第53話 私たちは劣化している

 こんにちは。白です。

 今回は「自分は劣化しているな」と感じたお話です。


 ここ数ヶ月の話だ。

 本屋に行って哲学の本を探していた。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』で、二十代のころに読んだが内容を忘れてしまったのでもう一度読もうと思ったのだ。

 わりとメジャーな本なので、このくらいはあるだろうとすこし遠めの駅ビルの本屋に行った。

 駅ビルの本屋が四分の一に縮小されていて、私は「あらら」と思いつつ別の本を買って帰った。


 最近大きな本屋が潰れたり縮小したりしている。別の駅前商店街の大きな本屋も、規模が縮小され、やがて閉店していた。街の大きな本屋にはきちんと哲学書のコーナーがあったのだが、見かけなくなったなと思う。

 別の駅のショッピングモールの本屋に行った。大学がある地域の本屋なので、そこなら大丈夫だろうと思ったのだ。

 哲学書のコーナーはあっても、哲学の本がなかった。あるのは入門書と哲学のハウツーのような実用書だけだ。本屋の面積がそれなりにあっても、専門書があるのはビジネスコーナーだけで、文房具のコーナーが四分の一を占めていた。

 なんとなく嫌な予感がした。


 以前はあった各部門の専門書が軒並み消えている。専門書の紹介や内容を解説した実用書はある。しかしその原本がない。そんな感じの減り方だ。

 家人が「八重洲ブックセンターがなくなったので、東京に来たときに寄る本屋がない」と言っていた。八重洲ブックセンター本店は再開発後の建物に出店するようなので潰れたわけではないが、ここ数年は営業しないようだった。

 某川に頼めばすぐに本が届くのだが、自分のその姿勢が悪いのだろうなと思う。


 東京へ出張したときに本屋へ本を探しに行った。神保町まで行くのが面倒だったので、丸善の本店に行った。

 ここまで来てようやく専門書の棚があり、私はフロムの本を入手できた。

 しかし二十代のときこの本を買ったのは、大学のあった街の駅前の小さな書店だ。そのころには小さな本屋にも専門書が置いてあったのにと思い、ここまで来ないと満足に本の背中を見ることができないのかと私は途方に暮れた。

 街の本屋に目当ての本がないと、安易に某川に頼んでしまう自分が悪いのだろうと思った。


 新刊を売る本屋に目当ての本が少なくなった。

 一番手に入りやすいのが、恐ろしいことだが規模の大きなブックオフだ。

 エンターテイメントの本は毎月たくさん発行され、本屋にも出ている。しかし今までの古典や専門書が軒並み手に入らない。買う人が少ない本は淘汰されていく。おそらくそうだろう。しかしここ数年の本屋の変容は、情報のソースになる本が根こそぎ消えていく、そんな感じの変化だった。

 自分の本棚を振り返る。実用書は手元に残していても、ソースになる本がない。本を読むと放流してしまう体質が悪かったのかと、すこし呆然とする。


 断捨離は社会の流通がまともに機能しているときしかやってはいけない現象だと思っている。

 最小限のもので暮らすという行為は、必要なものをそのつど手に入れていく、そのシステムがないと成り立たない。

 ある日社会のインフラが止まり、ものが手に入らなくなったら、私たちは自分で水を汲みエネルギーを作り、食料を入手しなければならない。

 今の政府があてになるとは思えないので、私は数ヶ月くらいはインフラが止まっても自力で暮らしていけるよう、システムを組んでいる。

 そのための道具を断捨離する気には到底ならない。


 私がシステムを組んだのはハード面だけで、ソフト面のほうはあまり考慮していなかった。

 もしかしたら自分に必要な専門書は手元に置いておかないと駄目なのかと、最近すこし反省したところだ。

 自分の精神をつくるものはきちんと自分で保全しなければならないのだと気づいて、最近は本棚を増やしている。

 狭い家にどうやって保管しようかと悩みながら本の背中を眺めている。

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