて付いていた。
―ヒメちゃん。
試しにそう付け加えてみると、恐ろしいくらいにしっくり来る。
(……かわいい)
実物の蛙とは程遠い、愛嬌を持たせたデザイン。ほのかに香る日だまりのような暖かさに、吸い込まれそうになる。
「ジロジロ見たり触ったりしてないで降ろしなさいよ、この変態!」
笑顔を崩さずに激怒するヒメ。ぬいぐるみとはいえ嫌なものは嫌、ということだ。
未だに眠る気配のない新宿を、あずさ55号は静かに発車した。
「あずさってすごいのね。窓の外は都会の中央線よ」
中野駅で通過待ちをしていたオレンジ帯の電車、その満員ぶりを眺めながらヒメは言う。吊革にぶら下がるサラリーマンが舟を漕いでいる。通勤電車の窓が映し出す、白い車体と紫の帯が誇らしい。
「東京ってすごいけれど、やっぱり大変なのね。いつもあんな風に通勤してるのかしら」
首都の高層ビル群や繁華街が車窓を流れていくのを、なおもヒメは見ていた。夜になっても賑わいを増していく街並みは、憧れや興奮を与えるだけではなかったようだ。
「東京は初めて来たんですか?」
「というわけでもないけれど……こうして夜遅くまで東京にいて、遅い時間のあずさに乗ったことはないわ。ほんと……何もかもが不思議ね」
窓枠のわずかな場所に乗り、なおも真剣に外を眺めるヒメ。「蛙のぬいぐるみが同乗して話しかけてくる」という点を差し引いても、夜に甲州・信州へと下っていく特急あずさ号は、楓太も不思議な空間だと思った。
高円寺、国分寺、三鷹……と、未だに帰宅ラッシュの続くホームを颯爽と通過する、ガラガラの特急列車。このギャップが面白い。
ぐう、と腹が情けない声を上げる。乗車前の買いものを思い出し、楓太はビニール袋から箱を取り出した。
「すみませんけどお弁当食べてもいいですか?晩飯まだなんで」
赤地に白で「焼肉弁当」と書いた四角いパッケージ。置いた途端「なんで謝るのよ」と言われる。
「お腹減ってなくても、特急に駅弁は欠かせないわよね。食べましょ」
取り付けられたプラスチックの目玉からも伝わる「まだかまだか」という期待。いちいち困惑するのも飽きてきて、小さな体を再び持ち上げてやった。
「美味しい~」
楓太の左手に支えられ、ヒメは勢いよく焼肉にかぶりつく。今度は嫌がらなかった。閉じたままの口には何も入らず、四角形の左半分を占める焼肉も、右側の空白にそれぞれコロッケ、玉子焼き、漬物と配された付け合わせも、一向に減ることはなかった。
それでも、
「いいお肉ね。ああ、ビールが飲みたいわ。車販が来たら買って頂戴」
にっこりと笑う口元と黒く丸い瞳で、これほどまでに我が物顔な要求をしてくるぬいぐるみが他にいるだろうか。本来の持ち主はさぞ大変だろうなあ―と同情するのをごまかして、
「お酒飲めるんですね。黒ラベルなら2本買ってありますけど」
350ml缶の蓋が、カシュッ、と軽快な音を立てる。お酒が待ちきれないのは楓太も同じだった。
「列車に乗りながら飲む酒は美味いですよ~、はいどうぞ」
「あんた最高よ。いただきま~す」
再び左手に支えられたヒメは、缶の口からビールを吸い込む真似をして「ぷはあっ」と声を上げた。
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