エピローグ


 波打ち際に白い光が当たり、飛ぶ飛沫がきらきらと乱反射している。

 そのそばを小さな子供が母親に手を引かれながら歩いていた。

 波がふたりの足跡を消していく。

 何度もそれを繰り返す。

 真琴はその景色を撮った。



「ああーいいなあー」

 唐突に声を上げた増村に、高橋は受話器を上げようとしていた手を止めた。

「え、何?」

「だって、真琴くん今日旅行でしょう?」

「旅行っつっても近場でしょうが」

「それでも! 羨ましいー」

「そういうもんすかねえ」

 電話を掛けるのを諦めた高橋は増村の愚痴に付き合うべく、頬杖をついて向き合った。増村は抱えていた書類を、どさっと高橋の前に置く。

「印鑑下さい」

「はーい」

 斜めに書類を確認しながら、指定された箇所に印鑑を押していく。

「まあ旅行っつっても、あいつの育ての親の墓参りなんでね、大目に見てやってください」

 そう言うと、所長、と呆れたような増村の声がした。

「そんなの当たり前じゃないですか。何言ってんですか、そこじゃないの、私が言ってるのは」

「ええーじゃあ何、何なんですかー?」

 彼女とは前にいた会社からの長い付き合いだが、こんなに絡んでくるのははじめてではないだろうか。

 いや、ここ最近はやけに高橋に手厳しい気がする。

「好きな人と旅行なんていいなあ、って、それです」

「あーそれね…」

「それ」

「あなた結婚してるでしょう?」

「まあそうですけどね」

 全ての書類に印鑑を押し終って顔を上げると、じいっと増村が高橋を見下ろしていた。

「え、何?」

「いーえ」

 差し出した書類を受け取っても増村は視線を外さなかった。

 あれ、なにこの空気。

「所長はさあ、ほんと、自分の事に死ぬほど鈍感ですよね」

「は?」

「そんなんだから持ってかれちゃうんですよ」

 ぽかん、と高橋が固まっていると、大袈裟に増村がため息をついた。

「私陰ながら応援してたのになあ」

「え、なに、何のこと?」

「ほんっとどーしようもないですよね昔っから!」

「ええ?」

 呆れ切った冷ややかな目を向けられて、高橋はがたん、と椅子から立ち上がった。なんだか分からないが、今日という日を無事に終えるために機嫌を取っておいたほうがよさそうだ。なにせ明日も真琴は休みなのだから。

「増村さん、お茶淹れるけど飲みますっ?」

「いーえ結構」

「どら焼きあるけど?」

「……」

「あ、生クリーム大福が冷蔵庫に」

 被せ気味に言うと、しばしの沈黙ののちに、熱いやつで、と返事が来た。


***


 立て込んでいた仕事が一段落ついた六月の半ば、篠原は溜まっていた有給消化のため、平日に休みを取ることになった。

「え、休み?」

「うん、二日ほど。よかったら、少し遠出しないかと思って」

 篠原は真琴に休みを取れるかと話をした。戸惑った顔をした真琴に、篠原は笑みを返した。

「遠出と言っても、隣のK県だよ。駄目なら日帰りでもいいし」

「なんでK県?」

「谷上さんのお墓があるんだ」

 真琴の家に登和子がいたとき、彼女は住み込みで働いていた。その職を辞めたいと申し出た登和子に、真琴の両親は退職金としてかなりのまとまった額を登和子に渡したという。元々身寄りのなかった登和子はその金で小さな家を買い、生涯をそこで終えた。生前体の調子が優れなかった彼女は、誰にも迷惑をかけないようにと、墓や葬式の算段をすべて付けて亡くなったそうだ。

 真琴は辞めたあとの登和子の行方を知らされなかった。

 亡くなってしばらくしてから、その知らせを手紙で受けただけだ。

「ちょうどその日が命日なんだ」

 篠原も詳しく知っていたわけではなかったが、真琴には内緒で高橋に調べてもらっていたのだ。休みのことも、あらかじめ了承済みだ。真琴が高橋に申し出れば、休みは取れることになっている。

「そう、なんだ」

 うん、と篠原は頷いた。

「一緒に行かないか?」

「うん、行きたい。あ──でも」

 少し顔を曇らせて真琴は言った。

「休み取れるかなあ」

「高橋さんに話してみたら?」

「ん、そうだね、言ってみる」

 嬉しそうに笑う真琴の目元に、篠原は口づけた。



 傾いた陽が、波打ち際を照らしている。

 藍色を落としたような橙色の光、その中に佇む真琴の後ろ姿を、篠原は見つめていた。

 銀色の髪が海風に揺れる。

 紺色の長袖の麻のシャツに黒いズボン、裾は濡れないように捲り上げていた。脱いだ靴は篠原の傍にある。

 給料を貯めて新しく買ったカメラを首から下げ、真琴はもう一時間近くも海に向けてシャッターを切り続けていた。

 腕まくりをした腕は光を受けて白く輝いて見える。

 浜辺を歩く人たちが遠巻きに真琴を見ているのに、きっと本人は気がついていないのだ。

 振り返らない背中が少し寂しい気がして、篠原は自嘲気味にそんなふうに思う自分に苦笑した。

 寂しい。

 こっちを向いて、見て欲しい。

 登和子の墓参りは無事に終えることが出来た。

 彼女の住んでいたという家にも行ってみたが、家は既に人手に渡っていた。残された家の中のものは登和子があらかじめ契約していた業者が処分したようだった。きっと真琴が見つけてきたあの本は、そうした混乱のような経緯の中で、人の手に渡り戻って来たのかもしれないと篠原は考えていた。

 遅い昼食を取り、宿泊予定のホテルに向かった。

 そのホテルの近くに海があると知った真琴は心底嬉しそうで、部屋に荷物を置くなり浜辺に行こうと言った真琴の言葉を断れなかった。本当なら部屋で独り占めしたい気持ちを、篠原はじっと我慢している。

 陽が陰り、空の青が濃くなった。日が暮れていく。

「──真琴」

 少し風が冷たくなってきた。

 声を掛けると、しばらくしてから真琴が振り向いた。

「あと少し」

 ごめん、と真琴が言った。

 篠原は笑って頷いた。ポケットから、小さなキーホルダーを取り出す。それは真琴がくれたUSB型のおもちゃのカメラだった。

『これね、篠原さんの本を探してるときに行った雑貨屋さんにあったんだ。ちゃんとこれでカメラなんだよ? こーやって撮って、パソコンに保存できるの』

 ひと通りやり方を教えてくれた真琴は、それを篠原にくれた。

『こんなんでごめんだけど、記念にと思って。渡すタイミングずっと逃してて、なんか今更だけど』

 記念。

 出会えたことの記念に。

『ありがとう、嬉しいよ』

『今度なんか撮って見せてね』

『ああ』

 手の中のものを篠原は温かいと思った。

 でも、真琴は忘れている。

 出会った記念のものは、もうずっと前に貰っていた。

「…思い出さないかな」

 誰にともなく篠原は呟いた。

 もう片方のポケットには、あの雪の日に真琴から貰ったフィルムが入っている。

 今夜、篠原はそのことを言うつもりだった。

 ずっと、ずっと、探してきた。

 あのときから、恋をしていた。

 真琴にだけ。真琴にだけだ。

 投げやりのように結婚をし、自分は人とは違うのだと思い知ったとき、もう誰もが味わう喜びを自分は知ることが出来ないのだと感じた。

 まさかこんな日が来るなんて、思いもしなかったけれど。

 篠原は小さなカメラを真琴に向けた。

 愛しさで胸が苦しくなる。

 ガラスの向こうに透ける美しい景色。

 夢のように、それはあの日と重なって鮮やかに色づいて、真琴が何気なく振り返った瞬間、篠原は忘れたくないとその世界を切り取った。

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誰もが夜に夢を見る 宇土為 名 @utonamey

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