あの人と、桜の木

若子

初春


 桜が舞う頃、君は決まって涙を流す。だから僕は春が嫌いだった。昔は好きだった桜も、そのせいで嫌いになった。春なんて、来なければいい。桜なんて、全て枯れてしまえ。あの忌まわしい女のことなんて、思い出さなくていいのに、君は毎年この桜の木を見れば彼女のことを思い出して涙を流す。……これは、呪いだ。

 そうさ、確かに彼女と君は、恋人同士だったよ。とても幸せそうに過ごしていたね。でも、もういいじゃないか。それは、数十年も前の話じゃないか。何故過去ばかり見て前を見ないんだ……なんで、僕を見てくれないんだ。

 家の庭に生えた桜の木に蕾が顔を見せ始めているのを見て、僕は今日何度目か分からないため息を吐いた。

 ……呪いだ。本当に、呪いだよ。彼女の呪いは彼だけではなくて僕をも縛る、大きくて、頑丈な、鎖だ。

 少しだけ大きいナイフを持ってスリッパを履き庭に行く。木の幹まで近づけば、「ずっとだいすき」とカタカナで書かれた文言が目に入った。……彼女が最後に残した言葉だ。全く、どうして僕の家の庭に生えている木に書くのか。迷惑でしかないな、とぶつぶつ呟いて、少し薄くなってしまったその跡に沿ってナイフを入れる。

「こうすれば、貴方は絶対にあの人を気にかけるでしょう?」

 あの人を、守ってあげて。とても繊細な人なんだから。そう言った彼女の言葉が、耳元で聞こえてきたようだった。

「……貴方が守ってあげればよかっただろう」

 この世にはもういない彼女に向かってか、それともただ呟いただけか、それは自分でも分からなかった。ひどい女だ。よりにもよって彼に想いを寄せている僕にそんなことを頼むだなんて。おかげでこの恋を忘れることが出来ないじゃないか。

「……まあ、確かに僕はただの親友にしか見えなかっただろうよ」

 彼の側にいるために必死にそう見えるように行動しているからな、と自分を笑った。この親友という立場を守るために、彼の恋人という立場を諦めているのだ。彼の傍に居られないなんて、そんな道を選ぶくらいなら、恋人という立場くらい諦めるさ。僕は男で、彼も男だ。彼が同性愛者でない以上、この立場が一番彼の近くに居られる立ち位置だろう。僕は、彼が幸せな姿を見るだけでいい……はずなのだ。

 ……彼女は、思い違いをしている。僕は元来優しい人間では無い。僕が律儀に毎年この木のメッセージを残すように努めているのは、別に彼の悲しい顔を見たくないだなんて理由じゃない。彼を守るためでも、ない。今まで何十年と彼を守るためなんだと自分に言い訳をしてきたが、もう限界だった。

 あの木があるから、あのメッセージが残っているから彼は彼女のことを忘れない。彼が彼女のことを思っているうちは、毎年春に、薄桃色の花びらと共に散った彼女のことを思い出すために、彼はこの庭へと足を運ぶ。ずっと自分を忘れないでだなんて、なんと自分勝手で、残した者を縛り付ける言葉だろうか。

 ……なあ、早く離してやれよ。何年も何十年も、彼女のために涙を流す彼を見るのは、耐えられないんだ。解放してやってくれ。なあ、ナイフで何度も何度も、毎年春に桜が咲く前に切れ込みを入れて。自分が苦しいだけだろう。……ああ、呪いだ。鎖だ。僕がその刻印を更新するから、彼を強く縛る鎖は緩む気配がない。そんなの分かっているよ。仕方ないじゃないか。好きで好きで、仕方がないんだ。どんな形だろうと、僕の傍にいて欲しいんだ。ずっと、出来るだけ近くに、いたいんだ。

「……大好きだよ」

 僕の言葉が彼に届くことなんてこれから一生無いだろう。この言葉は、彼女のものなんだから。けれど、どんな気持ちでこの桜の木を切りつけても良いじゃないか。届かない気持ちなんて、気付かない相手からしてみれば、無いのと同じなのだから。

「ずっと、大好きだ」

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あの人と、桜の木 若子 @wakashinyago

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