23
階段を上がると、改装中の2階の事務所から工事の音が聞こえてくる。踊り場に置かれた工具を取りに出ていた作業員と挨拶を交わして、真琴は3階へと上がった。
「おはようございまーす」
ドアを開けると、おはよう、と増村が奥から声を掛けてきた。高橋はもう出勤していてデスクで電話中だ。真琴を見てひらりと手を振った。真琴も声に出さずにおはようと言った。
「真琴くーん、ちょっといいかな」
「あっ、はーい」
荷物を置いて真琴は声のするほうへと向かった。
いつもの朝。
あれから3週間が過ぎていた。
午後、高橋は以前から抱えていた案件のために出掛け──午前中の電話はどうやらそれ絡みらしかった──事務所には増村と真琴のふたりだけだった。
時刻は昼を指していた。
外は春とは思えないほどの強い日差しのせいで、初夏のような陽気だ。明日からの週末は絶好の行楽日和だと、昼のニュースで言っていた。
「でもさー、今の時期どこ行っても多いのよねえ」
「ああそうだよねえ、みんな考えることは一緒だし…」
「そうなのよね。真琴くんは行った? お花見」
「んー、行ってない、かな」
パソコン越しに向かいのデスクの増村に返事をする。キーボードの操作音が2台分重なって、小気味よいリズムで続いていた。
作成した文書を保存して、フォルダに整理して、また新しい文書を作る。今週は前半から何かと慌ただしく、事務作業が滞っているので、昼食を片手でとりながら、昼休み返上でふたりで手分けをして片っ端から片付けているのだった。
「そっかあ、うちも行ってないのよ。明日行こうかと思ってたけど、この分じゃ混みそうだしね」
「そーだよねー」
コンビニで買って来たサンドイッチのパッケージをぴりぴりと剥がしながら、真琴は椅子に寄りかかった。ひと口齧って、コーヒーを飲もうとして、マグカップの中身が冷めていることに気づいた。よいしょ、と立ち上がる。
「コーヒー淹れなおそ、増村さんもなんか飲む?」
「うん。じゃあ私カフェオレ」
「はーい」
モニターを睨みながらカレーパンを齧っている増村に返事をして、真琴は給湯室に向かった。カレーのいい匂いに、今日はカレーにしようかな、などと思う。篠原も今日は早いみたいだし、もし遅くなっても温めるだけでいい。
そうしよう、と真琴はひとり頷いていた。
***
あのあと、篠原とゆっくり話が出来たのは、岩谷のことがあってから三日後の金曜日だった。
昼過ぎ、事務所のドアが開いた。
「こんにちは」
「こんにちは、いらっしゃい」
約束の時間通りぴったりに来た篠原に、真琴は笑顔を向けた。
「今日は高橋さんは?」
応接スペースのソファに座りながら、篠原は真琴に訊いた。
「出掛けてる。あの人大概いないから…、あっ、と! いないんです」
「そう」
普段通りに話してしまい、ここは職場だったと言い直した真琴に篠原は小さく笑って頷いた。
「用でしたか?」
「ちょっと挨拶したかっただけ。…敬語やめていいよ?」
「いや、一応けじめだし」
声を潜めて言う篠原に真面目に真琴は答えたのに、篠原はひどく可笑しそうに目を細めた。うわ、と真琴は内心でどきりとした。
無表情だと──あまり感情を表に出さない人だとばかり思っていたのに、最近の篠原は時折すごく柔らかな顔をする。
「失礼しまーす、お茶、どうぞ」
増村がお茶を持って来て、篠原の前に置いた。
「ありがとうございます」
「真琴くんも」
「ありがとう」
じゃあ何かあったら呼んでね、と真琴に言い、篠原に会釈をして増村はパーテーションの向こうに行った。パソコンのキーボードを打つ音が小さく聞こえ出す。
真琴は篠原の前に取り戻した十一冊目の本を置いた。
「遅くなってしまいましたけど、これが取り戻してきたものになります。確認してもらっていいですか?」
「勿論」
篠原は本を手に取って、ゆっくりと捲った。
それを眺めながら、真琴は言わねばならないことを切り出した。
「ただ、あの…」
篠原が視線を上げる。
「その本なんですけど、所蔵印が入ってたんです」
「え?」
「俺も、うっかりしてて、忘れてて。後で気がついたんですけど、本当なら入ってなかったんですよね?」
「ああ、確かにそうだけど…」
篠原は眉を顰めて裏表紙を捲った。
椿の模様の落款が現れる。
「でも印は確かに篠原さんのおばあ様のものだし、それで、もう一度確認を取ったんですけど、それをはじめに買い取った店は、買い取った以外の詳しいことは何も分からないみたいで」
所蔵印のことを思い出したのは、あの日の翌日、篠原の元から出勤したあとだった。前日のままになっていた鞄の中を見て、篠原に言うのをすっかり忘れていたと思い、手に取ってふと違和感を覚えたのだ。何かが引っかかっていた。
『落款は、これですよね』
『はい』
確かに見た椿の印。けれど、本来はなかったのではなかったか?
慌ててメモ書きを見て青くなった真琴は高橋に相談してすぐに昨日の店主に問い合わせ、元々買い取った店に心当たりはないかと訊いてみたが、常連でもない客の持ち込んだものの軌跡など分かるはずもなく、それでもそれらしい店舗の候補をいくつか上げてくれた。
その店舗を全部回って話をして分かったのは、はじめに買い取った店舗は判明したが、それ以上のことは分からないと言うことだけだった。
「ごめんなさい、俺がもうちょっとしっかりしてれば」
本当にごめんなさい、と真琴が頭を下げると、いいんだよ、篠原が静かに言った。
「これは祖母の印に間違いはないし、きみが間違ったなんて思ってないよ」
そんなふうに慰められるのはなんだか情けない気がした。そばに置いておいた鞄の中から、真琴はもうひとつ、そっと取り出した。
「…あと、これ、だけど」
篠原の前に置く。
篠原はそれに視線を移した。
「この人を知ってますか?」
それは岩谷が見つけたという真琴の撮った登和子の写真だった。
単純に考えるなら、今目の前にある本の中に貼りついていただろう写真だ。けれどひとつ疑問に思うのは、写真のほうには、どこにもその痕跡がないということだった。写真の裏側はとても綺麗で、端のほうに小さく書かれていた文字もしっかりと読み取れる。損傷は全くなかった。
もしもこれが仮に本に貼られていたのなら、本のページは破り取られるほどなのに、写真自体にダメージがないのはあり得ないことだ。
これはどういうことだろう?
篠原は目を少しだけ見開いて、驚いた顔をしていた。
「この人は、…この本を書いた人だ」
真琴は目を見開いた。
「祖母の幼馴染みなんだ」
「幼馴染み?」
「ああ、年は離れていたけど。確か…何年か前に、祖母が亡くなったのと同じ頃に亡くなられた」
「谷上登和子さん?」
篠原は真琴を見た。
「そう、谷上さんだ。それも調べたの?」
真琴は苦笑して首を振った。
「俺ね、ずっとこの人に育てられたんです。小さいころうちに来てた家政婦さんなんだ」
「え?」
「これ、どういうことなんだろうね」
岩谷がわざわざ嘘をつくとも思えない。篠原の元妻の文子の車にあったのは確かに篠原の祖母のもの、所蔵印のない十一冊目のはずだ。
『暇だったから車に積んであった本を見てたんだよね。そうしたら、本の間からこれが出て来た』
出て来た──
開いたページの間からひらりと落ちるイメージ。
「本の中に入ってたって、岩谷は言ってた。篠原さん、知ってた?」
少し考え込むように篠原は唇に指を当てた。
「分からないな。実は祖母の家から引き取ってから、中を改めて見たことはなくて…昔に読んで印がないことは知っていたから、それは間違いないと思うが」
「そっか」
真琴は写真を見つめる。
困ったように笑う、懐かしい姿。
登和子がこの本を書いた。
「この本はね、生前ごく近しい人だけに贈られた、登和子さんの私家版なんだ。物を書くのが好きな人だと祖母に聞いたことがあるよ」
「…そうなんだ。俺、全然知らなかった」
篠原に手渡された本を真琴は受け取って、その表紙に目を落とす。
『海辺の際で』と箔押しされた銀鼠色の文字が、薄く銀を混ぜた青碧色の紙に溶け込むようにそこにある。
海辺の際で、登和子といた日のことが蘇ってくる。
あの日の海もこんな色だっただろうか。
「どこかで入れ替わったのかもしれないね」
顔を上げると、篠原が柔らかく微笑んでいた。
「ふたりはとても仲が良かったから、本自体がいつか知らない間に入れ替わっていたのかも。うちにあったものが登和子さんのもので、祖母のものは彼女が持っていたんじゃないかな。それが彼女が亡くなったあと、ご家族が間違って…」
「…処分してしまったのかもしれない?」
篠原は頷いた。
「可能性はいくらでもあるよ」
きっと、本当のところは誰にももう分からない。
どこかを廻って篠原の元に戻ってきた彼の祖母の本は、中の一部が欠落したまま。
そこに何があったのかは、誰も知ることが出来ないのだ。
「そういうことでいいのかな」
「いいんじゃないかな」
ふたりして見合って、くすりと笑い合う。
そろそろ時間だと、篠原が暇を告げる。
「あ、もうこんな時間っ、話長くなってごめん」
「大丈夫だよ」
ところで、と篠原は立ち上がろうとした真琴に顔を近づけ、耳元で囁いた。
「今日空いてるかな?」
「……っ」
頷くと、軽く唇が触れ合った。
いつのまにかパーテーションの向こうの人の気配はなくなり、キーボードを打つ音も聞こえなくなっていた。
***
高橋が夕方遅くに戻って来たとき、既に増村は帰り支度を終え、今まさに帰ろうとしているところだった。
「うっわ、所長ひっどい顔!」
ドアを開けて入って来た高橋に増村は声を上げた。
「ああもう死にそう」
「なんかあったんですか?」
「あったよあったよ俺はもう死にそうだよ…」
よろよろとデスクに辿り着いて、どさっと椅子に体を投げ出す。それを心配そうに見ていた増村は真琴くん、と奥に声を掛けた。
「所長が死にそうだよ!」
「ええ?」
給湯室から顔を出した真琴が驚いた顔を高橋に向けると、高橋がひらひらと手を振って、真琴を呼んでいた。
「うわ、なにどうしたの?」
「甘いもん食いたい」
「えっ、買ってくりゃいいじゃん」
下で、と言いかけると、じろりと高橋に睨まれた。
「俺はねえ、今あんことかそういうのがいいの、大福とか饅頭とかどら焼きとか、そういうのがいいんだよ、ちょっと買ってこい」
「ええー…」
なんだろうこれ、すごく面倒くさい。
「私行こっか?」
真琴くんまだ仕事残ってるでしょ、と増村が言う。
「え、いいよもう時間だよ、お迎え」
「あーそっか」
増村とふたりして小さく話していると、高橋がばたっとデスクに突っ伏した。
「どっちでもいいから早く買ってきてっ!」
「……」
真琴と増村は顔を見合わせた。真琴は財布を掴むと、ふたりして事務所を出た。
「はい、これ」
どさっと買って来たものを高橋の前に置く。高橋は事務所を出た時のまま、デスクに突っ伏していた。
「あとこれ増村さんから」
途中まで一緒に行ったコンビニで増村が自宅用にと買い求めたプリンをひとつ、横に添える。高橋へのお裾分けだった。
「なんかあったの?」
全然動こうとしない高橋に真琴は言った。うーん、と唸り声を上げて、高橋はちらりと真琴を見上げる。
「どうしたの、歩先輩」
「疲れた」
「うん」
「すげえ疲れたんだよ。それだけ」
「そっか」
昼から出かけた高橋は、以前から取り掛かっていた資産家の男性の縁者探しの件で、その資産家宅に行っていた。探していた資産家の兄妹はひとりが見つかり、ひとりはすでに亡くなっていたという結果を伝えに行くと聞いていたが…
そこでまたひと悶着あったのだろう。
「お疲れさま」
よしよし、といつもは撫でられてばかりの高橋の髪を、真琴はそっと撫でた。硬くて男っぽい髪が、指の間でわさわさと揺れる。
「あー癒されるわ」
「そ?」
「ん」
伏せた高橋の顔は見えないが、肩から力が抜けていくのがなんとなく分かった。真琴は髪を撫で続ける。
「真琴」
「なに?」
「家族なんてさあ、めんどくせえよ」
「…うん」
それは身をもって知っている。高橋だって、口に出しては言わないだけで、自らの家族と折り合いの悪かった時期があったと、薄々真琴は気づいていた。高橋の両親が切り盛りしていた洋食店で働いていた二年間、それとはなしに彼らの言葉の端々にそれを感じ取ることがあった。
後を継がない息子。有名大学に行き一流企業に勤めたのに、あっさりとそれを捨ててしまった息子。いくつもの可能性の中から選び取ったものが、お互いの理解の上にあったとは言い切れないのだ。
真琴も両親とは大学を中途退学して以来音信が途絶えている。残った年月分の学費はそのままにしてあるが、直接会って返す機会もそうないのはよく分かっていた。近くて遠い、遠すぎる存在。真琴にとっては、そうだ。
「ほんとに…めんどくさいね」
高橋は真琴にされるがまま、髪を撫でられていた。
「俺は、歩先輩が俺の親だと思ってるよ」
「親かよ」
「うん」
高橋が深く息を吐いて笑った。
「まあ、それもいいかもな」
そう言って顔を上げ体を起こすと、見下ろす真琴を見て、高橋は大きく伸びをした。
粗方仕事を片付けて、真琴は事務所を出た。高橋はまだやらねばならないことがあるので残っている。コーヒーを淹れてデスクに置き、あまり無理しないように言うと、いいから早く行けと手を振られた。
「今日は篠原さんとこだろ」
「うん」
「気を付けてけよ」
「ん、じゃあまた明日」
「ああ」
あれから3週間が経った今、毎週金曜日から週末は篠原の家で過ごすことが真琴の当たり前になっていた。
夜の道を歩いて行く。
歩道橋に差し掛かり、真琴はいつものように階段を上がって橋の真ん中で立ち止まった。
携帯を取り出して夜の淡い光を捉える。
切り取った世界は今この瞬間、自分だけのものだ。
温かな風に銀色の髪が揺れる。
来月にはカメラを買おうと決めていた。
そしてまた、新しい世界をそのファインダー越しに見ていきたい。
近くのスーパーに寄り、カレーの材料を買った。篠原のマンションに着くと、部屋を見上げる。明かりはまだついていなかった。
よかった、まだ帰ってなかった。
夕飯の準備は間に合いそうだ。
貰った合鍵を取り出して、真琴はエントランスをくぐった。
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